環楽園の殺人

凛野冥

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第一章:環楽園の殺人

5/3「大いなる理論への到達」

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 何度も倒れそうになりながら円卓のふちまでやって来て、僕は椅子のひとつに座った。

 すぐ目の前に変わり果てた舞游の姿がある。

 突然吐き気が込み上げてきて、僕は床に嘔吐した。ろくな食事を取っていなかったため、出るのは胃液ばかりだった。

 ようやく嘔吐が終わって、ぐったりと背凭れに凭れ掛かる。

 舞游の死体を見据えるその視界が、ぼんやりと滲んでいく。僕は、泣いているのか。

 僕の哀れな泣き声が、だだっ広いリビングに虚しく響く。

 これで生きているのは僕ひとりだ。僕を残して、他の四人は全員殺されてしまった。

 ――四人。

 一瞬、僕の体感のすべてが静止した。再び動き出すと、僕の意思とは無関係に、様々な単語が、文章が、現象が、観念が、次々と結び付き始めた。

 四……それは神聖数だ。〈八つのもの〉――オグドアスは四対八個組であり、これは両性具有の実現という側面を持っている。オグアドスがいるのはプレーローマの最奥の領域。プレーローマとは上位世界であり充満世界であり超永遠世界であり、人間の真実である。人間の最終的な救いとは、まさにこのプレーローマに帰還することだ。

 ……思考が進んでいくのとは別に、僕の視界は舞游の頭の先に紙切れが置かれているのを捉えている。血溜まりの中に半分沈んだその紙切れには『r = 0』とだけ記されている。僕はポケットの中から、別の紙切れ――有寨さんの死体が握っていたそれを取り出した。そこには〈メビウスの帯〉を指す式が書かれている。これに『r = 0』を代入するとどうなる?

〈メビウスの帯〉と〈ウロボロスの蛇〉は〈永遠〉を象徴する。プレーローマも〈超永遠世界〉であり、それを満たすアイオーンもまた〈永遠〉を意味している。

 杏味ちゃんを霧余さんが殺した。その霧余さんを有寨さんが殺した。その有寨さんを舞游が殺した。この殺人の連鎖は一匹の蛇だ。四つの死体から成り立っている蛇なのだ。

 四つの死体から成り立っている蛇が、その頭が、その尻尾を咥える。

 ウロボロスの蛇。自らの尻尾を咥えた〈永遠〉――〈死と再生〉の象徴。そして〈始まりも終わりもない〉ことをも表す。〈メビウスの帯〉にもまた〈始まりも終わりもない〉。

 杏味ちゃん、霧余さん、有寨さん、舞游。この蛇の頭にあたるのは杏味ちゃんで、尻尾にあたるのが舞游だ。この蛇が自分の尻尾を咥えるということは、杏味ちゃんが舞游を殺すということ。それで〈ウロボロスの蛇〉は完成する。

 矢印の向きを〈殺害〉とすれば、〈―杏味ちゃん←―霧余さん←―有寨さん←―舞游←〉だ。始まりも終わりもない〈ウロボロスの蛇〉である。

 だが、違う。これは〈ウロボロスの蛇〉的構造というだけで、その実態は〈メビウスの帯〉なのだ。どちらも〈始まりも終わりもない永遠〉だけれど、両者にはある決定的な違いがある。

 有寨さんが書き残した〈メビウスの帯〉の式に『r = 0』を代入したとき、三次元ユークリッド空間上に現れるのはきっと閉曲線だ。これは〈メビウスの帯〉の中央を通る線であり、たしかセンターラインと呼ばれているのだった。

 帯状の長方形の端を百八十度ひねり、もう片方の端に繋げて完成する図形である〈メビウスの帯〉にはある性質がある。それはこのセンターライン上を切って一周すると、二つの帯に分かれるのではなく、より大きなひとつの帯になるというものだ。……普通は帯の真ん中に沿ってこれを切断すれば二つの帯に分裂してしてしまうけれど、百八十度のひねりが加えられた〈メビウスの帯〉は分裂せずに大きさが二倍になるだけなのである。

 ……この性質は子供騙しのマジックに利用されることがあり、それで僕も知っていた。この性質――トリックのことをアフガン・バンド・トリックというらしい。

 四人の死体はすべて、頭頂部から股にかけて真っ直ぐ切断されていた。センターラインを、切断されていた。

 杏味ちゃん、霧余さん、有寨さん、舞游の四人の死体から成る蛇が〈ウロボロスの蛇〉的に〈メビウスの帯〉をつくり出した。そのセンターラインを切断すれば、これはひとつの大きな帯になる。連続していた〈四〉の環が二倍……〈八〉の環に変わる。

 ……オグドアスは〈対〉とは云っても、それぞれ同一な神的存在の二つの側面である――また、一周すると〈裏側〉に帰ってきてしまう性質をも持った〈メビウスの帯〉……。

 四人の人間で成り立っていた環が八人の人間で成り立つ環に変わったということは、すなわち同一の人物がそれぞれ二人に増えたということだ。四人組が四対八人組に変わったということなのだ。

〈―杏味ちゃん←―霧余さん←―有寨さん←―舞游←〉が〈―杏味ちゃん←―霧余さん←―有寨さん←―舞游←―杏味ちゃん←―霧余さん←―有寨さん←―舞游←〉になったのである。

 ……四人で殺人リレーをしても最後に〈ウロボロスの蛇〉的に環を為すには、第一の被害者が第四の被害者を殺さなければならない。だが第一の被害者は既に死んでいるために第四の被害者を殺すことはできない。

 しかし、第一の被害者が、まったくの同一人物が、二人存在していたら?

 まだ生きている方の第一の被害者が、第四の被害者を殺害すればいいんじゃないか?

「は、はは……はははは……ははははは……」

 乾いた笑い声が、口から洩れる。

 なんだこの理論は? 順序がまるでちぐはぐじゃないか。

 第四の被害者を第一の被害者が殺せば〈ウロボロスの蛇〉的に〈メビウスの帯〉が完成し、アフガン・バンド・トリックによって同一人物がそれぞれ二人に分裂してひとつの帯を為す。しかし第四の被害者を第一の被害者が殺す以前に第一の被害者が二人に分裂しているというのは、道理が合わない。因果関係がじれてしまっている。

 ……いや、待て。捻じれ? 捻じれと云ったか? それはすなわち、ひねられているということじゃないか。そうだ、だってこれは〈メビウスの帯〉なのだから……。百八十度ひねらないと〈メビウスの帯〉にはならず、また、因果関係を百八十度逆転させないと〈ウロボロスの蛇〉はつくれない……。因果の逆転――捻じれがあるから〈ウロボロスの蛇〉的構造の〈メビウスの帯〉は成立する……。

 さらに『ナグ・ハマディ写本』中の傍線で示されていた文章が想起される。

 ――人はまず死に、それから甦るのだ、という人は間違っている。人は、まず生きているうちに復活をとげなければ、死んだときに何も受けないだろう。

 ……〈ウロボロスの蛇〉……〈死と再生〉……。

 それから、有寨さんが引用した文章。

 ――われわれがこの世の中にいる限り、われわれにとって益となるのは、われわれ自らに復活を生み出すことである。それはわれわれが肉を脱ぎ去るときに、安息の中に見出されることとなり、中間の中をさまようことにならないためである。

 肉を脱ぎ去る……。中間の中をさまようことにならない……。

 グノーシス主義は霊魂を肉体から分離し、前者にのみ永続的な価値を認める……。

 肉体に、物質に、意味なんてない。すべては認識(グノーシス)……。

 つまり……そういうことなのか?

 そういうことだと……云うのか?

 四対八個組のアイオーン――オグドアスによる超永遠世界――プレーローマ。

 殺人リレーによって〈ウロボロスの蛇〉的に〈メビウスの帯〉をつくり出し、センターラインで切断することでひとつの環にし、永遠(プレーローマ)をつくり出した……?

 此処は至高神の圏域……オグドアスのプレーローマ?

「はははははっ……ははははははははっ……」

 僕は椅子から立ち上がり、ふらつきながら、眩暈を起こしながら、進んで転んで立ち上がって進んで転んで立ち上がって進んで転んで立ち上がって進んで、扉の前に辿り着いた。

 北館へと通じる廊下館に出るための扉だ。これを封じていた閂はいま、僕が触れる前から既に外されて、床に落ちていた。

 ――お前たちの手をとってグノーシスの門へと導くべき案内人を探すがいい。

 僕は扉を開いた。

 廊下が真っ直ぐ伸びている。

 僕から二メートルほど離れたところに、ひとりの女の子が立っていた。

「お久しぶりです」

 舞游の血にまみれた杏味ちゃん――巻譲杏味は微笑していた。相変わらず、作り物めいた不気味な笑みだった。

「ははは……杏味ちゃん、こんなの受け入れられるわけがないよ。こんなことが現実に起こるわけが、ないじゃないか……はは、はははは……」

 いつの間にかカラカラに喉が渇いていて、僕のその声は酷く掠れていた。

 杏味ちゃんは人形然とした微笑を浮かべたままだ。

「現実なんて詰まらないことを云うのはナンセンスですわ。最初から云ってましたでしょう? 此処は環楽園であると」

 環楽園……有寨さんが此処につけた呼称……曰く『構造が環状であるから』。

 環状のプレーローマ……環楽園。

 ――そこには、闇から清められた輝く光がある。

「さあ、行きましょう。皆さんが貴方を待っていますわよ」

 杏味ちゃんは身を翻し、お嬢様らしい優雅な足取りで、廊下を奥に向かって歩き始めた。

 ――そこには、もはや誰ひとりとして酔いしれるものはなく、すべての者が醒め、見られることを望む御方を心で見つめている。

 僕はもう笑っていなかった。

 環楽園は、この途方もない真実は、僕の認識の許容量を遥かに超えていた。

 だが僕の足は導かれるように前に進み、南館と廊下館の境界――その一線を越えたのだった。
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