虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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オットー・ランクに捧ぐトリック

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 惨状はすぐ、視界に飛び込んできた。部屋の中央で老婦人――玖恩寺富恵の死体は、足をこちらに向けて、うつ伏せで横たわっていた。ああ、死んでいるのは一目瞭然だったよ。死体を中央にして絨毯の上を広がり染み込んだ血の量は尋常じゃなくて、身に着けているパジャマも元の色が分からないくらい赤黒く染まっていたからね。それにしてもにおいが……においが堪らない。空気に溶け込んで希釈きしゃくなんてされてない、人間のハラワタに頭から突っ込んでるみたいな濃さなんだよ。うん、血液ってよりも五臓六腑そのもののにおいだった。そんなの嗅いだことはなかったけど、これがそうなんだって分かる……思い知らされる感じだったんだ。

 五感すべてで以て、これが現実に他ならないってことを流し込まれるように知覚させられて、僕は改めて感心させられた。なぜって、この玖恩寺家で二件目の密室姑殺人は本当に起きていたんだからな。海老川さんの推理……論理的にはズタボロだったが、真実を直観する能力については、これで大いに実証されたんだ。見直したね。アッパレな探偵ぶりだよ、皮肉じゃなく。

 さて、その名探偵はと云うとまず二つの窓を確認して回った。この部屋は角に位置していたから、窓は二つの面にそれぞれついていたんだ。どちらもカーテンは開け放たれていて、近づくまでもなく僕もそれを見た――錠は下りていた。

「確かに密室ね。蟹原くん、その扉の内錠も見てみなさい。つまみが小さくて、しかも半円形だわ。扉の下に隙間はあるけど、そのつまみじゃ〈針と糸のトリック〉は使えない。つまみに糸を結びつけて外から引っ張っても、錠が回転する前にまず糸がすっぽ抜けてしまう。かと云って糸をつまみに固定するためのテープやクリップ等は痕跡を認められない」

「そうみたいですね。密室の状況は喜久岡家の事件とまったく同じってわけだ」

「ええ、それに死体の状態もね」

 死体……聞いていた通り、玖恩寺富恵はでっぷりと太っていた。それがうつ伏せで横たわっていて、片側からは下敷きになった腸が一部はみ出していた――出血量から見ても、胴体前面を切り開かれているのは間違いない。喜久岡松見と同じ殺され方。それにしても、わざわざうつ伏せにしてくれてるのは有難かったな。でなきゃとてもじゃないけど見るに堪えない光景だっただろうから。

「皆さん、」

 海老川さんは廊下で各々途方に暮れている玖恩寺家の人々へと向き直った。

「多大なるショックを受けているところ心苦しいですが、今から犯人とその犯行手口についてお話させていただきます」

 でも〈皆さん〉はウンともスンとも云わないんだな。哲典さんだけは力なく海老川さんの方を見ていたが……と思いきや、

「大丈夫だよ」

 軽い調子でそう云ったのは未緒ちゃんだった。まるきり平常と変わらぬ感じで、忌避せず富恵さんの死体を見詰めていた。ショックが飽和したことでかえって平静になっているんでもなければ、人の死についてまだ理解できてないんでもない、おそらく元来がこういう子なんだろう。

「お祖母ちゃんは〈富恵〉だもん。今に傷口から何人も再生するよ。つまり増殖するってことだから、叔母さんはもっとノイローゼになっちゃうかもね」

「未緒ちゃん、それはどういう意味?」

 海老川さんが訊ねると、

「知らないの? 伊藤潤二の『富江』だよ」

 すると母親の眞由美さんが「あ……また漫画の話ね? 駄目よ、未緒」

「そうよ、何を考えてるの! こんなときに!」

 澄風さんもなかなか凄い剣幕で叱咤しったした。元気が出たようで良かったな。

「何なの。怒鳴らないでよ……」

 未緒ちゃんは不満そうに唇を尖らしたけれど、それ以上は喋らなかった。反省の色はない。こりゃあロクな人間にならないな。結構結構。

 海老川さんがコホンと咳払いすると、皆はやっと彼女に注目した。

「これは先日、喜久岡家にて起きた事件を第一とする連続殺人の、二件目であります。ただし犯人は同じでありません。犯行手口のみを引き継いで、この家の人間がおこなった殺人なのです。よって、この玖恩寺富恵さん殺害事件を解決することは、先の喜久岡家のそれを解決することでもあり、この後も三件目、四件目と続いていくはずだった連続殺人を未然に防ぐことでもあるのです」

 わざとらしい演説調だが、様にはなっていたな。混乱している面々も、その混乱を取り除いてくれる――真相を看破してくれるらしい海老川さんの言葉に、大人しく耳を傾けていたよ。まぁ犯人がこの中にいるって聞くと、分かりきっていることとはいえ、互いに顔を見合わせたけどね。

「部屋は密室状態です。聞き慣れないかたもいるかも知れませんが、要するに内側から施錠されており、なおかつ外側からはその操作が自由でない……犯人の出入りした術が、およそ存在しないように思われる状態ということですね。凶器は少なくとも死体の周りには見当たらず、その死体は致命傷を負った後にひっくり返されたらしいところからも、他殺であるのは確実。これは純然たる密室殺人であると云えます。

 密室とは本来、他殺を自殺に装うことを目的とするものですが、この場合は違います。おそらく、不可能性の演出でしょう。容疑者が挙がったところで、立証できなければ犯人とは見做みなせない我らが法治国家。喜久岡家の事件でも警察は手を焼いています、この密室トリックについてね。しかし裏返せば、これこそが事件の肝であって犯人の生命線であるのです。犯人もとい犯人たちは、トリックに絶対の自信を持っている。

 この手の計画的犯罪は警察の〈足で稼げ〉式捜査法では解決できません。真相へ到達するためには、犯人を上回る頭脳を持った名探偵こそが必要なのです。そこで登場したのが私、海老川蝶子――ええ、犯人は既に分かっています」

 海老川さんは一歩、前へ進み出た。それから演出たっぷりに一同を見回し、その視線をひとりに固定した。

「貴女です、玖恩寺澄風さん」

 呼ばれた澄風さんは、ギョッと身をすくめた。それも束の間、

「違うわ! 出鱈目でたらめを云わないで頂戴!」

 血相を変えて否定した。夫の腕を掴んで「違うからね!」と繰り返した。でも哲典さんも眞由美さんも、複雑な表情を浮かべこそすれ、味方に立とうとする素振そぶりはなかった。内心、澄風さんが犯人じゃないかとは予感してたんだろう。彼女と玖恩寺富恵との仲があまり良くなかったというのは、さっきから端々に表れていたしね。

「本当に違うんだから! 人殺しなんてとんでもない――お義母さんが相手だからって、私がそんなことをするはずないでしょう? ねぇ、なんとか云っ――」

「お静かにッ!」

 海老川さんの一声。大した迫力で以て、興奮した澄風さんをピタリと制してしまった。

「私はまだ名前を告げただけ。そうも取り乱す必要はないんじゃありませんか、澄風さん。貴女が犯人でないなら、ありもしない犯行を立証される心配もまたないのですから」

「な……貴女が出鱈目を云うからでしょ……」

 引きつる澄風さん。

「反論は私の話が終わってからにしてください。そもそも、そうでなければ反論ではありません。ええ、皆さんどうぞ静粛に。名探偵の解決編に無粋な悶着があってはいけません」

 さっきから名探偵名探偵と繰り返されるのが〈馬鹿みたい〉だったのかな、くすくすくす……と、未緒ちゃんが笑みを洩らした。これにまた澄風さんがキッと反応しかけたけれど、相手は子供、さすがに自分のみっともなさに気付き始めたのか、ここは堪えたようだった。そして海老川さんを睨み据える。……この顔がまた凄まじくてねぇ、哲典さんが立ってるのはその背後だったが、もしもこの顔を見ていたなら百年の恋だって冷めたと思うよ。

 でも海老川さんはそんな睥睨へいげいものともせず、咳払いを挟んでから、落ち着いた調子で話を再開した。ところで僕はいい加減、酷い悪臭の充満する室内に立っていることが耐えられなくなってきてたんだけれど……我慢するしかない。うん、全然慣れたりはしないんだな、ああいうにおいは。

「犯行手口を引き継ぐ連続殺人であるからには、その犯人たちには繋がりがなければなりません。この場合、それは主婦たちの井戸端会議的コミュニティでした。玖恩寺家と喜久岡家の接点とは、澄風さんと喜久岡遥香さんとがご近所付き合いをしているところにあります。喜久岡家では遥香さんが以前から疎ましく思っていた姑・松見さんが殺害されました。そして玖恩寺家でもこうして同じ惨劇が起こり、被害者はやはり姑の富恵さんです。これは連続密室姑殺人なのです。

 この二件目の事件が起きた時点で、同じ犯行手口、どちらにも嫁入りした若い女性がいて二人は顔見知り、被害者は彼女らの姑……警察でなくても、連続密室姑殺人の構図には誰しもが気付くでしょう。犯人にこれを隠す気ははなからありません。ええ、先程も述べた通り、彼女らの防護壁は密室トリックです。さぁ突き崩しましょうか、それを。

 皆さん、周りを見回してみてください。部活動に励んでいるという木葉くんを除き、この場にいない玖恩寺家の人間がもうひとりいますね?」

 別に必要ないのに、云われた通りキョロキョロする一同。

「……文也のことですか?」と哲典さんが代表した。

「そうです。澄風さんがご出産なさった、まだ赤ん坊の文也くんです。彼は今どこに?」

 やや間があって、今度は澄風さんがおずおずと口を開く。

「文く……文也は寝室で寝ています。朝食の後はいつもお昼寝しますから」

「それ以前は、文也くんの姿を他のかたも目にしていましたか?」

「見てましたよ。リビングにいましたからね」

「では、寝たのはどのくらい前ですか?」

 澄風さんが考える素振りを見せると、代わりに眞由美さんが「もうじき二時間じゃない?」と補佐。

「文也くんが午睡を始めてから、今まで彼の様子を見に行ったかたはいますか?」

 これには、誰も答えなかった。

「いないのですね」

 海老川さんは我が意を得たりを云わんばかりだった。

「今日、この富恵さんの部屋を訪れたかたもまた、いませんね? なるほど、もしも二時間前までに誰かがそうしていたなら、これは密室殺人とはならなかった――富恵さんは早朝に殺されてしまっていたと思われますが、錠は開いていたことでしょう。しかし此処は一階の一番奥。廊下に漏れ出たにおいに誰も気付かなかったのも仕方ないですし、聞くところによれば富恵さんは朝が遅い方だとか? ならば密室の完成以前に富恵さんの死が発覚しなかったのも無理はない、どころか当然と云えます。澄風さんからすれば別段、危ない橋を渡ったわけでもありませんね」

「ねぇ、」

 苛立たしげに口を挟む澄風さん。

「知りませんよ、危ない橋とか何とか。それより、文也に何の関係があるんですか?」

「大ありですよ。澄風さん、もう分かっているはずです。貴女は観念する以外にないってね。文也くんが寝室で寝ているというのは嘘。なぜなら彼は今――」

 海老川さんの手が、死体を指し示した。

「――富恵さんの腹の中にいるからです」

 いやぁ、そんな推理が飛び出すんじゃないかとは薄々勘付いてたんだけど、玖恩寺家の人々は揃って目を丸くしたねぇ。まさに絶句ってやつだった。

「精神分析家オットー・ランクが提唱した〈出生外傷〉をご存知ですか? 赤ん坊の大半は出生時に泣き叫びますね。居心地の良い胎内から、未知の恐怖が渦巻く外界へと出されてしまうこと――この〈分離〉こそが人間にとっての根源的ショックであり、様々な不安の原型となっています。ゆえに人々はあらゆる〈分離〉を恐れ、反対に〈結合〉を求める。それが究極するところとは、胎内への回帰に他なりません。それだけが唯一、トラウマの根本を解消し、真の充満を獲得する術。誰しもが抱えるこの願望は〈胎内回帰願望〉と呼ばれます。

 連続密室姑殺人における密室トリックとは、これを利用したものでした。赤ん坊は母体と離れてからの年月がまだ浅く、胎内回帰願望は倒錯を経ずに直截的に表れます。また社会的に未熟である彼らは、すなわち常識に縛られず己の願望に従い行動します。ええ、死体の前面が切り開かれるのは、赤ん坊が回帰するための〈胎内〉を用意するためだったのです。眠っていただろう被害者をわざわざ床の上に移して殺すのも、赤ん坊がベッドにのぼる手間を省いてあげるためですね。

 澄風さんは……無論、喜久岡家の遥香さんも同じく……他の家族には悟られないよう注意しながら、赤ん坊……澄風さんの場合は文也くんに、ある習慣を仕込みました。部屋でひとりになった際は必ず、立ち上がって自ら部屋の錠を掛けるようにするということです。そう無理はなかったでしょう。自我を強く意識するようになったころの赤ん坊にとって、そのプライヴァシーを保証する施錠という行為は、極めて自然ですからね。

 またもしかすると、何か袋のようなものに潜り込む練習もさせたかも知れません。寝袋か、あるいはもっと〈本番〉に近いそれを用意したか……いずれにせよ、口が床を向いた袋状のものに潜り込むという行動、そういった行動があることを知っていなければ、せっかく胎内回帰願望が叶えられる機会を前にしても、適切に動けないおそれがあるので。

 お分かりですね。これらは予行演習であり、そして文也くんは本番を成功させたのです。午睡する時間になってこの部屋に連れてこられた彼は、富恵さんの死体と共に残されると、内側からしっかり施錠した後、疑似的でありながらも極めてそれに近い、胎内回帰を果たした。純真無垢なる赤ん坊にとって、これは何も不快ではない。真の充満、安心感に包まれた彼は、今も富恵さんの体内でぐっすり眠っているのです」

 空気が呆けていたな。それが顫動せんどうを始めたのは、澄風さんが小刻みに震えたからだった。

「……本気で、云ってるの? 信じられない……狂ってるわ、貴女……」

「その言葉、すべて自分に反射してますよ、澄風さん。もう認めるしかないでしょう。文也くんに芸を仕込み、なおかつ今日それを実行させられ得たのは、彼を普段から世話し、彼にとっても最も馴染み深い貴女です。一歳数ヶ月に成長した彼がちゃんと収まるように富恵さんを太らせることができたのも、いつも食事をつくっている貴女です。ええ、貴女は本来、死体が発見された後に通報やら何やらで皆が忙しくなった隙――警察がやって来る前に、こっそりと死体の腹の中から文也くんを取り出して身体を洗ってしまい、密室を完全に完成させる手筈だったのでしょう。しかし、それはもう叶わな――」

「冗談じゃない!」

 澄風さんは完全に頭にきたらしくて、顔も真っ赤になっていた。

「なんて侮辱なの! 探偵だとか推理だとか知らないわ、貴女は私を――文くんを――玖恩寺家を誹謗中傷してるだけだもの!」

「では証拠をお見せしようじゃありませんか!」

 海老川さんはこの〈解決編〉をスマートに〆たかったんだろうな。つまり犯人には綺麗な往生際……膝から崩れ落ちるかして、素直に自白することを期待してたんだ。だけどそういかないもんだから、ちょっとムキになっていた。

 大量の血液が染み込んだ絨毯の上を歩いて死体の傍らに屈み、その巨体を両手で持ち上げて――「ご覧なさい!」――ひっくり返した。

 全員が息を呑んだ。ああ、いや、僕だけは嘆息していたな。もう悲しいくらいに、情けなくなってしまったんだ。密室トリックに関する馬鹿な推理を披露される前までは、ひょっとすると海老川さんは本物の名探偵かも知れないなんて思ってたんだけどね……やっぱり駄目だった。とはいえ、露わになった死体の腹部を見ていささか驚いたのは僕も同じだったよ。それはかなり、予想外ではあったからさ。

 玖恩寺富恵の切り開かれた腹の中には、人間の生首が収められていたんだ。

 潰されて掻き回された脂肪や五臓六腑を押し退けるようにして、其処が自分の居場所だと主張するかのように、若い女子の生首が濁った瞳を天井に向けていたんだ。

「なんてことなの……嗚呼、嗚呼……」

 一番ショックを受けていたのは海老川さんだった。一瞬の内に、天国から地獄。ありゃあ骨の髄まで戦慄していたね。

「この顔……知ってる……写真で見たわ……」

 目ん玉をかっ開き、真っ蒼になった唇を震わせて、こう叫んだ。

「間違いない! 連続首切り殺人、二人目の被害者っ! 嗚呼っ!」
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