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うりえる章:赤鞠7つばかり誤算

21st Century Schizoid Man

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 一日の仕事を終えて、〈メゾン・天野あまのサンクチュアリ〉八〇一号室に帰り着く。築十年、鉄筋コンクリート造のありふれた賃貸マンションだ。

 居間に這入はいると、全開にされた窓から冷たい外気が流れ込んでいた。ベランダの柵の上に腰掛けているあまねの背中が見える。いきなり声を掛けて転落されては堪らないので、足音を忍ばせて歩み寄り、その華奢な身体に素早く腕を回した。

「あはっ。びっくりさせないでよお」

「危なっかしい真似をするからだろ」

「空なら飛べるから平気。心配はいらないよ」

 彼女は読んでいた文庫本を閉じると、柵の上で器用に身体の向きを変えて、ベランダに降り立った。首から掛けた懐中時計で時刻を確認した後、得意そうな笑顔で俺を見上げる。

「お帰りなさい、来須くるすさん。十一月十一日、二十二時十四分だねえ」

 雫音しずくねあまね。俺の姪である。わけあって一ヶ月前から一緒に暮らしている。

「風呂は済ませておくように、昨日も云わなかったか」

 彼女はまだ制服から着替えていなかった。ボタンを留めずに羽織った黒色のブレザーの下には、いつもピンク色のパーカーを着ている。校則に違反しないのだろうか。スカートは丈が短く、靴下も短いので、健康的な脚が大胆に露出している。

「なあに、来須さん。怒ってるの?」

 いかにもマイペースな喋り方。ボブカットにした藍色の髪を揺らして、彼女は室内へ戻った。その特徴的な髪色は本人曰く地毛らしい。俺も続いて室内へ。

「人間が怒るのは、事が期待どおりにならなかったときだ」

 窓を閉めて施錠してカーテンも閉める。

「俺は他人に期待しないから、怒ることもないよ」

「えー。そんな態度だと、他人も来須さんに期待しなくなっちゃうよ?」

「それなら毎日、もっと早く帰れるはずだ」

 ジャケットをハンガーに掛けて、ネクタイと一緒にラックに吊るす。

 あまねは右手で持った文庫本を適当に振りながら、ソファーの上に両膝を立てて座った。

「仕事は別。求め合いじゃなくて押し付け合いだもんねえ」

「よく知ってるじゃないか。その座り方は無防備すぎるが」

「別にいいじゃん。それとも来須さんが昂奮しちゃう?」

 挑発的にスカートを摘まみ上げられたのは無視する。隣に腰を下ろして、シガレットケースから取り出した煙草にオイルライターで火を点けた。あまねは煙草の煙を嫌がらない。

「とにかく、来須さんはそんなだから友達がいないんだよ」

「学生じゃあるまいし、友達なんているだけ煩わしいよ」

 吸い込んだ煙をフーッと吐き出した。頭の中に重く溜まっていた疲れごと出て行って、つかの、クリアになった心地がする。

「お前の方こそ、友達はいるのか。すみっこで読書してばかりじゃないだろうな」

 あまねは本の虫だ。私室として与えた六畳の洋室は大量の書物に占拠され、他の家具が置けない有様ありさまとなっている。

「見くびらないでよ。あまねは学校でカリスマなんだから」

「カリスマ?」

 少なくとも、偉ぶって胸を張る仕草はカリスマっぽくない。

「みんなが注目してるの。あまねの話したことをメモに取って、繰り返し読んで感動している子だっているんだから」

「何だそれ。宗教でも興したのか」

「学校であまねがどんなふうなのか、気になる?」

「別に。それより昼に学校の近くで交通事故があっただろ」

「もお、つれないなあ。交通事故? あったよ」

 不服そうに唇を尖らせながらも、あまねは頷いた。

「近くなだけじゃないよ。死んだ人のハトコが同じ学校の生徒なの」

「知ってる。話したりする仲なのか、その生徒とは」

「二人いるけど、片方は味方で片方は敵だねえ。来須さん、どうして知ってるの?」

「事故で死んだ水柱みずばしらみおの妹が、俺の職場の同期なんだ。前にあまねのことを話したら、ハトコが同じ学校に通っていると云ってたのを思い出した」

「その同期って水柱なぎささん?」

 目を丸くするあまね。

「名前は聞いてる。すごい偶然だね」

 渚は昼過ぎに真っ蒼な顔をして早退した。実姉とその旦那が交通事故で亡くなったのだと、課長からメールで周知された。残業中にも雑談で、事故のことが話題に上がった。

「本当に偶然なのかね? 事故の原因は猫が歩道橋から降ってきたことだとか」

 上司が携帯でニュース記事を読みながら話していた。猫がフロントガラスにぶち当たったので、運転者は急ブレーキを掛けたそうだ。水柱夫妻の車はその真後ろを走行していた。衝突を避けようと反射的にハンドルを切ったのか、隣の車線に飛び出した結果、大型トラックに潰された。名前は忘れたが夫は即死、妻の水柱澪も病院で息を引き取ったらしい。

「ははぁ。もしかして来須さん、あまねを疑ってる?」

 今度は得心したように目を細める。

「あの猫の死骸を投げ込んだんじゃないかってこと?」

 一昨日の夜だ。会社から帰ると丁度、マンション横の路上であまねが野良猫を抱きかかえ、その咥内に殺虫スプレーを噴射し続けていた。「この猫ねえ、ずっと五月蠅うるさかったから駆除するの」と自慢するみたいに話した彼女。死骸は黒いビニール袋に包んでゴミ箱に捨てていた。

 あまねには、平然と極端な行動に出るところがある。常識や倫理観が欠けているのか、それを自覚している様子もない。しかし俺は、だからと云って彼女を厄介者扱いする親戚連中とは違う。

「いいや、悪い。冗談のつもりだったが詰まらなかったな。先にシャワー浴びるよ」

 煙草の火を灰皿で揉み消して立ち上がったが、「来須さん」と呼び止められる。

 振り向いてみれば、あまねは身を乗り出して真っすぐに俺を見詰めていた。

「あまねが死んだら、悲しい?」

「何だよいきなり」

 視線は逸れない。くりくりとした目が、今は真剣な色を帯びている。

「……お前に死なれたら困るよ。悩み事でもあるのか?」

「あは。大丈夫。その言葉が聞きたかっただけだよお」

 困った奴だ。俺はその頭に手を置いて、髪をくしゃくしゃに乱してやった。「いやあ~」と喜ぶあまね。帰りが遅い俺だから、このくらい構ってやってもいいだろう。


    ・・・・


 五時五十分から十分おきに鳴るアラーム。何回目で起きられるかによって疲労度を測れる。一回目なら絶好調。二回目なら快調。今朝は三回目だったので、可もなく不可もなし。

 顔を洗って髭を剃ってスーツに着替えて、ソファーで朝食を摂る。ビスケットが三枚に、プレーンヨーグルトも食べることにした。

「おはよう、来須さん。十一月十二日、六時三十一分だねえ」

 制服に着替えたあまねが居間に現れた。片手には文庫本。早朝でもばっちり目が覚めている様子だ。これから自分で朝食をつくって食べて、余裕たっぷりで登校するのだろう。

「うわ。またそんな朝食? 少なすぎだよ」

 溜息まで吐いて、まるで母親みたいなことを云ってきた。

「そうか? 今日は多い方のつもりなんだが」

「痩せてるんだから、もっと食べないと!」

「贅沢は敵だ」

「戦時中みたいなことを云うんだねえ」

「贅沢する連中はつまり、幸福になろうとしているってことじゃないか」

「んー。来須さんは幸福になりたくないの?」

「幸福は、不幸に向かう準備段階だよ。幸福があるから、相対的に不幸な状態が生まれる」

「光があれば影ができるのと同じだねえ」

「幸福で居続けることは難しい。まず不可能と云っていいな。そして不幸に落ちたなら、そこから這い上がろうとするだろ? この浮き沈みを繰り返すか、不幸に沈んだまま力尽きるか。幸福追求型の生き方には二種類しかない。そんなのは疲れるだけだ」

「だけど来須さんこそ、いつも疲れてるじゃん」

「そりゃあ肉体は疲労するけど、心理的にはニュートラルな状態を保ってるんだよ」

 朝からお喋りしてもいられない。空になったビスケットの袋とヨーグルトの容器を持って立ち上がる。あまねは「もう行っちゃうの?」と、非難するみたいにたずねてくる。

「お前の生活費も稼がないといけないのでね」

「それはそれは。ありがとうございますう」

 キッチンに移動した俺はゴミを捨てて歯磨きを始めるが、あまねの質問は止まない。

「ねえねえ、来須さんは誰かと結婚しないの? お嫁さんが来たらあまねを追い出す?」

 何の心配をしているんだか。歯磨きを終えて口をゆすいでキッチンを出ながら答える。

「しないよ。あれこそ俺には、不幸に向かって突き進んでいるようにしか見えない。『幸せになろう』なんて云って馬鹿みたいだな」

「あはははっ。たしかにそうだね? あははははははっ」

 変なツボに入ったらしいあまねが笑い続けているなか、俺は鞄を持って玄関へ。

「行ってらっしゃい、来須さん。あははははははははっ」

 最初のころは嫌で堪らなかった通勤にも、近ごろは何も感じなくなってきた。最寄り駅までは徒歩十五分。満員電車に二十分ほど揉まれて、降車駅のすぐ目の前に会社がある。

 一昨年に新卒で入社した、業界大手の損害保険会社。国内だけでなく海外にも多くの支社があるけれど、配属されたのは本社の十階をフロアとする部署だった。俺は此処で、ひたすらに時間と体力を搾取され続けている。
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