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がぶりえる章:智み取り選り取り緑
血液交換による人格パズル
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・・・・
〈命メ館〉という奇妙な呼び名は、智緑がつけたものらしい。彼女は基本的に此処で生活していると云うが、床から天井まで真っ白な空間は住居というより病院だ。壁に取り付けられたむき出しの蛍光灯もまた人工的な光を放ち、その印象を際立たせている。
這入るとまず、通路が正面と左右の三方向に分かれる。これを智緑は右手へと進んだ。靴は脱がなくてよいそうだ。暖房は効いておらず、外ほどではないけれど寒い。
窓もない単調な通路を進み、突き当たりを左へ折れ、奥の階段を上がる。
「二階には客室が八部屋あります。お客さんが来ることはあまりないんすけどねー」
しかし扉など一枚もない通路をなおも進んで、今度も突き当たりを左へ折れる。さらに続く通路の中ほどで左に這入ると、ようやく左右にそれぞれ扉があった。その先は通路が弧を描くようにして左右に分かれているが、智緑は其処まで行かずに足を止めた。
「ボクが自室として使ってるのが左の部屋っす。でも用があるのはこっち」
右の扉のドアノブを持ってガチャガチャとやる智緑。中から錠が掛かっているようだ。
少し待つと扉が半分開いて、顔を覗かせたのは赤鞠だった。格好は制服に赤いレースの手袋だが、髪はツインテールにせず下ろしている。智緑の後ろに立つ俺を見とめると「ひゃあ!」と素っ頓狂な声を上げて、床に尻餅をついた。
「あ、あなたっ、えーっと、えーっと」
「来須さんっすよ。あまね先輩の叔父の」
「な、なんで来てるの。ち、智緑ちゃんが呼んだの?」
俺を見たり智緑を見たり、忙しなく頭を振る赤鞠。その激しい狼狽ぶりは、これまでの彼女のイメージとあまりに乖離していて、俺まで戸惑いを覚えた。
「サプライズに弱いのか、きみ」
「えっ? さぷらいず? 違っ……説明してよ、智緑ちゃん!」
「来須さんはあまね先輩に会いに来たんすよ。来須さん、例の便箋をお姉ちゃんに見せてあげてくださいー」
立ち上がろうとしない赤鞠に、俺は便箋を差し出した。凝視する彼女。蛍光灯に照らされたその顔が、見る見るうちに蒼褪めていく。
「雫音さんが、此処に来るの? 今夜? ひ、ひいいいいい!」
恐慌を来して、床の上を後退する。簡易ベッドに上がり、シーツを両手で掴んで引き寄せ、ぶるぶる震える身体を首の下まで隠す。その情けない姿に、智緑が嘆息した。
「なーに怖がってんすか。あまね先輩は死んだでしょー?」
彼女は姉の傍らまで行くと、その耳元に口を寄せて手で覆い、何事か囁き始めた。姉の方は涙目で俺をじっと見ている。囁きを終えた智緑は顔を上げて「分かりましたー?」と問うた。姉は純情そうに、こくこくと頷いた。
「家ではそんな性格なのか」と、今度は俺が訊ねる。すると智緑が意地悪く唇を歪めた。
「あー違いますよ。この入れ物にはかつて宇奈赤鞠が入ってましたけど、いまの中身は舞砂ミコ。ボクのクラスメイトなんす。まあ実態がどうであれ、社会通念上はこの入れ物が宇奈赤鞠っすからね、変わらずお姉ちゃんと呼ぶことにしてますけど」
智緑が雑にデコピンして、赤鞠は「痛いっ!」と悲痛に叫ぶ。
「……そんな寸劇を見せられても、俺は気の利いたリアクションはできないぞ」
「聞いたことないすかー? 臓器移植を受けた患者は、その臓器の提供者の記憶を想起することがあるって話。人間の意思や記憶は、脳だけに宿っているんじゃありません。たとえば、絶えずその全身を駆け巡っている血液――これを丸ごと全部、他人のものと入れ替えた場合、両者の思考や行動、果ては人格が、何の影響も受けないと思いますー?」
「人格まで、入れ替わると云うのか……?」
「ご覧のとおりっすよ。お姉ちゃんの中にある血液は全部、十日前まではミコちゃんの血液でした。ミコちゃんはお姉ちゃんとはまるで真逆の、引っ込み思案で臆病な女の子でした。血が馴染んでいくにつれて二人の人格は混濁していって、ついには自覚まで逆転したんす。いまや宇奈赤鞠の身体と記憶を持った舞砂ミコと云えますね」
ベッドの上の〈赤鞠〉は否定しない。俺と目が合うと、びくりと震えて俯いてしまう。
信じ難い話だが、冗談だとしたら、あの赤鞠がこんなふうに付き合うだろうか?
「じゃあミコという子の方が、いまでは赤鞠になっているのか」
「理解が早いっすねー。実際、そっちもほぼ完成していたんすよ」
「おえっ」〈赤鞠〉が急に嘔吐寸前のような声を出した。「お、おえっ」両手で口を覆っている。智緑はその背中を適当にさすりながら、抑揚のない口調で続ける。
「だけどミコちゃんは殺されちゃいました」
「はあ? 何だそりゃ」
「知らないすかー? こないだの〈鴉面の通り魔〉事件」
「それならニュースで観たが……そいつが被害者だったのか?」
たしか三日前、都内で起きた通り魔事件だ。下校中の女子高生が金属バットで殴り殺された。目撃者の証言では、犯人はピンク色のレインコートを着て、鴉のようなお面を被っていたらしい。パトカーや救急車が駆け付ける前に逃亡し、おそらくまだ捕まっていない。
「困りましたよ本当。実態としては、お姉ちゃんが殺されたと云えますからねー」
しかし智緑は特に困ってなさそうだ。代わりに〈赤鞠〉が酷い顔色で苦悶している。それは身体を殺されたミコの人格によるものか、人格を殺された赤鞠の身体によるものか。
俺もまた、一挙にあれこれと教えられたせいで混乱しつつある……。
着信音が鳴って、智緑がジャージのポケットから携帯を取った。
「はいはーい。這入ってきてもらっていいっすよー」
それだけ云うと通話を切り、俺の方に向かってくる。
「千里ちゃんが着きました。ボクが門で待ってた人っす。出迎えてあげましょう」
必死で吐き気を堪えている〈赤鞠〉を放置することになるが、助けてやる義理はないか。
智緑に続いて、俺も来た道を引き返す。訊きたいことが増えてきた。
「あの様子だと、周りに対して以前の赤鞠を演じるのは無理じゃないのか」
「はい。実は何度かボロを出しちゃってるんすよ。限界そうだったんで、今週はずっと学校を休んで、この〈命メ館〉にいてもらってます」
「〈ミコ〉の方はどうだったんだ。中身はほぼ赤鞠になっていたんだよな」
「ミコちゃん――というより中身のお姉ちゃんは、この人格交換を周囲に伏せたがったんで、表向きはミコちゃんを演じてましたよ。大人しくしてればいいだけっすから」
「あいつがそれで納得したのか。いつまでも隠し通せることじゃないだろ」
「早く元に戻せって、ボクに怒ってましたよ。その前に殺されちゃいましたけど」
「偶然なのか? それとも〈鴉面の通り魔〉事件は血液交換に関係してるのか?」
「質問攻めっすねー。ボクは質問されるよりする方が好きなのに」
智緑はポケットから竹製の耳掻きを取り出すと、歩きながら耳掃除を始めた。ポケットは左右どちらも膨れていて、他にも色んな物を仕舞っているらしい。
「ボクにも分からないんすよ。運悪く目を付けられたのか、理由があって狙われたのか。でも血液交換は周りに秘密っすから、無関係じゃないすかね。あの内気なミコちゃんが人間関係でトラブルを抱えていたとも思えないすけど。ま、お姉ちゃんは不運でしたよ」
玄関まで戻ってきた。智緑が小型端末を操作して開錠した後、手で扉を開ける。
新たな来客は十メートルほど先にいて、こちらに向かってくるところだった。空中を舞っているのは無数の白い粉……本当に降り始めるとは。
「雪! 雪だよ! まだ十一月なのに馬鹿じゃないの本当にもう!」
来客はやけにご立腹の様子だ。眉根を寄せて口をへの字に曲げて腕を組んでいる。服装は花天月高校の制服に手提げ鞄。スカート丈は膝下。三つ編みおさげの優等生然とした外見の割に、がさつな態度である。智緑が「一年サルビア組の千里ちゃんっす」と紹介した。
「あんた、雫音先輩の恋人――じゃなかった、叔父の人じゃん」
「ああ、俺が学校に邪魔したとき屋上にいた子か」
「いーや、これはあたしじゃなくてこいつの記憶だよ。あー気持ち悪い!」
智緑が扉を閉じつつ「そんな説明じゃあ来須さんも分かりませんよー」と云う。すると千里は地団駄を踏んで怒鳴った。「誰のせいだと思ってんの!」
「何だ、もしかしてこの子も他人と血液を交換したのか」
「はい。外見は梅郷千里でも、中身は由布こもる。一年ルピナス組の暴れん坊さんっす」
「最悪だよ! 雫音信者の身体とか! しかもこいつ、超ブラコンなの。双子の兄の下着とか盗んで、部屋でにおい嗅いで自慰に耽ってんの。うえー! 兄にも勘づかれて避けられてるし。あとね、あたしと違って卵アレルギーじゃない! ケーキが食べれるんだよ!」
「良かったじゃないすか」
「良いわけないじゃん! 頭が変になるわ!」
混乱しているのを差し引いても、あまり利口ではなさそうだ。脳とそれを使用する意識が別人の場合、知能はどちらに引きずられるのだろう?
「そもそも、どうして交換なんかしたんだ」
「騙されたんだよ、そいつに! 血液をきれいにして、絶好調の身体になれるって!」
「透析っすよ。端的に云えば、血液をろ過する医療行為っす」
智緑は玄関から通路を真っすぐ進んだ先を指差した。湾曲した壁に一枚のドアがある。
「あの部屋をボクは〈血の円筒〉と呼んでます。あそこに透析用の機械があるんで、這入ってもらいました。だけど実は血管から伸びたチューブは透析器じゃなく専用ポンプなんかの別の機械を介して、壁を隔てた別室にいる別人の血管に繋いでいたんすよねー」
「すよねーって、あんたがわざとそうしたんでしょ!」
〈千里〉は続いて俺にも「分かる? こいつの鼻持ちならない軽薄さ!」と訴えた。
「だって気になるじゃないすか。二人の人間の間で血液が丸ごと入れ替えられたとき、どんな反応が観察できるのか。結果は予測以上の――」
「ふざけんなこいつ!」
〈千里〉は智緑に掴み掛かったが、直後「ぎゃあ!」と絶叫を上げて飛びのいた。智緑の手にスタンガンが握られている。ビリッとやられたらしい。
「ボクは乱暴が嫌いっす。それは人類にとって進歩のない行為っすよ」
「……とにかく、あたしを早く元に戻せって云ってんの。学校だって休んでるんだから」
すっかり気勢を削がれた〈千里〉は、手をさすりながら訴えた。
「分かってますよ。千里ちゃんは北口から入館でお願いします」
「ええ? こっちじゃないの?」
「すんませんねー。じゃあ部屋まで案内しますんで」
玄関扉を開ける智緑。置いてけぼりを食らっている俺は「どういうことだ」と訊ねる。
「〈命メ館〉の中は、同一の間取りが対称となるように二分割されているんすよ。こっちの南口から這入るか、裏の北口から這入るかによってっす。中に這入ると、互いを行き来する方法がないんすよね」
それもまた奇妙な話だが、気にしているのはそういうことではない。
「元に戻すというのは、血液の再交換をするんだろ。相手もいないと駄目じゃないのか」
「だからいますよ。今晩、此処にはボクによって血液を交換された全六人のうち、死んだミコちゃんを除いた五人が集まっているんす。みんな元に戻せって云うんでねー」
「あー寒い! 早くしてよ! つーか雫音先輩の叔父さんはなんで来てるの?」
「来須さんはどうします? 帰ります? それともみんなと同じく泊まります?」
智緑は相変わらず、皮肉っぽい薄笑いで訊ねてきた。
血液と共に人格を交換された人々が元に戻される夜……何者かの意思によって、その場に引き合わせられた俺……まだ何も分かっていない……。
このまま帰って、どうするんだ? 誰もいない部屋で、コンビニで買った弁当でも食って、腐ったみたいにソファーで寝るだけじゃないか……。
「俺も泊まらせてもらうよ」
「じゃあ来須さんは南口組っすね。お姉ちゃんの隣の部屋が空いてます。キッチン、お風呂、トイレは一階っす。〈血の円筒〉の他は自由に使ってもらって大丈夫っすよー」
それだけ雑に説明すると、智緑は〈千里〉を連れて出て行った。
しばらく突っ立っていた後、煙草を吸うために俺も外に出ようとして気が付く。玄関扉は内側にも錠のつまみが見当たらない。ドアノブに手を掛けてもびくともしない。
智緑はこれを開けるたびに、何やら小型端末を操作していた。
どうやら彼女の許可なくしては、入館はおろか退館さえできないらしい。
〈命メ館〉という奇妙な呼び名は、智緑がつけたものらしい。彼女は基本的に此処で生活していると云うが、床から天井まで真っ白な空間は住居というより病院だ。壁に取り付けられたむき出しの蛍光灯もまた人工的な光を放ち、その印象を際立たせている。
這入るとまず、通路が正面と左右の三方向に分かれる。これを智緑は右手へと進んだ。靴は脱がなくてよいそうだ。暖房は効いておらず、外ほどではないけれど寒い。
窓もない単調な通路を進み、突き当たりを左へ折れ、奥の階段を上がる。
「二階には客室が八部屋あります。お客さんが来ることはあまりないんすけどねー」
しかし扉など一枚もない通路をなおも進んで、今度も突き当たりを左へ折れる。さらに続く通路の中ほどで左に這入ると、ようやく左右にそれぞれ扉があった。その先は通路が弧を描くようにして左右に分かれているが、智緑は其処まで行かずに足を止めた。
「ボクが自室として使ってるのが左の部屋っす。でも用があるのはこっち」
右の扉のドアノブを持ってガチャガチャとやる智緑。中から錠が掛かっているようだ。
少し待つと扉が半分開いて、顔を覗かせたのは赤鞠だった。格好は制服に赤いレースの手袋だが、髪はツインテールにせず下ろしている。智緑の後ろに立つ俺を見とめると「ひゃあ!」と素っ頓狂な声を上げて、床に尻餅をついた。
「あ、あなたっ、えーっと、えーっと」
「来須さんっすよ。あまね先輩の叔父の」
「な、なんで来てるの。ち、智緑ちゃんが呼んだの?」
俺を見たり智緑を見たり、忙しなく頭を振る赤鞠。その激しい狼狽ぶりは、これまでの彼女のイメージとあまりに乖離していて、俺まで戸惑いを覚えた。
「サプライズに弱いのか、きみ」
「えっ? さぷらいず? 違っ……説明してよ、智緑ちゃん!」
「来須さんはあまね先輩に会いに来たんすよ。来須さん、例の便箋をお姉ちゃんに見せてあげてくださいー」
立ち上がろうとしない赤鞠に、俺は便箋を差し出した。凝視する彼女。蛍光灯に照らされたその顔が、見る見るうちに蒼褪めていく。
「雫音さんが、此処に来るの? 今夜? ひ、ひいいいいい!」
恐慌を来して、床の上を後退する。簡易ベッドに上がり、シーツを両手で掴んで引き寄せ、ぶるぶる震える身体を首の下まで隠す。その情けない姿に、智緑が嘆息した。
「なーに怖がってんすか。あまね先輩は死んだでしょー?」
彼女は姉の傍らまで行くと、その耳元に口を寄せて手で覆い、何事か囁き始めた。姉の方は涙目で俺をじっと見ている。囁きを終えた智緑は顔を上げて「分かりましたー?」と問うた。姉は純情そうに、こくこくと頷いた。
「家ではそんな性格なのか」と、今度は俺が訊ねる。すると智緑が意地悪く唇を歪めた。
「あー違いますよ。この入れ物にはかつて宇奈赤鞠が入ってましたけど、いまの中身は舞砂ミコ。ボクのクラスメイトなんす。まあ実態がどうであれ、社会通念上はこの入れ物が宇奈赤鞠っすからね、変わらずお姉ちゃんと呼ぶことにしてますけど」
智緑が雑にデコピンして、赤鞠は「痛いっ!」と悲痛に叫ぶ。
「……そんな寸劇を見せられても、俺は気の利いたリアクションはできないぞ」
「聞いたことないすかー? 臓器移植を受けた患者は、その臓器の提供者の記憶を想起することがあるって話。人間の意思や記憶は、脳だけに宿っているんじゃありません。たとえば、絶えずその全身を駆け巡っている血液――これを丸ごと全部、他人のものと入れ替えた場合、両者の思考や行動、果ては人格が、何の影響も受けないと思いますー?」
「人格まで、入れ替わると云うのか……?」
「ご覧のとおりっすよ。お姉ちゃんの中にある血液は全部、十日前まではミコちゃんの血液でした。ミコちゃんはお姉ちゃんとはまるで真逆の、引っ込み思案で臆病な女の子でした。血が馴染んでいくにつれて二人の人格は混濁していって、ついには自覚まで逆転したんす。いまや宇奈赤鞠の身体と記憶を持った舞砂ミコと云えますね」
ベッドの上の〈赤鞠〉は否定しない。俺と目が合うと、びくりと震えて俯いてしまう。
信じ難い話だが、冗談だとしたら、あの赤鞠がこんなふうに付き合うだろうか?
「じゃあミコという子の方が、いまでは赤鞠になっているのか」
「理解が早いっすねー。実際、そっちもほぼ完成していたんすよ」
「おえっ」〈赤鞠〉が急に嘔吐寸前のような声を出した。「お、おえっ」両手で口を覆っている。智緑はその背中を適当にさすりながら、抑揚のない口調で続ける。
「だけどミコちゃんは殺されちゃいました」
「はあ? 何だそりゃ」
「知らないすかー? こないだの〈鴉面の通り魔〉事件」
「それならニュースで観たが……そいつが被害者だったのか?」
たしか三日前、都内で起きた通り魔事件だ。下校中の女子高生が金属バットで殴り殺された。目撃者の証言では、犯人はピンク色のレインコートを着て、鴉のようなお面を被っていたらしい。パトカーや救急車が駆け付ける前に逃亡し、おそらくまだ捕まっていない。
「困りましたよ本当。実態としては、お姉ちゃんが殺されたと云えますからねー」
しかし智緑は特に困ってなさそうだ。代わりに〈赤鞠〉が酷い顔色で苦悶している。それは身体を殺されたミコの人格によるものか、人格を殺された赤鞠の身体によるものか。
俺もまた、一挙にあれこれと教えられたせいで混乱しつつある……。
着信音が鳴って、智緑がジャージのポケットから携帯を取った。
「はいはーい。這入ってきてもらっていいっすよー」
それだけ云うと通話を切り、俺の方に向かってくる。
「千里ちゃんが着きました。ボクが門で待ってた人っす。出迎えてあげましょう」
必死で吐き気を堪えている〈赤鞠〉を放置することになるが、助けてやる義理はないか。
智緑に続いて、俺も来た道を引き返す。訊きたいことが増えてきた。
「あの様子だと、周りに対して以前の赤鞠を演じるのは無理じゃないのか」
「はい。実は何度かボロを出しちゃってるんすよ。限界そうだったんで、今週はずっと学校を休んで、この〈命メ館〉にいてもらってます」
「〈ミコ〉の方はどうだったんだ。中身はほぼ赤鞠になっていたんだよな」
「ミコちゃん――というより中身のお姉ちゃんは、この人格交換を周囲に伏せたがったんで、表向きはミコちゃんを演じてましたよ。大人しくしてればいいだけっすから」
「あいつがそれで納得したのか。いつまでも隠し通せることじゃないだろ」
「早く元に戻せって、ボクに怒ってましたよ。その前に殺されちゃいましたけど」
「偶然なのか? それとも〈鴉面の通り魔〉事件は血液交換に関係してるのか?」
「質問攻めっすねー。ボクは質問されるよりする方が好きなのに」
智緑はポケットから竹製の耳掻きを取り出すと、歩きながら耳掃除を始めた。ポケットは左右どちらも膨れていて、他にも色んな物を仕舞っているらしい。
「ボクにも分からないんすよ。運悪く目を付けられたのか、理由があって狙われたのか。でも血液交換は周りに秘密っすから、無関係じゃないすかね。あの内気なミコちゃんが人間関係でトラブルを抱えていたとも思えないすけど。ま、お姉ちゃんは不運でしたよ」
玄関まで戻ってきた。智緑が小型端末を操作して開錠した後、手で扉を開ける。
新たな来客は十メートルほど先にいて、こちらに向かってくるところだった。空中を舞っているのは無数の白い粉……本当に降り始めるとは。
「雪! 雪だよ! まだ十一月なのに馬鹿じゃないの本当にもう!」
来客はやけにご立腹の様子だ。眉根を寄せて口をへの字に曲げて腕を組んでいる。服装は花天月高校の制服に手提げ鞄。スカート丈は膝下。三つ編みおさげの優等生然とした外見の割に、がさつな態度である。智緑が「一年サルビア組の千里ちゃんっす」と紹介した。
「あんた、雫音先輩の恋人――じゃなかった、叔父の人じゃん」
「ああ、俺が学校に邪魔したとき屋上にいた子か」
「いーや、これはあたしじゃなくてこいつの記憶だよ。あー気持ち悪い!」
智緑が扉を閉じつつ「そんな説明じゃあ来須さんも分かりませんよー」と云う。すると千里は地団駄を踏んで怒鳴った。「誰のせいだと思ってんの!」
「何だ、もしかしてこの子も他人と血液を交換したのか」
「はい。外見は梅郷千里でも、中身は由布こもる。一年ルピナス組の暴れん坊さんっす」
「最悪だよ! 雫音信者の身体とか! しかもこいつ、超ブラコンなの。双子の兄の下着とか盗んで、部屋でにおい嗅いで自慰に耽ってんの。うえー! 兄にも勘づかれて避けられてるし。あとね、あたしと違って卵アレルギーじゃない! ケーキが食べれるんだよ!」
「良かったじゃないすか」
「良いわけないじゃん! 頭が変になるわ!」
混乱しているのを差し引いても、あまり利口ではなさそうだ。脳とそれを使用する意識が別人の場合、知能はどちらに引きずられるのだろう?
「そもそも、どうして交換なんかしたんだ」
「騙されたんだよ、そいつに! 血液をきれいにして、絶好調の身体になれるって!」
「透析っすよ。端的に云えば、血液をろ過する医療行為っす」
智緑は玄関から通路を真っすぐ進んだ先を指差した。湾曲した壁に一枚のドアがある。
「あの部屋をボクは〈血の円筒〉と呼んでます。あそこに透析用の機械があるんで、這入ってもらいました。だけど実は血管から伸びたチューブは透析器じゃなく専用ポンプなんかの別の機械を介して、壁を隔てた別室にいる別人の血管に繋いでいたんすよねー」
「すよねーって、あんたがわざとそうしたんでしょ!」
〈千里〉は続いて俺にも「分かる? こいつの鼻持ちならない軽薄さ!」と訴えた。
「だって気になるじゃないすか。二人の人間の間で血液が丸ごと入れ替えられたとき、どんな反応が観察できるのか。結果は予測以上の――」
「ふざけんなこいつ!」
〈千里〉は智緑に掴み掛かったが、直後「ぎゃあ!」と絶叫を上げて飛びのいた。智緑の手にスタンガンが握られている。ビリッとやられたらしい。
「ボクは乱暴が嫌いっす。それは人類にとって進歩のない行為っすよ」
「……とにかく、あたしを早く元に戻せって云ってんの。学校だって休んでるんだから」
すっかり気勢を削がれた〈千里〉は、手をさすりながら訴えた。
「分かってますよ。千里ちゃんは北口から入館でお願いします」
「ええ? こっちじゃないの?」
「すんませんねー。じゃあ部屋まで案内しますんで」
玄関扉を開ける智緑。置いてけぼりを食らっている俺は「どういうことだ」と訊ねる。
「〈命メ館〉の中は、同一の間取りが対称となるように二分割されているんすよ。こっちの南口から這入るか、裏の北口から這入るかによってっす。中に這入ると、互いを行き来する方法がないんすよね」
それもまた奇妙な話だが、気にしているのはそういうことではない。
「元に戻すというのは、血液の再交換をするんだろ。相手もいないと駄目じゃないのか」
「だからいますよ。今晩、此処にはボクによって血液を交換された全六人のうち、死んだミコちゃんを除いた五人が集まっているんす。みんな元に戻せって云うんでねー」
「あー寒い! 早くしてよ! つーか雫音先輩の叔父さんはなんで来てるの?」
「来須さんはどうします? 帰ります? それともみんなと同じく泊まります?」
智緑は相変わらず、皮肉っぽい薄笑いで訊ねてきた。
血液と共に人格を交換された人々が元に戻される夜……何者かの意思によって、その場に引き合わせられた俺……まだ何も分かっていない……。
このまま帰って、どうするんだ? 誰もいない部屋で、コンビニで買った弁当でも食って、腐ったみたいにソファーで寝るだけじゃないか……。
「俺も泊まらせてもらうよ」
「じゃあ来須さんは南口組っすね。お姉ちゃんの隣の部屋が空いてます。キッチン、お風呂、トイレは一階っす。〈血の円筒〉の他は自由に使ってもらって大丈夫っすよー」
それだけ雑に説明すると、智緑は〈千里〉を連れて出て行った。
しばらく突っ立っていた後、煙草を吸うために俺も外に出ようとして気が付く。玄関扉は内側にも錠のつまみが見当たらない。ドアノブに手を掛けてもびくともしない。
智緑はこれを開けるたびに、何やら小型端末を操作していた。
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