虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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倒錯的奉仕の代償が募る

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 百合莉はソファーの上で膝を抱えて泣いていた。僕を見上げたその目は真っ赤に充血していて、怒りとも悲しみともつかない昂奮をたたえていた。唇の下には強く噛み締めた歯形まであった。

「私、もう家には帰らないっ……此処に住むっ……」

 それはいかにも視野狭窄きょうさくに陥ったそのとき限りの決心というやつに違いなかったんだけど、百合莉の偏執的な性格ならあるいは相当に長く続きそうでもあったし、いずれにせよ今この場では本気だった。

 ああ、こういうのを見ると、僕は芯から愛おしくなっちまうんだ。しかもこの場合、僕も境遇は似ていたからね。

「無断外泊をとがめられて、折檻されたんだね?」

 百合莉はピクッとしゃくり上げて、俯くと再び涙がぽろぽろ零れ出した。

「……に、逃げてきたのぉ……もう外出を禁止されて、と、閉じ込められそうになったからぁ……」

 僕は隣に腰を下ろして、いつものように彼女の髪を撫でた。此処に住む、というのは現実的じゃない。問題を引き延ばし、さらに厄介にさせるだけだ。でもそういう実際的な話を教えさとそうとは思わなかった。

「好きなだけ此処にいるといいさ。此処だけは、どんな脅威も及ばない。百合莉に味方するものだけで満ちてる。だから安心して、自由にするんだ」

 どうせ長い夏休み、一生にすら等しい夏休みだ。終わりのことなんて考えなくていい。

 ……だなんて、どういうわけか、このときは僕もそんなふうに呑気な構え方をしていた。たぶん、気分が良かったんだろうな。これで百合莉の僕への依存はさらに深まると分かっていたから。それに、傷の舐め合いじゃないけれど、家庭の事情で苦しむ百合莉と一緒にいることで、昨日あの父親から受けた仕打ちが〈不幸なのは僕だけじゃない〉式の一種後ろ向きなポジティブ・シンキングによって和らぐようにも感じられたんだ。

「ぅん……刹くぅん……」

 百合莉は甘えた声を出して、しな垂れかかってきた。キスを求めてると気配で分かったけれど、僕はそうせずに彼女の右手を取って、リストカットの痕がバーコードみたくなっている箇所におもむろに舌を這わせた。

「あっ……」

 百合莉ははじめ驚き、それからは顔を赤らめながらゾクリゾクリと感じ始めた。彼女が求めているものが何かしら〈背徳的な行為〉であること、そして僕のサービス精神がこのとき、こういった変態的な嗜虐趣味となって表れたんだな。ザラザラした舌触り、どこかピリリと痺れるような感覚……。

 僕は長くこの奉仕を続けた。挙句あげく、百合莉は満ち足りた疲労感によって、まるでふやけたみたいになっていたよ。そこでふと思い付いて、まぁ親密な友人のいない百合莉だから無駄だろうとは思いつつも、ひとつ訊ねてみた。

「ねぇ百合莉、火津路高校で夏休み前にレイプ事件か何かあったか? 表沙汰にはなってないにしても、そういう噂とか聞いた憶えってある?」

 予想外の反応が起こった。緩みきっていた百合莉の表情が一瞬で化石し、見開いた目で僕をジッと見詰めたまま動かなくなったんだ。だけど間もなく、そのままの表情で、彼女はゆっくりと首を左右に振った。

「……知らないよ?」

「そっか」

 追及はせず、ただ百合莉のこの反応を記憶に留めておくのみとした。刺激を与えたらまずそうだと思ったからね。



 僕はいつもくらいの時間になると〈愛の巣〉を出た。百合莉は僕も一緒に泊まってくれるものと信じ込んでいた節があったけれど、そうはいかない。家出同然に抜け出してきた彼女と違って、僕の方は帰宅してなんら問題なく、むしろ帰宅しなければまたあの……思い出したくもないしつけを受ける羽目はめになるんだ。

 なのにさぁ、百合莉はここでも同情を誘おうとする眼差しを向けてきたんだよ。そればかりか、帰ろうとする僕を非情だと責めるようでさえあったんだ。家出までしている自分に付き合ってくれないなんて不当だと云わんばかり……ああ、口に出しこそしなかったが、そういう空気を、鼻をつまみたくなるくらいにおわせていた。

 これは無神経だったねぇ。家に帰れる僕と帰れない自分……そこに、受けている迫害の差が出ているんだとでも考えてたんだな。畜生。それは違うだろう? 百合莉が普段されている〈折檻〉がどういうものかも知らないとはいえ、僕のそれが程度において劣るなんては絶対に有り得ない。ただ、うちの父親は低能で、怒りを持続させていられる体力もないから一回限りになるというだけ……でもその一回一回は屈辱的だなんて言葉じゃあ全然足りない酷いもんなんだ。

 僕はね、自分こそが一番不幸だとか何とか考えてヒロイズムに浸ってるような奴が大嫌いだよ。思い知らせてやりたくなる。ああ、百合莉に僕が昨晩されたことを克明に描写して聞かせてやろうかと思ったが……そこは堪えた。それをやっちゃあ僕も不幸自慢で悦に入るくだらない人間と同格になっちまうからな。

 百合莉には自由にする権利がある。でも僕にもそれはあって、百合莉にはそれを拘束する権利まではない。親しき仲にも礼儀ありってのは何も大層なことじゃなくて、当たり前に尊重し合うってことなんだ。……まぁこんなふうなことを、オブラートに包んで諭すのみに留めた。

 この日はこれだけだ。強いて云うなら、急いで帰宅して夕食を拵えて、そのときにも無性に腹が立ったなぁ。僕だって望んでこんな家に帰ってあんな父親のために料理なんぞしてるんじゃないんだ。当たり前だろう? なのに……くそ、百合莉があんなに馬鹿だとはな!

 昼間はとても愛おしく感じてリストカットの痕を舐めるなんてサービスまでしてやった僕なのに、同じ日の夜には些細なことからこんなにも憎たらしく感じてる。それを思うと自分が滑稽でもあったけれど、何と云うか……こういうのはどうしようもない人間心理ってやつだ。実際、誰しもこんなものじゃないかい?


    ○


「ねぇ刹くん、私のこと愛してる……?」

 百合莉は視線を床に投じて、自嘲気味な笑みで問うてきた。翌日のことだ。〈愛の巣〉でひと晩明かした彼女。もしかしたら二人だけの空間たる〈愛の巣〉でこそ、独りで過ごす時間はより寂しく際立ったのかも知れないな。憔悴してるふうでさえあった。事実、何も食べてないと云うんだよ。風呂の方は、近くの銭湯を利用したみたいだったけど。

 可哀想なことをしたかなと思った。昨日の別れ際の僕の態度はちょっと冷酷な感じだったし、唯一の味方である僕にそうされることが百合莉にとってどれだけ絶望的なのかは想像するにあまりあったからね。

「ごめんよ、百合莉。僕もできるだけ君と一緒にいたいって心から思うんだけど、なかなかそうもいかなくてね……分かるだろう? 世の中ってのはままならないものなんだ」

「うん、分かる。大丈夫だよ、気にしないで……ごめんなさい。私のこと面倒臭いって思わない?」

「思うわけないだろう? 百合莉は僕にとって第一なんだから、そんな心配はやめてくれよ」

「ごめんなさい……でも、怖くなっちゃうの。刹くんに嫌われたり、飽きられたりしたら、私……きっと死ぬからね。絶対に死ぬから。絶対に……」

 後半は僕にではなく自分に云い聞かせてる感じだった。瞬きもしないで、床の一点を穴が開くほど凝視してね。こいつは相当堪えてるなぁと、僕もいささか参ったよ。だけどやっぱり、そんな彼女の様子を見て満たされるようにも感じるんだ。

 僕はまた百合莉のリストカットの痕を舐めてやった。彼女はこれを気に入ったみたいだったから。何と云うか現金なもので、これをしてやると彼女は顔を真っ赤にしながら、身も心もトロけたふうになるんだよ。耽美主義的で、かつ秘密めかした行為……これが百合莉を感じさせるんだな。

 ただ今にして思うと、こいつも実は上手くなかったのかも知れない。舐める箇所があくまで手首にとどまるという点が、百合莉にとっては〈おあずけ〉を食らってるみたいで、その欲求不満をさらに増幅させる方向に作用してたんじゃないかな。行為をやめたとき、百合莉が名残惜しそうな、もっと物欲しそうな切ない表情を垣間見せていたのが証左だ。

 ……そろそろ勘付いただろうか。僕と百合莉の歯車ってやつが、ここにきて次第に狂い始めてきたことに。
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