環楽園の殺人

凛野冥

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第一章:環楽園の殺人

2/3「はじめて観測した殺人」

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 ちょっと不可思議な状況になってきた。

 あの後すぐにシャワーを浴び終えた霧余さんもリビングにやって来たが、杏味ちゃんは未だに姿を見せるきざしがない。

 もう正午を回っている。食事はこの食堂を兼ねているリビングで皆で取ることにしようとは昨日決められており、杏味ちゃんも了解しているはずだ。なのにこの時間になってもやって来ない。朝方にピアノを弾いていたのだから、寝坊しているわけでもあるまい。

「部屋に引き取ってまた寝ちゃったのかもよ」

 舞游がそんな憶測を述べたのがきっかけとなり、有寨さんが「様子を見てくるよ」と杏味ちゃんの部屋に行った。

 昼食はまだつくり始まってもいない。霧余さんは杏味ちゃんが来てから一緒につくると云って、彼女を待ちつつ皆で談笑しているうちに気付けばこんな時間になっていた。……昨日の夕食は、舞游はともかくとして杏味ちゃんにも途中から手伝わなくていいと云い渡してひとりで拵えたらしい霧余さんだが、そのせいで予想以上に時間がかかってしまったのを受け、杏味ちゃんだけでもと思い直したのだろうか。

 やがて有寨さんが戻ってきたが、傍らに杏味ちゃんはいなかった。

「部屋じゃなかった?」

「いいや、部屋にいるらしいけれど、いくら呼び掛けても反応がない。皆も一緒に来てくれないか」

 僕らは軽く混乱したが、有寨さんの面持ちは真剣であった。全員がリビングを出て、杏味ちゃんの部屋に向かう。

「お兄ちゃん、ちょっと意味が分かんないんだけど」

「杏味の部屋は錠がかかっている。だから杏味が中にいるのは間違いないんだ」

 客室はすべて、内側から施錠できるようになっている。しかしそれは中からかけるのみで、外に出る際に施錠するための鍵はない(ホテルでもないのだから、すべての部屋にいちいち鍵をつくっても煩わしいだけだろう)。

「なのに呼び掛けて反応がないのはおかしい。眠っている程度なら目を覚ますはずだ。つまり杏味は発作かなにかを起こして昏倒している可能性がある。俺の知る限り杏味に持病や目立ったアレルギーはないが、もしもということは先に考えておかないと手遅れになる」

「となると……どうするんですか?」

「扉を蹴破るんだ。だから皆にも立ち会ってもらおうと思ってね」

「扉を蹴破る? お兄ちゃん、そこまでするのは、なんか早計じゃない?」

 僕も舞游に同意しかけたが、しかし有寨さんは本気で急を要する事態と考えているらしく、危機感が足りていない僕らの方が間違っているのではないかと思い直させられた。

 有寨さんは階段を上り終え、左右に一閃している二階の廊下を左方向に進む。杏味ちゃんの部屋はその奥だ。

「有寨、マスターキーがあるんじゃなかったかしら?」

 霧余さんがそう云った。それは昨日、屋敷を簡単に案内された際に僕も聞いていた。客室に限らず、屋敷の部屋の大半は内側からつまみを回して施錠するサムターン錠がついており、外側には鍵穴がある。各々の部屋用に鍵がつくられてはいないくせに鍵穴があるのは、いちおう外から施錠開錠するためにマスターキーがひとつあるかららしい。この屋敷に関する鍵は玄関のそれと内部の部屋のマスターキーの二つですべてとのことだ。

「駄目だ。マスターキーは杏味が管理している。いまは杏味の部屋の中だろう」

 まさにこういったときに使うべく存在しているはずのマスターキーだが、それが開けたい部屋の中に閉じ込められてしまうとは皮肉な状況だった。

「あれ、じゃあ杏味ちゃんは自分が持ってるマスターキーで錠をかけて部屋を出たってだけで、部屋の中にいないんじゃないの? そっちの方が自然だと思うけど」

「どうかな。俺は部屋を出る際に自分だけ錠をかけるのは不自然と思うよ。此処には俺らしかいないのに、なにを警戒すると云うんだい? 自分が中にいるときには、思春期の女の子なんだから錠をかけるのは頷けるだろう……だが、外に出るときに施錠するのはマスターキーを持ってる杏味にしかできないことで、杏味はそういう特権的な振る舞いを嫌っているんだ」

「でも扉を壊すなんていいの? 他人ひとの家なのにさ」

 それもこんな豪邸の扉を破壊するなんて、いかにもおそれ多い。

「他を探してみてからの最後の手段じゃない?」

 しかし舞游の現実的な提案に、有寨さんは迷うことなく首を横に振った。

「もし事態が切迫していた場合、そんなことに時間を費やすのは愚行だよ。この時間になっても杏味が姿を現さない以上、杏味はやむを得ない事情で動けないと考えた方が合理的だ。そしてこの施錠された部屋のことを併せれば、急いで扉を破るべきと分かる」

 屋敷の二階における西の最端、杏味ちゃんの部屋の前に僕らは辿り着いた。舞游が腑に落ちない表情のまま試しに扉を開けようとしたが、確かに錠がかかっており、扉はガタガタと音を立てながらわずかに前後に動くのみだ。

「舞游、下がっててくれ。扉を蹴破るのは俺がやるよ」

 僕らが少し離れて見守るなか、有寨さんは本当に容赦なく扉の中央を蹴った。だが一撃では扉が開くまでは至らない。有寨さんはニ撃、三撃と続ける。ミシミシと嫌な音が鳴って、木製の扉の表面は破れ、めくれ、亀裂が入る。あんなに思いきり蹴っては有寨さんの足の方も心配だが、靴を履いているのでいくらか衝撃は緩和されるのだろうか。

 扉に穴が開くのも時間の問題と思われたが、それより先に錠前の金具の一点で力を受けていた外枠の方が駄目になり、ボロボロになった扉がやっと奥に開いた。いきなり抵抗がなくなったことで有寨さんはバランスを崩したが、転びはしなかった。彼は少し息を荒げつつ「俺が見てくるよ」と中に這入っていった。

 客室の中の短い廊下を進み、有寨さんは奥のベッドルームまで着くや否や、ピタリと立ち止まった。彼が向いている先は、此処からでは壁にはばまれて見られない。

 次の瞬間、有寨さんは風を切るような勢いで振り返ると、小走りでこちらに駆け出した。彼は血相を変え、その動きもどこか名状し難い狂気に支配されているかのようで、僕らはわけも分からず息を呑んだ。有寨さんは廊下の途中にあるクローゼットを開け、トイレの扉を開け、洗面所の扉を開け、それからまたこちらを向いてから、云った。

「杏味は死んでいる」

 すぐには反応できなかった。僕だけでなく、皆、聞き間違いかと思っただろう。

「……本当に?」

 ようやく発せられた霧余さんの問いかけに、有寨さんは険しい表情で頷く。

「酷い状態だ。だからあまり見せたくはないんだけれど……これは全員がその目で確かめないといけないと思う。これはそういう……問題だ」

 有寨さんはそれからまた奥に進んでいった。ついて来いということ……だろうか。僕と舞游と霧余さんの三人は誰からともなく部屋に足を踏み入れた。

 そこで異臭に気が付いた。僕は鼻が詰まり気味だったが、なんだか生理的に受け付けないにおいがするのは確かだ。……そう云えば有寨さんはどうしてクローゼット、トイレ、洗面所の中を確かめたのだろうか。僕もそれらの横を通り過ぎながらちらと覗いていったが、別段変わった様子はない。そうしているうちにも強烈に嫌なにおいは加速度的に、噎せ返りそうになるほど強くなっており、そしてベッドルームに出たとき、最高潮に達した。

「きゃあっ」

 舞游か、霧余さんか、二人ともか、その叫び声が耳に入る。僕の方は一瞬のうちに許容量を遥かに上回る衝撃に襲われたせいで、もはや声も出せなかった。

 ベッドの上に、身体を縦に裂かれた杏味ちゃんの身体があった。

 裸にされ、頭頂部から股にかけて真っ直ぐ身体を切断されているその死体は、右半身と左半身とでちょうど二等分されている。断面は決して綺麗なものではない。人体のあらゆる構造を無視して両断されたため、執拗に刃を入れられたのだろう。切口はズタズタで、骨も形が崩れている。さらに断面からはやけに艶めかしい身体の中身がこぼれ出ており、右半身と左半身との隙間で血潮にまみれていた。

 ベッドとその周りの床は流れ出た血で真っ赤に染まっている。だが、どうやらベッドのシーツや掛布団は元から赤色のものだったらしい……赤色の上から赤黒い血が染み込んで、ほとんど区別なんてつかなくなっているが、白い部分が微塵もないのはそういうわけだろう。

 真っ二つにされた死体と大量の血が発する死臭は部屋中に重く立ち込めており、空気に血液が混じって漂っているかのようにさえ感じられた。

 しばらくその惨状に釘付けになっていた僕だったが、不意に猛烈な吐き気が込み上げてきたため、慌てて視線を外した。僕の隣では口元を押さえた舞游がうつむいて、肩を震わせている。

「殺人ね」

 霧余さんの声。その声はしかし、恐怖よりは興奮が勝っているような響きだ。

「自分で自分の身体をこんなふうにはできないわ。のこぎりかなにかでしょうけれど、使われた凶器も見当たらないし」

 殺人?

 僕はその言葉の意味を理解できなかった。いや、分かりはする。殺人という言葉自体がどんな意味なのかなんて、知っていて当然だ。しかしそれがいま、この場合、なにを意味してしまうのか……二次的に、なにを示唆しさしてしまうのか……殺された人間がいるなら……それはすなわち……。

 眩暈がして、僕はよろめいた。咄嗟の判断で真後ろにあったひとり用のソファーに倒れ掛かるように腰を下ろす。そうしたことで、僕の視界の端に一冊の本が現れた。それはソファーの横に置かれた小さなテーブルの上にあった。

『ナグ・ハマディ写本』。

 杏味ちゃんが昨夜、図書室から持ち出していた本だ。

 僕はその本に妙な膨らみがあるとすぐに気付く。どうやら本の中になにかが挟まれているらしい。僕は深い考えもなく、なにかが挟まっていることで空いた隙間に指を入れ、そこで本を開いた。

「あっ」

 今度は声が洩れた。有寨さんの「どうしたんだい」という問い掛けが聞こえる。

 僕は『ナグ・ハマディ写本』に挟まれていたそれを摘まみ上げた。

「これ……マスターキーじゃないですか……?」

 有寨さんが恐る恐るといったふうに「どこにあったんだい」と重ねて問う。

「この本に、挟まれてました……」

「密室殺人だわ!」

 霧余さんが、今度こそ確実に興奮した声で云った。

「此処が二階ということを抜きにしても、窓には内側からしっかりと錠がかかってる。出入り口の扉も同様。部屋には杏味ちゃんの死体があるだけで、他に誰かが潜んでいるということもない。そして扉を外から施錠するための唯一の手段であるマスターキーは、部屋の中にあった……」

 見ると、確かに部屋の窓には錠がかかっている。有寨さんが蹴破った扉とその窓の他に、この部屋に出入りする経路はない。

「舞游ちゃん、すごいわ、密室殺人よ!」

 僕は信じられない思いで霧余さんの顔を見た。密室がどうとかいうことより、まるでこの状況を楽しんでいるかのような彼女の様子の方が僕に混乱をもたらした。杏味ちゃんのあんな姿を前に、どうしてそんな態度が取れるのだ。どうしてすかさず現場の状況を分析するような冷静な真似ができるのだ。

 舞游は「……うん」と、辛うじて答えるのみだった。彼女はその場にうずくまって、いまにも吐きそうだ。

「舞游、そ、外に出よう、一旦」

 僕はすっかり力が抜けてしまっている身体でなんとか立ち上がり、舞游の肩に軽く手を添えた。すると彼女は半ば僕にもたれ掛かるようにして、首を縦に振った。僕はそのまま、ゆっくりと部屋の外に向かって歩き始める。

「觜也くん」

 後ろから有寨さんに呼ばれた。

「舞游を部屋から出すのはいいけれど、二人とも部屋の前にいてくれ。この屋敷には殺人犯が潜んでいるんだからね」

「……はい、分かってます」

 そうなのだ。

 殺された人間がいるなら、それはすなわち、殺した人間がいるということなのだ。
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