虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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新進気鋭の女探偵・海老川蝶子

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 なんたる偶然だと思ったけれど、考えてみるとそう不思議でもない。だって脳姦殺人の犯人は公衆トイレ――それも人気のない公衆トイレを選んで犯行に及ぶわけで、僕と百合莉もまた別の目的からそんな場所に、しかも毎日、通っていたんだ。時間帯にしたって、昼間は論外である一方、もう少し遅くなると今度は警戒が強まってしまう。つまり、これが僕と百合莉がトイレに留まってる一時間前後と重なるのもまた、決して低い確率じゃなかった。くして、僕らは凶行の現場に居合わせ得たんだ。

 百合莉は口元を手で押さえてガタガタと震え始め、さらには泣き出してしまったもんだから、僕らはすぐに撤退した。警察には通報しなかった。何のメリットもないのにわざわざ面倒を被ることないからな。

 しかし当然〈解散。また明日〉とはならなかった。百合莉が受けた衝撃やそれによって生まれた恐怖……それらは理屈ではどうしようもない生理的・生物的なもので、とにかく僕は彼女にとってこの世界唯一の安全圏たる〈愛の巣〉へと彼女を連れて戻るしかなかった。そうでもしないと痛いくらい僕の腕にしがみついて離れなかったし、まさか突き飛ばして放っておくなんてできないだろう?

 リビングのソファにて、僕は百合莉の頭を抱いてやっていた。彼女の震えは全然おさまらなくて、歯の根も合わない有様だった。寒い寒いって云うからエアコンも止めたくらいだ。

「こ、怖いよ……嫌だよ……か、帰りたくない……ひとりにしないで……お願い、刹くん……今日は此処に、泊まろうよ……」

「いいの? 無断外泊なんてしちゃって」

「いいよ。また折檻せっかんされるかもだけど……刹くんと離れたくないよ……怖いよ……」

 折檻? へぇ、百合莉の家では折檻されるのか。うちの似非えせキリスト教的説教とどっちがマシかな。

「泊まるのは僕も平気だけれど、でもシャワーがないね」

 小さな銭湯なら割と近くにあったが、連れて行けそうな様子じゃなかったのは云うまでもない。

「…………私は、気にしないよ」

「ひと晩くらいだしな。じゃあ分かった。そうしよう。うん、夕食は僕がつくるよ」

「いい。食欲ない……それより、こうしてて? ずっと……」

「ああ」

 ご要望にお応えした。彼女に死体を見せてしまったのも、半分以上は僕の責任だったし。まさかこんなにも怯えさせてしまうとは思わなかったんだ。僕との恋愛絡みでなければ、百合莉もいたって普通の女の子なんだな。

 静かな時間だった。僕は先程見て知った事柄から脳姦殺人について考えていたが、それでもやがて考えることが尽きて、記憶にも止まらないような他愛ない思考をボーッと続けるのみとなった。百合莉は段々と震えがおさまってくると、今度は「うーん……」とか甘えた声を出しながら僕の身体に頬を擦り付けて、時々上目遣いでチラチラと見上げてきた。

 あざといなぁ、と僕はちょっと辟易へきえきしたものの、百合莉の潤んだ瞳や薄く開いた唇がこのとき、いつになく魅力的に映ったのも確かだった。それに、何か強い期待をかけられているのも感じたし……これ以上焦らしておくと、とても彼女が哀れにさえ思えた。だから、あまり気は進まなかったけれど、僕は彼女に口づけした。

「ん……っ」

 自分から執拗に目配せしておきながら、百合莉は少しビクッとなった。それで僕は、何だろう……火が点いたと云っては下品だが、なんかこう、嗜虐的な気分になったんだな。左手で百合莉の肩をギュウと掴んで、右手では頭の後ろを押さえ付けるようにして、そのまま咥内に舌を入れてやったんだ。百合莉は「んっ、んっ」と色っぽい声を洩らして、されるがままになっていたよ。長い接吻を終えて顔を離すと、のぼせたみたいに赤くなって、とろんとした目つきをしていた。唇の端から涎が細く糸を引いていて、それが何とも云えずいやらしかった。

「刹くぅん…………」

 一度そう名前を呼んだきり、彼女は俯いて黙り込んでしまった。僕らにとってはじめてのキスだったが、この反応を見るに、これまでも彼女には経験がなかったみたいだった。でも期待以上だったらしいよ、彼女はすっかり脱力すると僕に身を預けてきて、僕が髪とか首筋とかに触れるたびにゾクゾクしてる様子だったから。何だかなー……人間の女の子ってより生物のメスって感じで、僕はどうしてか自嘲気味な笑みを浮かべちまった。

 百合莉は僕の太腿を撫でたりなんかして言外にねだってたけれど、僕はそれ以上のことはしなかった。本当だよ。キスもあんまり良いもんじゃないと思った。しばらくしてから僕らはベッドルームに行って同じ布団に入ったが、それでも僕は性的な意味合いにおいては彼女に触れなかったし、彼女にもそうさせなかった。ただ「刹くん、もう一度、したいな……」と云うもんだからキスはしてやったけどね。あとの彼女はひたすら僕の腕の中で「好きぃ……大好きぃ……」「愛してるぅ……愛してるよぉ……」なんて延々と呟いてた。僕も時々は相槌あいづちを打って、でもいつの間にか眠りに落ちていた。寝つきはいいんだ。


    ○


 翌朝になると百合莉は完全にいつもの調子を取り戻していた。目覚めた僕に「あ。刹くん起きたぁ。おはよぉ。刹くんと一緒に朝を迎えられるなんて、これ以上の幸せはないよねぇ」と微笑みかけることから始まって、なかなか布団から出ようとせずに僕にじゃれついてきながら「昨日の夜は素敵だったねぇ……二人の距離がまたギュッと縮まったよねぇ……」「はじめてのキス、あの感じ、一生忘れないようにしなくちゃあ」「刹くんったら強引なんだもん……ふふ、でも嬉しかったぁ。頭の中がぽーっとして、身体が浮いてるみたいになっちゃったよぉ……」等々、滔々とうとうと語り続けていた。これじゃいつも以上かもな。興奮が一晩遅れてやって来たかのようだった。

 だからこそ、朝食のサンドイッチを平らげるなり僕が、

「公衆トイレの様子を見てこようと思うんだ。百合莉は此処で待ってて」

 と云ったときの彼女の落差ったら凄かった。表情が一瞬で固まって、まるで彫像みたいだったんだから。

「えーっと……どうして?」

「どうしてって、気になるからだけど。百合莉も気にならないかい? でも来るのは辛いだろうから、待ってていいよ。大丈夫、すぐ戻ってくる」

 返事する暇も与えず、僕はそそくさと出て行った。ひとりで行きたかったんだ。

 百合莉が朝食の準備をしている間にテレビで朝のニュースは確認したけれど、脳姦殺人は取り上げられていなかった。しかしひと晩たてば、さすがに発見されたんじゃないかと思う。人気がないとは云っても車は数台停まっていたし、ひとりくらいトイレを利用しても不思議じゃないだろう? ……こういう情報はパソコンでも使えば早いのかも知れないが、それは買ってなかったんだ。インターネットというやつが僕は好きになれなくてね。世界中にアクセスできるだなんて、人間の手にゃ余り過ぎるに決まってる。そいつは良くないよ。それに、好きかどうかはともかく、この町の閉塞感みたいなものは大事にしたいんだな。

 数分で目的地に到着。案の定、駐車場の周りには人だかりができていた。群衆の後ろに立って背伸びしてみると、黄色いテープで仕切られた中にパトカーだの何だのが停まってて、捜査関係者がトイレに多数出入りしてる様子が臨めた。なかなかの賑わいだったね。野次馬たちの話し声を聞くに、此処で発見されたのが何なのかはまだ分かってないらしかった。首切り殺人だって推測してる人が多かったよ。つまり警察がやって来てから間が経っていなくて、野次馬たちもほとんどが偶然の通りすがりなわけだ。

 大した情報は得られないなと思って、僕は引き返すことにした。新しいパトカーが狭い路地を走ってきて、じきに報道陣も駆け付けそうだった――それは憂鬱だからな。僕は騒ぎが見たくて来たんじゃない。だが背後にできていた人垣を抜けて溜息を吐き、〈愛の巣〉へ向かって歩き出した、その時、

「君、ちょっといいかしら?」

 肩を叩かれて振り向くと、背の高い女の人が立っていた。

「あら、髪が長いから女の子かと思ったわ。まぁいいけど」

 パリッとした白シャツは清潔感があったし、化粧の仕方も趣味良くて、火津路町にはおよそ似つかわしくない都会的な装いだった。黒髪のショートカットでも子供っぽさより大人っぽさが強調されてて、体型もスマート、表情は知性と自信に溢れ、しかしふちが太めの眼鏡がそれとなくキツい印象を緩和してもいて、とにかく抜け目ない。やり手のキャリアウーマン? 僕に何の用だ? ちょっと面食らっちまったね。

「少し話を聞きたいのよ。此処は五月蠅いから、こっちに来てくれる?」

「はあ」

 喫茶店か何かに連れて行かれたらさすがにだるいと思ったけれど……百合莉をそう長く待たせておけないからね……〈少し〉というのは本当らしくて、一本向こうの路地に移動しただけだった。歩き方もキビキビしていていちいち格好良いその女性は、振り返りざまに名刺を一枚手渡してきた。

『私立探偵――海老川えびかわ蝶子ちょうこ Chouko Ebikawa』

「……探偵、ですか」

 いやぁ、鼻白んだねぇ。詐欺に遭った気分だよ。よりにもよって〈探偵〉ときた。第一印象はたちまち決壊して、もう僕には目の前の海老川さんとやらが胡散臭いインチキ女にしか見えなくなった。気取ったふうに腕を組んで壁にもたれ、なおも自信満々で微笑んでるのがまた、腹立たしかったなぁ。

「ええ、新進気鋭の女探偵よ。専門は連続殺人」

 新進気鋭なんて自分で云うもんかね? それよりも気になるのは後半だったが。

「連続殺人が専門? 探偵という職種の人とははじめて会いましたから滅多なことも云えませんけど……少し変わってますね?」

「それには理由があるの。君、推理小説は読む?」

「それなりに読んでる方かと思います」

「じゃあ分かると思うけど、名探偵というのはあれだけ優秀でありながら、往々にして事件を防ぐことはできないのよ。だって現れるのは事件が起こってからなんですもの」

 当たり前のことを説明された。探偵じゃなくたって同じだろうに。

「仕方ないんじゃありませんか?」

「そうね。これから起こる事件を予見して犯人とその犯罪計画を糾弾きゅうだんする……これは難しいわ。奈々村久生も〈ザ・ヒヌマ・マーダー〉を阻止できなかった――『虚無への供物』は読んでる? ええ、私は古今東西の推理小説に登場する素敵な名探偵たちを敬愛してるけど、彼らがその優秀な頭脳を事が済んだ後にしか行使できないという事実には歯噛みするの。だから私は連続殺人を――進行中の連続殺人を専門とする」

「なるほど。被害者の数を抑える……つまり、これから続くだろう悲劇を断ち切ろうってわけですね」

「その通り。理解が早いわね? 連続殺人であれば、ミッシング・リンクを解き明かして次なる悲劇を推理することが可能だわ。これは無差別殺人であっても同じ……いくらランダムを心掛けたって、それが人為である以上は必ず、犯人の性格指向や深層心理などが偏向・特徴となって表れる。ねぇ、名探偵が連続殺人の渦中において調査にあたるという筋の推理小説も数多いけど、それらもやっぱり大半は事件のドラマチックな終幕、そうでなくとも犯人の試みがおよそ完了してしまった後にやっとこさ〈皆を集めてサテと云い〉解決編じゃない? 私はそうはしないわ。手掛かりがすべて集まらなくたって、証拠がすべて揃わなくたって、そこを卓越した推理力で補ってこその名探偵。私の探偵としてのスタンスがお分かりいただけたかしら?」

「それは分かりましたけど……」

 話を聞かせて欲しいと云われてついて来てみれば、さっきから話を聞いているのはもっぱら僕なんだが、こいつはどうしたことだろうな。まぁ……所詮はフィクションであって読者を楽しませるように展開されている小説の内容を、あたかもリアルのそれであるかのように捉えて大真面目に葛藤しているらしいところを見たって、海老川さんがいささかファンタスティックな脳味噌の持ち主であるのは窺える。まともさは期待できないのかも知れなかった。

「さぁ本題」とうなづく海老川さん。

「この火津路町で首切り殺人の二人目の被害者が出た――すなわちこれが連続殺人になったと知るや否な、私は飛んできたってわけ。そして機敏に動き回って、根を張りフィールドワークを行い情報を収集していたところよ。そうしたらこのタイミングで、俗に云う脳姦殺人も二件目が起きたじゃないの?」

「へぇ、今の現場ですか? 脳姦殺人とは知りませんでした」

 僕はしらばっくれた。関係者でないなら、まだ知ってはいないはずの情報だ。これで反応を見ようなんて、新進気鋭の女探偵が笑わせる。なんともチープな罠だよ。

 しかし海老川さんは僕が釣られなかったことに対する落胆は見せなくて、

「犯人は現場に戻ってくる――特にこの手の劇場型犯罪者には多く見られる心理ね。だから私は観察していたの。野次馬の中に犯人がいるかも知れないと」

「ちょっと待ってください」

 さえぎった。突っ込まずにはいられない箇所があった。

「不思議なんですけれど、どうしてそんな芸当ができたんですか? 脳姦殺人の二人目の被害者が発見されたってのは、ついさっきの話なんでしょう? それが脳姦殺人だと知って、しかもこんなに早く現場で張っているだなんて、少し不自然に感じられますが?」

「ええ、いかにも私は在野の探偵、さらには余所者よそものだけど――さっき云ったでしょう? 根を張ったって。捜査関係者との繋がりがあるのよ。通報があった直後に、私にも報せが回ったってわけ」

 ……こちらとしては有難いが、こうも簡単に手の内を明かしてしまうのは如何いかがなものかと思ったね。

「話を戻すわ。そうやって観察してたなかで、ただひとり、目に着いたのが君だったのよ。他の野次馬連中とは明らかに様子が違う――見たところ、高校生かしら? なのにその落ち着きは何? 興奮や戸惑いははじめからなくて、終始何かを〈確かめてる〉ふうに私の目には映ったわね。そして何の未練もなさそうに、むしろうとましがるかのように、早々に去って行こうとした――私に呼び止められてこうして付き合ってくれてるんだから、つまり急ぎの用事があるんでもないのにね。浮いてたのよ、君。群衆は群衆に溶け込もうとせずして溶け込む。一方で群衆に溶け込もうとする者はその作為が差異となるせいで溶け込めない……見逃すことはできないわね、残念ながら」

「えーっと……それって要するに、勘ですよね?」

 呆れちまった。

「でしたら勘違いですよ。残念ながら」

「舐めちゃいけないわよ。探偵の勘はすなわち推理の出発点なの。無数に存在する可能性の中から真相へ至るそれを直感して、諸現象を繋ぎ合わせていく――矢吹駆の本質直感ね」

「『サマー・アポカリプス』までなら僕も読んでますけど、それの何処が本質直感なんです? 事件現場で僕が他の野次馬と比べて悪目立ちしてたってことに、脳姦殺人のどんな本質が潜在してるって云うんですか?」

 これには海老川さんも目をみはった。このぐらいの切り替えしで驚かれても困るんだがな。

「君、その歳で大した読書家ね? 安易なネームドロッピングは通じないってわけ?」

「勘違いさせた僕にも責があるかも知れませんけど、こういう人間なんですよ。何か騒ぎを見掛けても、ちょっと立ち寄りこそすれ、目をキラキラ輝かせたりはしないんです」

 僕は強引に会話を打ち切り、続けておいとまを告げようと決めていた。もう付き合い切れねぇやと思ったからね。ところがだよ、

「ふぅん、まぁいいわ。この場は単なるファースト・コンタクト。目的は達成されたから。いずれにせよ、私は君に興味を持った……海老川蝶子の名、覚えておいて頂戴」

 急にあっさり居直ったかと思えば、海老川さんはきびすを返してサッサと事件現場の方へ戻って行ったんだ。あまりの尻切れトンボぶりに、ひとり残された僕は呆気に取られてしまった。

 いやぁ、狐に摘ままれたようなってやつだ。何だったんだ、今の時間は?
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