虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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最悪の夏休みが始まる

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 さて、学校を出た僕と百合莉は僕の自転車に二人乗りして――うん、百合莉は隣町から電車通学している身で、普段、火津路高校から最寄りの西巫にしかんなぎ駅までは徒歩で充分なんだ――くだんのビルまでおもむいた。火津路駅の周辺はちょっと栄えているものの、何だか一昔前のセンスだし、全体的に窮屈で、品がない。そんな中でも戸倉とくらビルという名のそれは表通りから引っ込んだところにあって、昼も薄暗かった。鉄筋コンクリート造のパッとしない五階建ての建物……つまり僕らの〈愛の巣〉は最上階なんだね。他の階はいずれもよく分からない事務所として使われてるようだった。

 小さなエレベーターから出ると、右手には非常階段へ出る扉、左手には物置、正面にはエレベーターホールとその先の区画とを隔てたガラス張りのドアがある。このドアを開けるには鍵が必要で、僕と百合莉でひとつずつ持つことにした。

 中に這入った百合莉は早速、あちこち小走りで見て回った。こういうふうにハシャいでいるときの彼女はまるきり子供みたいで微笑ましいんだ。「わぁ……まっさら! これから私達の色に染まるんだねぇ……」という感想がすべてを物語ってて、どんな調度品も置かれてなかった。エレベーターホールから伸びた細い廊下、部屋は四つ、それからトイレと、外には簡単なベランダ。内装もへったくれもないコンクリート剥き出しで、立体駐車場みたいな無機質さのみがあった。

「百合莉が稼いでくれた資金にはゆとりがある。明日から少しずつ、家具を増やしていこう。エアコンは備え付けられてるからいいとして、ソファとベッドと収納と……」

「あっちの部屋にはコンロと流しがあるから、料理もできるねぇ。冷蔵庫と電子レンジが必要だよ。それに見栄えも大切……壁紙にカーテンにカーペットに、あとこんな仕事場みたいな蛍光灯だとロマンチックじゃないからぁ、もっと素敵なランプとか……」

 まるで新居に越してきた夫婦みたいじゃないか? 高校生が一丁前に背伸びしてる感じがなかなか恥ずかしいと思ったが、まぁそんなことを云ってたら何もできないんだし、大目に見て欲しい。ともかく、その日はそういった計画を話し合うのみで、帰ることにした。明日から忙しくなりそうだ、とか云いながらね。百合莉は大いに満足気だったよ。

 でも百合莉は気分の浮き沈みが激しいんだ。日が暮れ始めたころで、橙色に染め上げられた商店街の寂しげな様子なんかも心理に作用したのかも知れない……僕は彼女を火津路駅まで送ったんだが、お別れする段になるといつも通り、帰りたくない帰りたくないってぐずり始めた。蒼褪めた顔で、まるでこの世の終わりみたいな有様ありさまなんだな。

 慰めようにも、周りに人が大勢いる中でそんなことをするのは嫌だろう? だからこうなると、僕らはいつも人気のない場所に移動するんだ。駅から離れつつ何処どこがいいかなと探していると、百合莉があつらえ向きなスポットを見つけたようで、果たして手を引いて連れ込まれたのは、まったく人目に留まることのないような陰気な駐車場の公衆トイレだった。男子用と女子用に分かれてて、僕らが這入ったのは女子用の、個室が二つだけある内の奥側だった。

 正直なところ、少し憂鬱になったな。不衛生じゃないか。においも空気も良くはなかったし、掃除は雑な放水で済ませてるんだろう、床がちょっと濡れててね、蛍光灯には蜘蛛の巣が張ってるし、勘弁して欲しかった。まぁそれだけ百合莉は見境がなくなってたということなんだけれど、個室の鍵をガチャリと掛けるなり、彼女は崩れ落ちるように僕にすがり付いた。

「嫌だよぉ。お別れしたくないよぉ。私がいつもどんな気持ちで刹くんとお別れしてるのか分かるぅ? 本当に本当に辛いんだよぉ? 吐きそうなの、うえーって、気持ち悪いの、気持ち悪いくらい不安でいっぱいになるの……ねぇ、」

 彼女は僕の手を取ると自分の左胸に強く押し付けた。制服越しの柔らかい感触――収まりが良いサイズだなぁと思ったね――そして、その奥でドクドク云ってる心臓を感じて何だか生命の生々しさみたいなものに驚きを覚えもした。他人の鼓動ってやつは普段、あまりじかに触れることがないからさ。

「分かる? こんなにドクドクドクドク……これから刹くんと離れなきゃいけないって思うと、動悸が止まらなくなるの……不安なんだよぉ、不安なのぉ、嫌なんだよぉ、嫌なのぉ、ずっと一緒にいたい、ずっと一緒にいたいよぉ……」

 とうとう泣き出してしまって、それからは僕の胸に顔をこすりつけながら話すもんだから何を云ってるんだか全然分からなかった。でも僕は彼女の髪を撫でたり背中をさすったりしてやりながら「分かるさ」とか「僕も同じ気持ちなんだ」とか「でも会えない時間にも互いを想うことで愛情はより膨らむし深まるだろう」とか「辛い気持ちや寂しい気持ちがあるからこそ、満たされることの歓びは大きくなる」とか「僕らは一緒にいる時間と同じくらい離れている時間も大切にしなきゃいけない」とか歯の浮くようなセリフを並べて、根気強くなだめ続けた。

 随分な時間が掛かった。彼女はようやく泣き止んで、それでもまだ名残惜しそうな表情ではあったけれど、僕はどうにか彼女を火津路駅まで連れて行って改札で手を振るに至った。交際を始めてからこういう段取りは慣れっこだったが、それでも疲れはするね。僕じゃなきゃあ堪忍袋の緒が切れちまうと思うよ。でもそれも全部、百合莉の愛が深刻なほど大きいからこそなんだ。贅沢な悩みと思わないかい?



 それからひとりで自転車を漕ぎ、閑静というより寂寥感せきりょうかんに沈んだ深夜の住宅街の中、ひときわ陰惨なオーラをまとっている我が家に到着。古ぼけた借家で、庭は雑草が伸び放題。みすぼらしいったらないね。窓を内側から薄紫色だったり薄紅色だったりの布が塞いでいるところなんか、あんまり悪趣味で腹が立つくらいだ。それに街灯と街灯の間隔がここだけ開いている真ん中あたりに位置しているせいで夜は暗くって、いつも玄関で鍵をさすのにモタつくんだよ。

 時刻が遅かったから父親が帰ってるんじゃないかと危ぶんだが、幸い、それはなかった。父親は神経症じみた奴でね、まったく尊敬していないし畏怖してもいないけれど、あの醜い説教はなるべく聞かされたくない。何がタチが悪いって、キリスト教かぶれなことさ――キリスト教を悪く云ってるんじゃないよ? だって父親は難しげな顔で聖書と睨めっこしてるものの、きっと『創世記』すら満足に読み通しちゃいないんだ。無能だからな。なんちゃってカトリックのくせにプライドだけは一丁前で、昔に大口の経済的援助をもらえる話が持ち上がったんだけど……たしか宗教絡みの話で、相手が邪教だとか何とか云ってフイにしちまったんだ。呆れるねぇ。

 お察しの通り、蟹原家は貧乏だ。あんなでもいちおうは働いている父親なのに、こうも酷いのはどうしてだろうな? 教会に寄付でもしてるのか、あるいは博打か風俗にでもつぎ込んでるのか? どうやら現在はどっかの工場に勤めてるらしくて、いつも昼過ぎに家を出て夜遅くに帰ってくるんだが。

 もっとも、工場勤務とは云ってもたくましさなんて皆無で、貧相な見た目のうえに性根の偏屈さがアリアリと滲み出ている不細工な中年男だよ。あんなのが父親で、よくも容姿にはそこそこ自信のある僕らみたいなのが生まれられたもんさ。これはひとえに母親が美人だったからだな……どうしてあの男がそんな美女と子供をもうけられたのかは、知らないし考えたくない。醜悪な経緯に違いないし……ああ、その母親とは、とうの昔に離婚している。父親が愛してもないくせに僕らを引き取ったのは、母親への歪んだ執着や見栄からだね。自分でもそれが分かってるせいだろう、昔はよく僕らを〈悪魔の子〉だの〈呪われた子〉だのと罵って当たり散らしていた。とにかくコンプレックスの塊なんだ。

 そんな男と二人暮らししている僕の境遇に、まぁ同情してくれるといい。

 ところで、さっきから〈僕ら〉と云っているのが気になったかい? うん、僕には双子の姉がいたんだよ。でも一年ほど前……この町に越してきて間もなくのころ、突然に消えてしまったんだ。

 このあたり、ちょっとややこしいね。これまでも何度か言及があったが、蟹原家は去年の初夏に火津路町に越してきたばかりなんだ。それに際して、僕は転入の条件が合致していた火津路高校に入った。しかし姉さんは別だった。なぜって、隠し子だからさ。出生自体に後ろ暗いところがあったからじゃなく――僕と双子なんだからね――我が家の経済状況を鑑みるに教育費やその他諸々を二人分はとても払えない……ゆえに〈本命〉を僕に絞って、姉さんには最低限のコストしか掛けずほとんど家に閉じ込めておくことに決めたわけだ、うちの大馬鹿な父親は。だから姉さんが行方不明になったことも、知っているのは僕と父親だけ。もとより姉さんは世間的には存在しない人間だったんだから。これが、蟹原家の複雑な家庭事情、その一端……。

 ああ、姉さんがいなくなって、僕の生活からは一切の色彩が欠落したよ。どれほどのショックだったのか、どうしたって他人には想像できないだろう。姉さんは僕の半身だったんだ。産まれたときからずっと一緒だった。最低な環境の中で、僕と姉さんは二人きり、互いだけが心の拠り所であり、すべてだった。それを失った僕が、どんなに不安定になったことか。まるで熱暴走だ――恥ずかしい話、僕は発狂した。その数日間の記憶はない。

 そして、いくらか落ち着いた後も僕の心は荒廃したままだった。心象風景は常に変わらず終末の眺めだった。ひどく惰性的な、だらしない生命活動を続けていたね。ありきたりな表現だが、抜け殻のような日々ってのはまさしくあれのことだ。

 そこに希望が差したのは、うん、百合莉と出遭ったからだった。

 それは安息や充足の予感だった。この一目惚れ式の予感は、彼女に接触し、彼女を知っていくにつれて確信へと変わっていき、僕は彼女に告白した。彼女との付き合いが始まってようやく、僕は精神の均衡を得たし、生活に関していくらか積極的な姿勢を取り戻したんだ。だから感謝してるんだよ、彼女には。馬鹿みたいだけど、僕は自分で思っている以上に人恋しい奴なんだな、きっと。それも、当たり障りないような平凡な恋愛じゃあ満たされない……いっそ病的な愛情を求めていたんだと思う。百合莉はそれをくれたんだ。

 ところで、どうして姉さんは家を出て行ったんだろう? 姉さんはこの家のことは嫌いだったにせよ、僕のことは愛していた――僕らは愛し合っていた。なのに、僕に何の相談もなしに突然……という疑問を僕は、実は全然抱いていなかった。だってそうじゃなきゃ、僕は姉さんを探し回っていなければ嘘じゃないか。うん、発狂の後、曲がりなりにも惰性的な生活に落ち着き得たのは、姉さんの行方不明の真相ってやつに見当がついていたからだ。あの発狂はもっぱら、それを認めるための過程だったんだろう。

 姉さんが僕に黙って出て行ったりするはずがない――とすると、姉さんは殺されたんだよ。あの父親によってね。なぜなら、我が家の困窮した経済状況ではもう姉さんを養っていくことが難しかったから……どうせ存在しない子供、殺したところで露見しない……と、こういうわけだ。証拠はなかったが、そうとしか考えられなかった。あの下卑げびた自己愛しか持ち合わせていない父親は、それくらい平気でやる。人情や倫理なんてありはしない。

 そうと分かったときは無論、本気で殺してやろうと思った。それまでもそんなふうに思うことはそりゃ何度もあったけれど、あのときこそ、本物の殺意ってやつを知ったね。だが、ついに実行には移されなかった。僕は発狂こそすれ理性的な思考ってのを失いきれなかったし、それに本来が虚無的な人間なんだな……姉さんが死んだ以上、僕が復讐心から父親を殺したところで、どうにもならないんだ。僕が困ることになるだけなんだ。ああ、それが分かっていたから、発狂くらいしかできなかったのかな。あとは怒りよりも、悲しみの方が覆い尽さんばかりに大きかったもんだから。あの、恐ろしい失意……虚しいねぇ、虚しいばかりだったねぇ……。

 ……この辺の事情や僕の葛藤は話そうと思えばもっと詳細に渡って話せるけれど、もうやめておこう。これからまた何度も出てくる話だ。特に姉さんについてはね、僕にとって一番重要なんだから……いまはそれだけ気に留めておいてくれ。



 さぁ、僕が語る僕の物語の第一日目はこれくらいでいいだろう。前置きみたいなものだったから、少し退屈させてしまったかい? でも既に水面下では、これから訪れる大狂乱の下準備が着々と整えられていて、しかも夜には端を切っていたんだよ。

 この夜、火津路町では二つの連続殺人事件がスタートした。連続首切り殺人と、連続脳姦のうかん殺人だ。それぞれ非常にセンセーショナルであって、都会とも田舎とも付かない冴えない火津路町の名も全国区となったが、当の町民にとってみれば、そんな派手さとはいささか異なる……どこか息苦しい圧迫感で満ちたこの町の風土と絡み合って、それらは粘つくように嫌らしく不快な、人間生理をぐちょぐちょと掻き回す、淫靡いんびで陰鬱な事件だった。

 僕らの……世にも最悪な夏休みの始まりだ。
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