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第二章:結鷺觜也の黙示録
5/4「パラダイム・シフト」
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「――その時には、すべての光の子たちは本当に真理と自分たちの根源と万物の父と聖霊とを知るであろう。彼らはすべて声をひとつにして言うであろう、『父の真理は義である。そして御子は万物の上にあり、あらゆるものを貫いている。永遠から永遠まで。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、アーメン』と」
廊下館を進みながら、杏味ちゃんはなにかの一節を淡々と暗唱した。
「……なんの引用?」
掠れた声で問い掛けると、杏味ちゃんは振り返りもせずに答える。
「『ナグ・ハマディ文書』のひとつである『アルコーンの本質』からですわ。もっともこれはウァレンティノス派ではなくセツ派なんですけれど」
杏味ちゃんは廊下館の最も奥、北館の扉の前で立ち止まった。
「私達の〈四日間〉がアフガン・バンド・トリックによって〈八日間〉となるのは、結鷺さんももうお分かりですか?」
僕は杏味ちゃんに追いついた。
「……ああ、現実では四日間なのに、僕らはそれを八日間として過ごすということだよね」
「ええ。と云いましても正確には〈三泊四日〉の初日と最終日は丸一日ではないため、対となって生まれた〈三泊四日〉のそれと結合してちょうど〈六日間〉になるのですけれど、それはともかく、これより始まる後半は北館で過ごそうという趣向なのですよ。ゆえの北館の解禁というわけです」
「……この北館もアフガン・バンド・トリックによって南館の対として生まれたのか」
すると杏味ちゃんは僕の方をちらと見てから微かに笑った。人を馬鹿にしたような嫌な笑い方だった。さらにその顔には舞游の血がべっとりと付着しているため、壮絶な生理的嫌悪感を掻き立てられる。
「それは見当違いですわ。アフガン・バンド・トリックが分裂させるのは〈メビウスの帯〉を構成する私と有寨先生と華際さんと舞游さん……それと、そこに付随した〈四日間〉だけです。結鷺さん、貴方はまだ環楽園理論を正しく導き出せていないようですわね」
いや、その理屈は分かっているはずだった。いまのは一時の誤った思い付きが、検討もされないうちにふと洩れてしまっただけである。僕はもう頭がどうにかなりそうで、発言に気を配る余裕なんて失っているのだ。
杏味ちゃんは扉を開いた。漠然とリビングでも広がっているのではと想像していたが、現れたのはまた廊下だった。廊下は直進し、突き当たりで左右に折れている。内装は南館と変わらないけれど、建物自体の大きさ同様にいくらかスケールが落ちる感はあった。
「こっちですわ」
杏味ちゃんは廊下を突き当たりまで進むと左に曲がり、左手の最も手前の部屋に這入った。そこは学校の教室くらいの広さを持つプライベート・バーだった。どこかのクラブかと思うような装いの室内は、ぼうっと妖しい青色の明かりで満たされている。奥の壁は多種多様な酒やグラスの類を収めた棚で塞がれ、その前にはカウンター、部屋には他にもガラス製のロー・テーブルを囲む革張りのソファー、ビリヤードの台、他よりもちょっと高くなっている半円形のステージ、壁にはダーツの的なんかもある。
ソファーのひとつには、右半身と左半身を分断なんてされていない、確かに生きている有寨さんと霧余さんが並んで腰掛けていた。有寨さんは「では私はシャワーを浴びるので」と断って出ていく血濡れの杏味ちゃんに「ご苦労様、杏味」と言葉を掛けた後、視線を僕に向け、あの爽やかな笑みを浮かべた。
「やあ、觜也くん。環楽園は楽しんでもらえているかい?」
「……楽しいわけが、ないでしょう」
聞こえても聞こえなくてもどちらでも構わないと思っての声量だったが、霧余さんが「あら、声が掠れてるじゃない。こっちに来て喉を潤しなさい」と相変わらずの色気を帯びた声で云ってくる。
座りたいのと飲み物が飲みたいのは事実だったので、僕は二人と向かい合う位置のソファーに腰を下ろした。テーブルの上にはあらかじめ僕用のグラスがひとつ置かれてあり、霧余さんがそれに淡い薄黄色の液体を注いだ。たぶん、白ワインだろう。この際なんでもいいと思い、僕はそれを一気に飲み干した。喉の奥がほんのり熱くなる。
空になったグラスをテーブルに置くと、霧余さんはまたそれを白ワインで満たした。僕は今度はひと口飲むだけでそれをテーブルに戻した。
有寨さんと霧余さんは興味深そうにそんな僕を観察している。二人のその態度が、いまの僕には癇に障って仕方がない。
僕を見ているのはこの二人だけではなかった。もうひとり、いや、正確には一匹、ウロちゃんという呼び名を与えられた白蛇が霧余さんの肩の上で紅い瞳をこちらに向けていた。
「蛇は一匹だけじゃあ、なかったんですか」
その蛇は死んだはずだ。頭を潰され、霧余さんの死体に天使の輪でも添えるかのような格好で〈ウロボロスの蛇〉とされていた。
「このウロちゃんは貴方が見たウロちゃんと同一よ。杏味ちゃんが特になにも云わなかったってことは、貴方は同一のウロちゃんが二匹存在する所以はだいたい把握してるんじゃないのかしら」
「……それは、おかしいです。だってその蛇は殺人リレーの中には組み込まれていないし、センターラインを切断されてもいない。〈対〉が生まれるのは変だ」
すると有寨さんがシャツの胸ポケットからなにかを取り出し、テーブルの上に置いた。それはマスターキーだった。僕はハッと気が付いて自分のポケットを探り、同じくマスターキーを取り出し、見比べる。
「合鍵……?」
「馬鹿を云っちゃいけないよ、觜也くん。此処にある二つのマスターキーは同一であり、ひとつだ」
僕が反応に窮するのをよそに、有寨さんは続ける。
「俺達はアフガン・バンド・トリックによって、それぞれひとりが一対……二人に増えた。それは俺達に付随するものについても同様だ。俺達の四日間は八日間になったし、身に着ける衣服も同一のものが二つ存在することになった。分かるかい? 俺達はそれぞれ二人いるんだから、俺達が持ち込んだものも二つずつあることになるのさ」
マスターキーは杏味ちゃんが持ってきたものだ。マスターキーを持つ杏味ちゃんが二人いるなら、〈彼女達〉が持つマスターキーも二つ存在することになる……?
「じゃあ、あの密室は……」
生徒が問題に正答するのを見て満足する教師のような顔で、有寨さんは頷いた。
第一の殺人は密室殺人だった。合鍵があると考えれば簡単に解決できたが、しかし合鍵をつくってまで密室を創出するのはデメリットしかないために不可解であり……だが、鍵は二つ存在していたのだ。マスターキーの合鍵を、それとは別にもうひとつつくったのではない。ひとつあるだけで、マスターキーは二つ存在し得たのだ。ならあんな密室、造作もない。マスターキーのひとつが室内に残されていたところで、もう片方を使えば外から施錠できてしまうのだから……。
「蛇に施錠させるトリックもアイデアとしては面白いけれどね、如何せん現実的じゃない。蛇が暗い閉所を好むといっても、そう都合良く目につかない場所に隠れてくれる保証はないだろう? 室内に蛇がいるのを発見されれば、その時点で霧余は容疑者筆頭にされてしまう。そんなリスクを負って密室をつくろうなんていうのは、合鍵の作製以上に不整合だ」
この究極に非現実的な空間で『現実的じゃない』という指摘を受けるなんて諧謔もここに極まれりというものだったけれど、有寨さんの言は正しかった。
そうなのだ。杏味ちゃんが云うところの〈環楽園理論〉なる点に目を瞑れば、一連の事件にはたちまち現実的な解答が与えられる。なにせこの屋敷には初めから五人ではなく九人の人間がおり、僕以外の八人が僕を相手に常軌を逸した茶番劇を演じていたというのだから。
これではアリバイなんてものに意味はない。同じ人間が二人いたならば、片方にアリバイがあったところで、もう片方は自由に行動できたということである。杏味ちゃんが殺された後でも杏味ちゃんはピアノを弾けたし、有寨さんが僕と共にいる間でも有寨さんはロビーで霧余さんの死体を引きずり回せた。僕以外は皆が裏で示し合わせて行動していたというのだから、数々の不可能は簡単につくり出せただろう。有寨さんと僕と舞游とで屋敷中を捜索したときだって、有寨さんはどこかの部屋の中に潜んでいたもうひとりの自分の存在を黙っていただけだ。それ以外のときは、万が一僕がもうひとりの有寨さんや霧余さんに出会ってしまったところで、同じ場に同一人物が居合わせない限りは不都合は生じない。
まるでドッペルゲンガーだ、と僕は苦笑した。力ない笑い声が口から洩れる。
「は、はは……もう、勘弁してくださいよ。全部、冗談なんでしょう? 皆で僕をからかってるだけだ……あの死体も全部、作り物だったんだ……」
有寨さんと霧余さんはまるで動じず、やはり僕を観察するように眺めている。
「觜也くん、心にもないことを云うべきじゃないよ。俺達の死体が本物だったと、君はよく分かっているだろう?」
「じゃあ!」
自分が声を張り上げていることに、僕は自分で驚いていた。
「じゃあ、貴方達は皆双子だったんだ! 貴方達は皆、自分の双子の兄弟を惨殺しただけなんだ!」
それしかない。それしか有り得ない。環楽園? ウロボロスの蛇? メビウスの帯? アフガン・バンド・トリック? 同一の人間が二人いた? そんな超自然現象、受け入れられるわけがない。荒唐無稽にもほどがある。馬鹿馬鹿しい。話にならない。全部、愚にも付かない大ぼらだ。こんな出来の悪いペテンに引っ掛かって堪るものか。
「ねえ、結鷺くん」
ふぅー、と煙草の煙を吐いて、霧余さんは僕に憐れむような視線を向けた。
「自分の常識に反するものって怖い? いままで信じてきたものがひっくり返されるのって許せない?」
答えられない僕を、彼女は「ふっ」と鼻で笑った。
「唯物論に囚われた連中は、その体系で説明のつけられない現象に直面すると決まって拒絶反応を起こす。自分達の認識に間違いがあるとは疑いもせず、現象の方を歪曲して無理矢理〈科学的な〉説明をつける。その凝り固まった頭はもはや死んでいるわ。自分達の常識を脅かすものを頑なに受け入れようとせず、変化を恐れ、革命に慄き、これらを断絶しようと抑えつける。本当に愚かしい。どうしてすべての事象が自分達を納得させてくれる一定の法則で成り立ってると頑迷に信じ込めるのかしら。人間の分際で神羅万象をもう紐解けたつもりでいるなんて、傲慢どころの話じゃないわよ」
霧余さんは煙草を灰皿に強く強く押しつけた。
「結鷺くん、不条理を受け入れなさい。条理をこそ排斥しなさい。〈便宜上〉という憎むべき恣意の下に塗り固められた偽りの常識の中に、真実はないわ。この環楽園はパラダイム・シフトの体現であって、此処において私達は欺瞞に満ちた世界から脱し、真実に至ることができるの」
パラダイム・シフト……。僕が直面しているこの環楽園は、まさに唯物的な世界に反旗を翻し、観念や認識を核とする新たな理の下に成り立っている。此処は至高神の圏域――〈唯心の世界〉であり、造物神と彼がつくった〈唯物の世界〉は悪と見なされている……。
「觜也くん、君は俺達が全員双子だったなんて本気で云っているんじゃないだろう? いくら一卵性双生児でも、この歳でまったく見分けがつけられないなんてことはない。俺や霧余や杏味ならともかく、君は舞游のことまでも――」
「舞游っ、そうです、舞游はどこですかっ!」
彼女は生きているのだ。杏味ちゃん、有寨さん、霧余さんに同じく、彼女も生きていなければおかしい。
「舞游に会わせてください!」
会いたい。とにかく舞游に会いたい。
有寨さんが「舞游は部屋にいるよ。この北館の、二階の一番西だ」と答えるのを聞くや否や僕は立ち上がって、駆け出した。バーから廊下に出る間際に有寨さんの「觜也くん、環楽園理論を完成させるんだ」という言葉が聞こえた。
「――その時には、すべての光の子たちは本当に真理と自分たちの根源と万物の父と聖霊とを知るであろう。彼らはすべて声をひとつにして言うであろう、『父の真理は義である。そして御子は万物の上にあり、あらゆるものを貫いている。永遠から永遠まで。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、アーメン』と」
廊下館を進みながら、杏味ちゃんはなにかの一節を淡々と暗唱した。
「……なんの引用?」
掠れた声で問い掛けると、杏味ちゃんは振り返りもせずに答える。
「『ナグ・ハマディ文書』のひとつである『アルコーンの本質』からですわ。もっともこれはウァレンティノス派ではなくセツ派なんですけれど」
杏味ちゃんは廊下館の最も奥、北館の扉の前で立ち止まった。
「私達の〈四日間〉がアフガン・バンド・トリックによって〈八日間〉となるのは、結鷺さんももうお分かりですか?」
僕は杏味ちゃんに追いついた。
「……ああ、現実では四日間なのに、僕らはそれを八日間として過ごすということだよね」
「ええ。と云いましても正確には〈三泊四日〉の初日と最終日は丸一日ではないため、対となって生まれた〈三泊四日〉のそれと結合してちょうど〈六日間〉になるのですけれど、それはともかく、これより始まる後半は北館で過ごそうという趣向なのですよ。ゆえの北館の解禁というわけです」
「……この北館もアフガン・バンド・トリックによって南館の対として生まれたのか」
すると杏味ちゃんは僕の方をちらと見てから微かに笑った。人を馬鹿にしたような嫌な笑い方だった。さらにその顔には舞游の血がべっとりと付着しているため、壮絶な生理的嫌悪感を掻き立てられる。
「それは見当違いですわ。アフガン・バンド・トリックが分裂させるのは〈メビウスの帯〉を構成する私と有寨先生と華際さんと舞游さん……それと、そこに付随した〈四日間〉だけです。結鷺さん、貴方はまだ環楽園理論を正しく導き出せていないようですわね」
いや、その理屈は分かっているはずだった。いまのは一時の誤った思い付きが、検討もされないうちにふと洩れてしまっただけである。僕はもう頭がどうにかなりそうで、発言に気を配る余裕なんて失っているのだ。
杏味ちゃんは扉を開いた。漠然とリビングでも広がっているのではと想像していたが、現れたのはまた廊下だった。廊下は直進し、突き当たりで左右に折れている。内装は南館と変わらないけれど、建物自体の大きさ同様にいくらかスケールが落ちる感はあった。
「こっちですわ」
杏味ちゃんは廊下を突き当たりまで進むと左に曲がり、左手の最も手前の部屋に這入った。そこは学校の教室くらいの広さを持つプライベート・バーだった。どこかのクラブかと思うような装いの室内は、ぼうっと妖しい青色の明かりで満たされている。奥の壁は多種多様な酒やグラスの類を収めた棚で塞がれ、その前にはカウンター、部屋には他にもガラス製のロー・テーブルを囲む革張りのソファー、ビリヤードの台、他よりもちょっと高くなっている半円形のステージ、壁にはダーツの的なんかもある。
ソファーのひとつには、右半身と左半身を分断なんてされていない、確かに生きている有寨さんと霧余さんが並んで腰掛けていた。有寨さんは「では私はシャワーを浴びるので」と断って出ていく血濡れの杏味ちゃんに「ご苦労様、杏味」と言葉を掛けた後、視線を僕に向け、あの爽やかな笑みを浮かべた。
「やあ、觜也くん。環楽園は楽しんでもらえているかい?」
「……楽しいわけが、ないでしょう」
聞こえても聞こえなくてもどちらでも構わないと思っての声量だったが、霧余さんが「あら、声が掠れてるじゃない。こっちに来て喉を潤しなさい」と相変わらずの色気を帯びた声で云ってくる。
座りたいのと飲み物が飲みたいのは事実だったので、僕は二人と向かい合う位置のソファーに腰を下ろした。テーブルの上にはあらかじめ僕用のグラスがひとつ置かれてあり、霧余さんがそれに淡い薄黄色の液体を注いだ。たぶん、白ワインだろう。この際なんでもいいと思い、僕はそれを一気に飲み干した。喉の奥がほんのり熱くなる。
空になったグラスをテーブルに置くと、霧余さんはまたそれを白ワインで満たした。僕は今度はひと口飲むだけでそれをテーブルに戻した。
有寨さんと霧余さんは興味深そうにそんな僕を観察している。二人のその態度が、いまの僕には癇に障って仕方がない。
僕を見ているのはこの二人だけではなかった。もうひとり、いや、正確には一匹、ウロちゃんという呼び名を与えられた白蛇が霧余さんの肩の上で紅い瞳をこちらに向けていた。
「蛇は一匹だけじゃあ、なかったんですか」
その蛇は死んだはずだ。頭を潰され、霧余さんの死体に天使の輪でも添えるかのような格好で〈ウロボロスの蛇〉とされていた。
「このウロちゃんは貴方が見たウロちゃんと同一よ。杏味ちゃんが特になにも云わなかったってことは、貴方は同一のウロちゃんが二匹存在する所以はだいたい把握してるんじゃないのかしら」
「……それは、おかしいです。だってその蛇は殺人リレーの中には組み込まれていないし、センターラインを切断されてもいない。〈対〉が生まれるのは変だ」
すると有寨さんがシャツの胸ポケットからなにかを取り出し、テーブルの上に置いた。それはマスターキーだった。僕はハッと気が付いて自分のポケットを探り、同じくマスターキーを取り出し、見比べる。
「合鍵……?」
「馬鹿を云っちゃいけないよ、觜也くん。此処にある二つのマスターキーは同一であり、ひとつだ」
僕が反応に窮するのをよそに、有寨さんは続ける。
「俺達はアフガン・バンド・トリックによって、それぞれひとりが一対……二人に増えた。それは俺達に付随するものについても同様だ。俺達の四日間は八日間になったし、身に着ける衣服も同一のものが二つ存在することになった。分かるかい? 俺達はそれぞれ二人いるんだから、俺達が持ち込んだものも二つずつあることになるのさ」
マスターキーは杏味ちゃんが持ってきたものだ。マスターキーを持つ杏味ちゃんが二人いるなら、〈彼女達〉が持つマスターキーも二つ存在することになる……?
「じゃあ、あの密室は……」
生徒が問題に正答するのを見て満足する教師のような顔で、有寨さんは頷いた。
第一の殺人は密室殺人だった。合鍵があると考えれば簡単に解決できたが、しかし合鍵をつくってまで密室を創出するのはデメリットしかないために不可解であり……だが、鍵は二つ存在していたのだ。マスターキーの合鍵を、それとは別にもうひとつつくったのではない。ひとつあるだけで、マスターキーは二つ存在し得たのだ。ならあんな密室、造作もない。マスターキーのひとつが室内に残されていたところで、もう片方を使えば外から施錠できてしまうのだから……。
「蛇に施錠させるトリックもアイデアとしては面白いけれどね、如何せん現実的じゃない。蛇が暗い閉所を好むといっても、そう都合良く目につかない場所に隠れてくれる保証はないだろう? 室内に蛇がいるのを発見されれば、その時点で霧余は容疑者筆頭にされてしまう。そんなリスクを負って密室をつくろうなんていうのは、合鍵の作製以上に不整合だ」
この究極に非現実的な空間で『現実的じゃない』という指摘を受けるなんて諧謔もここに極まれりというものだったけれど、有寨さんの言は正しかった。
そうなのだ。杏味ちゃんが云うところの〈環楽園理論〉なる点に目を瞑れば、一連の事件にはたちまち現実的な解答が与えられる。なにせこの屋敷には初めから五人ではなく九人の人間がおり、僕以外の八人が僕を相手に常軌を逸した茶番劇を演じていたというのだから。
これではアリバイなんてものに意味はない。同じ人間が二人いたならば、片方にアリバイがあったところで、もう片方は自由に行動できたということである。杏味ちゃんが殺された後でも杏味ちゃんはピアノを弾けたし、有寨さんが僕と共にいる間でも有寨さんはロビーで霧余さんの死体を引きずり回せた。僕以外は皆が裏で示し合わせて行動していたというのだから、数々の不可能は簡単につくり出せただろう。有寨さんと僕と舞游とで屋敷中を捜索したときだって、有寨さんはどこかの部屋の中に潜んでいたもうひとりの自分の存在を黙っていただけだ。それ以外のときは、万が一僕がもうひとりの有寨さんや霧余さんに出会ってしまったところで、同じ場に同一人物が居合わせない限りは不都合は生じない。
まるでドッペルゲンガーだ、と僕は苦笑した。力ない笑い声が口から洩れる。
「は、はは……もう、勘弁してくださいよ。全部、冗談なんでしょう? 皆で僕をからかってるだけだ……あの死体も全部、作り物だったんだ……」
有寨さんと霧余さんはまるで動じず、やはり僕を観察するように眺めている。
「觜也くん、心にもないことを云うべきじゃないよ。俺達の死体が本物だったと、君はよく分かっているだろう?」
「じゃあ!」
自分が声を張り上げていることに、僕は自分で驚いていた。
「じゃあ、貴方達は皆双子だったんだ! 貴方達は皆、自分の双子の兄弟を惨殺しただけなんだ!」
それしかない。それしか有り得ない。環楽園? ウロボロスの蛇? メビウスの帯? アフガン・バンド・トリック? 同一の人間が二人いた? そんな超自然現象、受け入れられるわけがない。荒唐無稽にもほどがある。馬鹿馬鹿しい。話にならない。全部、愚にも付かない大ぼらだ。こんな出来の悪いペテンに引っ掛かって堪るものか。
「ねえ、結鷺くん」
ふぅー、と煙草の煙を吐いて、霧余さんは僕に憐れむような視線を向けた。
「自分の常識に反するものって怖い? いままで信じてきたものがひっくり返されるのって許せない?」
答えられない僕を、彼女は「ふっ」と鼻で笑った。
「唯物論に囚われた連中は、その体系で説明のつけられない現象に直面すると決まって拒絶反応を起こす。自分達の認識に間違いがあるとは疑いもせず、現象の方を歪曲して無理矢理〈科学的な〉説明をつける。その凝り固まった頭はもはや死んでいるわ。自分達の常識を脅かすものを頑なに受け入れようとせず、変化を恐れ、革命に慄き、これらを断絶しようと抑えつける。本当に愚かしい。どうしてすべての事象が自分達を納得させてくれる一定の法則で成り立ってると頑迷に信じ込めるのかしら。人間の分際で神羅万象をもう紐解けたつもりでいるなんて、傲慢どころの話じゃないわよ」
霧余さんは煙草を灰皿に強く強く押しつけた。
「結鷺くん、不条理を受け入れなさい。条理をこそ排斥しなさい。〈便宜上〉という憎むべき恣意の下に塗り固められた偽りの常識の中に、真実はないわ。この環楽園はパラダイム・シフトの体現であって、此処において私達は欺瞞に満ちた世界から脱し、真実に至ることができるの」
パラダイム・シフト……。僕が直面しているこの環楽園は、まさに唯物的な世界に反旗を翻し、観念や認識を核とする新たな理の下に成り立っている。此処は至高神の圏域――〈唯心の世界〉であり、造物神と彼がつくった〈唯物の世界〉は悪と見なされている……。
「觜也くん、君は俺達が全員双子だったなんて本気で云っているんじゃないだろう? いくら一卵性双生児でも、この歳でまったく見分けがつけられないなんてことはない。俺や霧余や杏味ならともかく、君は舞游のことまでも――」
「舞游っ、そうです、舞游はどこですかっ!」
彼女は生きているのだ。杏味ちゃん、有寨さん、霧余さんに同じく、彼女も生きていなければおかしい。
「舞游に会わせてください!」
会いたい。とにかく舞游に会いたい。
有寨さんが「舞游は部屋にいるよ。この北館の、二階の一番西だ」と答えるのを聞くや否や僕は立ち上がって、駆け出した。バーから廊下に出る間際に有寨さんの「觜也くん、環楽園理論を完成させるんだ」という言葉が聞こえた。
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