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第一章:環楽園の殺人
2/2「大地の歌が響いた」
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「――きろー起きろー起きろー起きろー」
迫りくる救急車のサイレンの如く繰り返される舞游の声で目が覚めた。
「起きろー起きろー起きろー、あ、起きた?」
「……朝からうるさい」
「もう十時だよ」
「十時は朝だろ……」
僕はあまり朝に強い方ではない。
「だって退屈だったんだもん。觜也は私のために此処に来たんだから、私が起きてる時間には常に起きててよね」
随分と滅茶苦茶な要求だ。
「でも十時か……、朝食って云うか、昼食? の時間はどうなってるんだ?」
「ん、私も起きて着替えてすぐ觜也のとこ来たから分かんない。でも基本的には食事は昼と夜の二食でやってくって話だったよね。だから十二時とかじゃない?」
その時、ゴオオと唸るような音と共に部屋の窓が揺さぶられた。
「そうそう、外見てご覧よ。すごい猛吹雪だよ」
ベッドから下りて窓まで歩み寄り、云われたとおりに外を覗いてみる。
眼下の一面……どころではない。視界のすべてが吹きすさぶ雪の白色で覆われていた。風も強く、絶えず雪が窓に打ち付けているためにどの程度の積雪なのかもいまいち窺えない。此処からは中庭が見られるはずだが、昨日はまだ見えていた遊歩道や噴水等は丸ごと飲み込まれ、その向こうの北館もそう遠くはないのに霞んでいた。周囲を囲む鬱蒼とした森が右に左に蠢く様がいかにも不気味に映る。
「本当に閉じ込められたな……」
「うんうん、こんなの初めて見たよ。これで食糧保管室が火事になったりしたら、レスキュー隊でも呼ぶしかないねー」
唄うようにぞっとしない想像を述べる舞游。しかし、そんな事態はまず有り得ないだろうし、きっとこの屋敷ならどこからか出火してもすぐに鎮火する設備が備わっているに違いない。こうして猛吹雪の中で孤立させられても、危機感は芽生えなかった。これが貧相な山小屋だったら話は別だが、実際は対極に位置するような頑強なお屋敷である。
「とりあえずリビングに行くか。有寨さん達も起きてるだろうし」
「そうだね」
舞游は元気が有り余っているのか僕のベッドの上で飛んだり跳ねたりし始め、僕はその間に洗面所で歯を磨いて顔を洗って着替えを済ませた。各客室にはシャワールームはついていないが、洗面所とトイレ、その他収納や簡単な湯沸かし器等はひととおり完備されている。
二人揃って廊下に出ると、微かなピアノの音が聞こえてきた。
「ピアノは……リビングにあったな」
単純な距離の問題でそう明瞭には聞こえないために演奏の巧拙までは分からないが、イメージ的に、弾いているのは杏味ちゃんだろうか。
「舞游って楽器はなにかできるの?」
「全然」
「まあ繊細な作業には向かないか」
「ちょっと。それって酷い偏見だ。繊細じゃなきゃ楽器が扱えないってのも単細胞っぽい決めつけだし」
舞游は割と強い力で僕の肩を叩いた。
二階まで下りたとき、ピアノの演奏はピタリと止まった。知らない曲だったが、最後まで弾ききったのではなく唐突に止めてしまったふうに聞こえた。気にせず折り返して一階に下りようとした僕らだったが、後ろから「おはよう」と声を掛けられる。
振り返ると、有寨さんがこちらに歩いてくるところだった。
「おはようございます」
「お兄ちゃん、さっきまで流れてた曲、聞いてた?」
「少しだけね。杏味が弾いていたんだろう。グスタフ・マーラーの『大地の歌』の一節だったと思うけれど、でもピアノ版はマイナーだし、本来が歌曲なのに伴奏だけしていたのがどうしてだかは分からない」
有寨さんは音楽の教養もあるのか、と感心しつつロビーまで下り、階段を迂回してリビングに行く。リビングの扉は開いていた。そうでなかったらピアノの音も三階の廊下までは届いていなかっただろうから当然ではある。当然ではあるのだが……。
「どうして開けっぱなしなんだ?」
リビングは暖房が点いておらず、廊下とあまり変わらない寒さだった。さらに窓にかかった分厚いカーテンも閉ざされたままで電気も点いていないため、昼間とは思えない薄暗さだ。この中で杏味ちゃんはピアノを弾いていたのだろうか。
しかも、もっと奇妙なことに、その杏味ちゃんの姿がどこにもなかった。調理室の方に行ったのか、あるいはロビーで僕らとは逆方向から階段を迂回したために入れ違いになったのか……。
「おかしいね」
有寨さんも怪訝そうな顔をしながら、リビングの扉を閉めて暖房を点け、カーテンを開いた。それである程度の明かりが差し込んできたが、それよりもこのどこか不吉さの漂う空気を壊すのにひと役買ったのは舞游の興奮した声だった。
「見て見て! すごい、ニメートルは積もってる!」
舞游の云うとおり、窓の外が長身の有寨さんを越す高さまで雪で埋まっていた。室内から見ると、地質断面図でも見せられているような具合だ。もっとも縞状ではなく、全体があまり綺麗とも云えない濁り気味の白色なのだが。
「これ、扉を開けたら一気に雪崩れ込んでくるね!」
ガラス張りの大きな窓は北館へ行くための扉を挟んで二つあり、さらにその隣にそれぞれ中庭に出るための小さな(これは相対的に小さいという意味で、要はおよそ一般的な大きさの)扉がある。
「いや、これは外開きだから開けようにも開けられないだろう」
有寨さんは冷静に述べた。僕はふと、雪とはいえこんなに積もれば大した負荷が扉や窓にかかっているのではと考えたが、しかしそれでどうにかなってしまうほどに柔な造りではないはずだ。見たところ、ガラスだってただ分厚いだけでなく、さらに二重構造である。
実に半分が雪で塞がれているのに加えて外は現在も猛吹雪なので、窓を開けても採光は微妙だった。そこで壁についたスイッチを押すと、天井から釣り下がった華美なシャンデリアが室内を煌々と照らした。
シャンデリアの真下にあるのが例の真っ赤なテーブルクロスで覆われた円卓で、僕はそれを囲む椅子のひとつに適当に座る。
「お兄ちゃん、霧余さんはまだ寝てるの?」
同じく僕の隣に座った舞游は、なんの体操か、だらしなく円卓の上に上半身を伏せて大きく広げた腕を自動車のワイパーのように振るという妙な動きをしていた。
「いや、俺より先に起きたようだよ。霧余は朝のシャワーを浴びる習慣があるから、浴場にいるんじゃないかな」
有寨さんも椅子のひとつに腰掛けた。その向こうにはグランドピアノが見えている。
「杏味ちゃんはどこに行ったんだろう……」
「トイレじゃない? 演奏も中断された感じだったし」
「……ああ」
見ると、ピアノの鍵盤蓋も持ち上げられたままだった。
そう深く考えることでもないか……。
「――きろー起きろー起きろー起きろー」
迫りくる救急車のサイレンの如く繰り返される舞游の声で目が覚めた。
「起きろー起きろー起きろー、あ、起きた?」
「……朝からうるさい」
「もう十時だよ」
「十時は朝だろ……」
僕はあまり朝に強い方ではない。
「だって退屈だったんだもん。觜也は私のために此処に来たんだから、私が起きてる時間には常に起きててよね」
随分と滅茶苦茶な要求だ。
「でも十時か……、朝食って云うか、昼食? の時間はどうなってるんだ?」
「ん、私も起きて着替えてすぐ觜也のとこ来たから分かんない。でも基本的には食事は昼と夜の二食でやってくって話だったよね。だから十二時とかじゃない?」
その時、ゴオオと唸るような音と共に部屋の窓が揺さぶられた。
「そうそう、外見てご覧よ。すごい猛吹雪だよ」
ベッドから下りて窓まで歩み寄り、云われたとおりに外を覗いてみる。
眼下の一面……どころではない。視界のすべてが吹きすさぶ雪の白色で覆われていた。風も強く、絶えず雪が窓に打ち付けているためにどの程度の積雪なのかもいまいち窺えない。此処からは中庭が見られるはずだが、昨日はまだ見えていた遊歩道や噴水等は丸ごと飲み込まれ、その向こうの北館もそう遠くはないのに霞んでいた。周囲を囲む鬱蒼とした森が右に左に蠢く様がいかにも不気味に映る。
「本当に閉じ込められたな……」
「うんうん、こんなの初めて見たよ。これで食糧保管室が火事になったりしたら、レスキュー隊でも呼ぶしかないねー」
唄うようにぞっとしない想像を述べる舞游。しかし、そんな事態はまず有り得ないだろうし、きっとこの屋敷ならどこからか出火してもすぐに鎮火する設備が備わっているに違いない。こうして猛吹雪の中で孤立させられても、危機感は芽生えなかった。これが貧相な山小屋だったら話は別だが、実際は対極に位置するような頑強なお屋敷である。
「とりあえずリビングに行くか。有寨さん達も起きてるだろうし」
「そうだね」
舞游は元気が有り余っているのか僕のベッドの上で飛んだり跳ねたりし始め、僕はその間に洗面所で歯を磨いて顔を洗って着替えを済ませた。各客室にはシャワールームはついていないが、洗面所とトイレ、その他収納や簡単な湯沸かし器等はひととおり完備されている。
二人揃って廊下に出ると、微かなピアノの音が聞こえてきた。
「ピアノは……リビングにあったな」
単純な距離の問題でそう明瞭には聞こえないために演奏の巧拙までは分からないが、イメージ的に、弾いているのは杏味ちゃんだろうか。
「舞游って楽器はなにかできるの?」
「全然」
「まあ繊細な作業には向かないか」
「ちょっと。それって酷い偏見だ。繊細じゃなきゃ楽器が扱えないってのも単細胞っぽい決めつけだし」
舞游は割と強い力で僕の肩を叩いた。
二階まで下りたとき、ピアノの演奏はピタリと止まった。知らない曲だったが、最後まで弾ききったのではなく唐突に止めてしまったふうに聞こえた。気にせず折り返して一階に下りようとした僕らだったが、後ろから「おはよう」と声を掛けられる。
振り返ると、有寨さんがこちらに歩いてくるところだった。
「おはようございます」
「お兄ちゃん、さっきまで流れてた曲、聞いてた?」
「少しだけね。杏味が弾いていたんだろう。グスタフ・マーラーの『大地の歌』の一節だったと思うけれど、でもピアノ版はマイナーだし、本来が歌曲なのに伴奏だけしていたのがどうしてだかは分からない」
有寨さんは音楽の教養もあるのか、と感心しつつロビーまで下り、階段を迂回してリビングに行く。リビングの扉は開いていた。そうでなかったらピアノの音も三階の廊下までは届いていなかっただろうから当然ではある。当然ではあるのだが……。
「どうして開けっぱなしなんだ?」
リビングは暖房が点いておらず、廊下とあまり変わらない寒さだった。さらに窓にかかった分厚いカーテンも閉ざされたままで電気も点いていないため、昼間とは思えない薄暗さだ。この中で杏味ちゃんはピアノを弾いていたのだろうか。
しかも、もっと奇妙なことに、その杏味ちゃんの姿がどこにもなかった。調理室の方に行ったのか、あるいはロビーで僕らとは逆方向から階段を迂回したために入れ違いになったのか……。
「おかしいね」
有寨さんも怪訝そうな顔をしながら、リビングの扉を閉めて暖房を点け、カーテンを開いた。それである程度の明かりが差し込んできたが、それよりもこのどこか不吉さの漂う空気を壊すのにひと役買ったのは舞游の興奮した声だった。
「見て見て! すごい、ニメートルは積もってる!」
舞游の云うとおり、窓の外が長身の有寨さんを越す高さまで雪で埋まっていた。室内から見ると、地質断面図でも見せられているような具合だ。もっとも縞状ではなく、全体があまり綺麗とも云えない濁り気味の白色なのだが。
「これ、扉を開けたら一気に雪崩れ込んでくるね!」
ガラス張りの大きな窓は北館へ行くための扉を挟んで二つあり、さらにその隣にそれぞれ中庭に出るための小さな(これは相対的に小さいという意味で、要はおよそ一般的な大きさの)扉がある。
「いや、これは外開きだから開けようにも開けられないだろう」
有寨さんは冷静に述べた。僕はふと、雪とはいえこんなに積もれば大した負荷が扉や窓にかかっているのではと考えたが、しかしそれでどうにかなってしまうほどに柔な造りではないはずだ。見たところ、ガラスだってただ分厚いだけでなく、さらに二重構造である。
実に半分が雪で塞がれているのに加えて外は現在も猛吹雪なので、窓を開けても採光は微妙だった。そこで壁についたスイッチを押すと、天井から釣り下がった華美なシャンデリアが室内を煌々と照らした。
シャンデリアの真下にあるのが例の真っ赤なテーブルクロスで覆われた円卓で、僕はそれを囲む椅子のひとつに適当に座る。
「お兄ちゃん、霧余さんはまだ寝てるの?」
同じく僕の隣に座った舞游は、なんの体操か、だらしなく円卓の上に上半身を伏せて大きく広げた腕を自動車のワイパーのように振るという妙な動きをしていた。
「いや、俺より先に起きたようだよ。霧余は朝のシャワーを浴びる習慣があるから、浴場にいるんじゃないかな」
有寨さんも椅子のひとつに腰掛けた。その向こうにはグランドピアノが見えている。
「杏味ちゃんはどこに行ったんだろう……」
「トイレじゃない? 演奏も中断された感じだったし」
「……ああ」
見ると、ピアノの鍵盤蓋も持ち上げられたままだった。
そう深く考えることでもないか……。
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