虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

文字の大きさ
上 下
18 / 35

いとも簡単に訪れた破局

しおりを挟む
 うっかり別れ際の空気みたくなってしまったけれど、また二人並んでレンタルビデオショップへ歩き出し、到着すると天織は返却と共に新たに十本ほど借りて、今度は復路だった。交わした会話は他愛のない内容が多かったよ。天織は映画オタクを自称していてそういう話も出たんだが……そうだな、これには少し触れておこうか。うん、彼女は特に残酷描写や反社会的内容などを多く含む作品を好んでるとの話だった。

「脳姦殺人にもこの影響が強いかも。ほら、脳漿くらい飛び散っててもらわないと、映画ってのは面白くないからねぇ」

「へぇ、そういうものか」

「当然。容赦ない表現でこっちの常識とか倫理観とかをギリギリまで震わせてくれなきゃ、良い映画体験とは云えないね。スプラッタ至上主義ってわけじゃないけど――うん、そんな狭量なことを云っては映画オタクは務まらない――でも生半なまなかなヒューマンドラマやメロドラマは願い下げって話。虚構の中に真実を描き出すこと。真に迫るものがない映画は映画じゃない。つくり手が身を削ってこそ、受け手は心を奪われる。本当の感動って、そういうことなんだ」

 まぁ彼女の映画哲学の如何は映画なんて見た試しのない僕じゃあ判じかねたんだが、何だろう、よくもそこまで身を入れて何かを語れるものだ。天織に限ったことじゃなく……姉さんだって読書には芯から夢中になっていたし、百合莉の僕への愛はやや常軌を逸するほどだし、海老川さんの探偵活動もミステリ趣味が異様に昂じた結果……誰だってひとつや二つは熱心になれる何かがあるんじゃないだろうか? うーん、そう考えると、僕はだらしないのかも知れない。これだけは譲れないってもんが、僕にあるか?

 と、そんなことを考えさせられた。これだってボンヤリ考えていただけで、真剣になって悩むなんてはやはりあり得なかったんだけど……。そもそも昔から自覚してるんだよ、どうやら僕は何かが欠損しちまってるらしいってね。劣等感みたいなものは、覚えなくもない。

「あ、それとは別に関係ないけどさ、あんたの蟹原刹って名前は良いね」

「うん? 僕はまったくそう思わないが?」

「響きがカニバリズムみたいじゃん。『食人族』とか好き?」

 僕は肩をすくめた。そこから僕にはよく分からない文脈で以てヤコペッティとかいうイタリアの映画監督の話に移っていったんだが……このときのやり取りが後に重要な意味を持つことになるとは、思いもしなかったな。

 もうじき天織の自宅というところで、僕らは割合あっさりと別れた。彼女は「また暇なときでもあったら会いに来てよ。まだしばらくはこの町にいると思うからさ。あーでもあたしと付き合いがあったって周りに知られたら、後々後ろ指さされることになるかもねぇ」と気易い感じで云ったが、次に僕の耳元に口を寄せて「……もう疑ってもないけどいちおう、釘を刺しておく」と続けた。

「あんたはあたしが脳姦殺人の犯人ってことだけじゃなくて、この先の予定までも知った。もしもこれらがあんたから他へ洩れるようなことがあったら、それがたとえ故意じゃなかったとしても、あたしはあんたを恨んで殺す。あたしは未成年だからね、捕まったところで極刑までは至らないでしょ? あんたはあたしがいつ娑婆しゃばに出てくるか、いつ殺しにやって来るか、ずっと怯えて暮らすことになる」

「うん、分かってるよ。そしてもちろん、心配は無用だ。僕にとっても君にとってもね」

「そ。じゃあ、そうだねぇ、今後ともあたしの活躍を要チェック。バイバイ」

 ひとりになってみると、一抹いちまつの寂しさみたいなものが感じられた。意外に長く、二人で話していたからな。まさかこんなふうに連続脳姦殺人の犯人と打ち解けるとは……分からないもんだね。

 ただし僕もお気楽な人間じゃないから、天織の本心については一方で疑いも持っていたよ。『また会いに来てよ』と云ってたのも含めて……彼女は僕を殺したいのかも知れない。僕が証拠を公開する準備があるなんて宣ったもんだから、そうやって距離を縮めて、上手く始末する機会を窺おうって腹かも知れない。どうだろう? 僕はまた天織に会いに来るだろうか?

 この時点では何とも云えなかった。他にも懸案事項が色々とあって、しかもそれらがえらく漠然と、曖昧なかたちで脳内を圧迫するともなく圧迫していたからかな。ひょんなことから脳姦殺人に居合わせ、探偵・海老川蝶子と繋がりができ、三つの連続殺人について一般人以上の情報を得るようになり、連続密室姑殺人にも介入させられ、今度は差出人不明の地図に導かれて天織黄昏と接触した……こうして見ると、ただの高校生に過ぎなかった僕の立ち位置ってやつが、いつの間にか随分とキナ臭くて微妙なそれになってると再確認される。この火津路町で巻き起こってる何か――その周辺部をぐるぐると回りながら、徐々に中心部へと引き寄せられていってるかのようだ。しかも何ひとつ解決されることなく……。だからどうしたってわけでもないんだが、このまま受け身でいるとさらに面倒臭い環境に追い込まれていきそうだなぁとはひとつ、嘆息させられたね。

 とりあえずは自転車に跨って、僕は〈愛の巣〉へ向かって漕ぎ出した。これだって僕の肩に乗った面倒事のひとつだ。白樺百合莉。彼女をこれ以上放っておくのもまずい。まぁ昨日の朝には一緒にいたんだから普通の恋人同士だったら何の問題もない程度の〈空き〉なんだけれど、ご存知の通り彼女は普通じゃないからな。それに昨日の朝の別れ方ってのが良くなかった。本当なら早急に弁明しに行かなければいけないところを、変な展開が続いたせいで後回しにしちまってた。

 ああ、最近になって僕の彼女に対する扱いが段々と雑になってきてるというのは自覚していたし、それを百合莉は実際以上に敏感に感じ取っている。今までが上手くやれてたこともあって、反動がより大きいんだな。こんな不穏な、殺伐としてさえいる空気が漂うことになろうとは、夏休みが始まって仲良く〈愛の巣〉づくりに励んでたころには思いもしなかったねぇ。おかしなもんだ。本当に。



 寝室は変わり果てていた。家具はすべてひっくり返って、天井の蛍光灯は割れて、ベッドの上には破れたシーツや羽毛なんかが散乱していた。そこに百合莉は座り込んでいて、僕が扉を開けると振り返って笑った。笑うだけで、言葉はなかった。たったひとつ無事に残っていたランプの弱弱しい明かりが照らしたその顔も乱れた髪も皺だらけの衣服も血で汚れていて、それらは手首から流れ出したものだと分かった。僕は心底、呆れさせられた。

「何してるんだ」

「あはぁ……『何してるんだ』はそっちでしょお? 刹くぅん?」

 泣き腫らして真っ赤に充血した双眸が、ただならぬ恨みを籠めて僕を刺す。

「私に飽きたんなら飽きたって云ってくれればいいでしょお? 誰なのぉ、エビカワチョウコってぇ。すっごい美人さんだったねぇ? あんな人とお付き合いしてるなら、私なんてちんちくりんだよねぇ?」

遺憾いかんだな、あの人とそんな関係を疑われるってのは。ナリは良くたって、異性としてはとてもじゃないが見られない変態だぜ、ありゃ」

「本当かなぁ?」

「疑うのかい? 君は僕のことを全然信用してくれてないんだね」

 そう云ってやると百合莉は一瞬、言葉に詰まった。へらへら笑っていたのが引っ込んで、今度は情けに訴えかけるような痛切な表情に変わった。

「どうして私以外の女と付き合うの? 女として見てないって云っても、私からしたら同じことだよ。刹くんが私以外の女と一時でも一緒にいる……ううん、私以外の人間と一時でも一緒にいるっ……考えただけで死んじゃいそうになるっ……」

「うーん、できなくもないかも知れないけど、やっぱり無理な相談だな。生きていく以上、どうしたって百合莉以外の人とも交流は生まれるさ。無人島にいるんじゃないんだから」

「ち、違うのっ……私が、私が知らない人と、私が知らないうちに、よく分かんない付き合いができてて……それが悲しいんだよ。どうしてぇ? 隠し事はやめてよぉ、後ろめたいところがないならさ……そうでしょお?」

「話すまでもないと思ってたんだよ。君が妄想を逞しくして色々疑う気持ちは分からなくもないけど、本当に大したことじゃあないんだ――僕と海老川さんの間柄はね」

「ううん、分かってない、分かってない、話すまでもないことなんてないよ、私は刹くんの全部を知ってたいんだもん、何度も云ってるじゃん、何度も何度も」

「だからさぁ、限度ってもんがあるだろう? 僕が百合莉といないときのことをいちいち全部並べ立ててたら時間がいくらあったって――」

「私といないときっていうのがそもそも嫌なんだよぉ! ずっと一緒にいてよぉ、ねぇ、一緒にいない時間なんてものがあるせいでどんどんすれ違ってくでしょお? なんで平気な顔してるのぉ? 理解できないよぉ」

「じゃあ理解してくれ。まず、君が考える〈すれ違い〉なんてありゃしない」

「あはっ、嘘だぁ、嘘、嘘、刹くん云ったよねぇ? この〈愛の巣〉は私達二人だけの空間だってぇ。どうしてエビカワチョウコさんが這入ってきたのぉ? どうして此処のこと教えちゃったのぉ? 勝手にさぁ、約束破りだよねぇ、此処だけは安全だって、私の味方だけで満ちてるって、そう云ったのにさぁ」

「あれは海老川さんが勝手に調べて来たんだ。そうじゃなきゃ僕が教える必要性が――」

「嘘だぁ、嘘だぁ、私も馬鹿じゃないんだよぉ刹くん? 二人して私のこと笑ってるんでしょお? 都合の良い馬鹿な女だって笑ってるんだ、私は家出までしてっ、全部捨てて刹くんに身も心も捧げようとしてるのにっ、刹くんは全然受け取ろうとしてくれない!」

 駄目だな、話にならないや。

 僕は必要な確認だけさっさと済ませてしまおうと判断して、百合莉の方へと歩き出した。百合莉はなおも恨み節で「刹くんにとって私って何なの? 愛してもないなら私の価値ってどこにあるの? どうして私と付き合ってるの? どうして?」だの何だの述べ立てながら、彼女はさっきから自分の手首を揉むようにしてたんだが、その親指が傷口にどぷっと半ば埋まって、また新たな血がドクドクと流れ出した。

「痛、痛ぁ、あはは、痛ぁ……」

 ベッドのふちに膝が着くくらいのところで立ち止まって、百合莉を見下ろす。近くで見ると彼女の憔悴の色はより凄まじいものがあって、でも相変わらず、こいつの泣き顔は可愛いなぁと思った。それはともかく、ポケットからあの地図が印刷されたA4用紙を取り出して、その眼前に掲げた。

「これを僕の机の上に置いたのは君かい?」

 百合莉はしばらく穴が開くほど見詰めていたが……「やっぱり……」そう呟いて僕を見上げたその目からは、血の涙でも流れ出しそうだった。わなわな震える唇から、同じく震えた声が発せられた。

「やっぱり調べてたんだね、天織黄昏のこと。それに、やっぱりあの子だったんだ……髪型が違ったけど、あれはウィッグだったんだね……」

 やっぱり――こちらこそやっぱり――百合莉は天織を知っていた。脳姦殺人に居合わせたのは彼女も一緒だ。あのときに遠目に見た犯人を、天織だと認めていたわけだ。おそらく火津路高校内の天織と縞崎にまつわる噂も知っていて、だから僕が前にそれに近い質問をしたとき、妙な反応を示していたんだな。しかし、

「この紙を僕に寄越したのは君じゃない?」

「知らないよ……私がそんなこと、するわけない……」

 これは本当のようだった。演技だったらそうと分かる。うーん……天織が連続脳姦殺人の犯人だと分かっていて、かつそれを僕に教えようとする可能性のある人間として、心当たりがあったのは百合莉くらいだったんだけどねぇ……まぁ僕の家の位置は僕が知らない間に突き止めていたっておかしくない彼女だけれど、今まで隠していたのを変に迂遠うえんな方法で以ていきなり教えてくるってのは、たしかに彼女らしくなかった。〈はずれ〉か。

「ねぇ刹くん……駄目だよ、絶対に駄目……天織黄昏に会おうとしてるんじゃ、ないよね? 人殺しなんだよ? 関わったら、刹くんまで殺されちゃうよ?」

「うん? 天織にならさっき会ってきたところだよ。話の分かる良い子だったけどな」

「え、え、信じられない、え、会ってきた? どういうこと? 話の分かる良い子って何? 天織黄昏と――刹くんが? 何?」

「じゃあ今日はもう帰ることにするよ。また頭痛がしてきちまった。殺人的な暑さの中を歩き回ったせいかな」

 僕は身を翻そうとしたんだが、するとほとんど反射的なスピードで百合莉が腕を掴んできた。血がぬるぬる生温かくて不快だった。

「か、帰るって――え? 嘘でしょ? 帰るはずないよね? このまま……私のことをひとりにしようって云うの? 嘘だよ嘘だよ、刹くんはそんなことしないよっ」

 崩れ落ちる寸前みたいな泣き笑い。ああ、どうせそうだろうと思ってた。百合莉は何だかんだ云いつつも、僕が自分を慰めてくれるだろうって期待してたんだな。それも自分が可哀想である様子を見せれば見せるほど、僕がそれに応えてくれるはずだって見込んでたんだ。こういうところだよ、こういうしょうもない打算を働かせてるところが僕は大嫌いなんだって、これこそ何度も云ってきただろう?

「意地悪しないでよ、はは、意地悪してるんだよね? ねぇ刹くん、そうだよね? ほ、本当に私に飽きちゃったんじゃないよね? 嫌いになっちゃったんじゃないよね?」

「飽きてもないし、嫌いになってもないさ。ただ少し呆れてはい――」

「じゃあ! じゃあ放っておかないでよ? 愛してる? ねぇ、私のこと愛してる?」

「あー愛してる愛してる」

 投げやりな調子で答えたけれど、どっちにしても聞いちゃいなかったな――百合莉は僕の腰元に縋り付いてきた。おいおい、ただでさえ少ない服を血で汚さないでくれよ。

「刹くん、私のこと愛してるなら、今ここで抱いてっ」

 僕の身体をぎゅううっと必死になって締め付けながら、百合莉はそう懇願した。あーあ、とうとう口に出したか。出しやがったか。

「抱いてよ刹くん、愛してよ、乱暴にしてくれてもいいよ、刹くんになら全部許すよ、私、何でもしてあげるから、お願いだよ刹くん、どういう意味か分かるでしょ、何もかも忘れさせて、刹くんだけで満たしてよ、つらいよ、刹くんに抱いて欲しくて胸が張り裂けそうだよ、お願い、お願い、刹くん、お願――」

 僕は百合莉の両肩を掴んで思い切り突き飛ばした。百合莉はベッドの上に投げ出されて、それから顔だけ上げると期待半分、不安半分の面持ちで僕をジッ……と窺った。

 カチャカチャと。

 僕は自分のベルトに指を掛けた。これで百合莉は百パーセント、淫らな期待一色に染まった。口元がだらしなく綻び、病的なまでに熱っぽい瞳で、僕が次いでズボンを下ろしにかかるのを見詰めていた。そしてついに下着まで下ろされたところで、

「え……?」

 その顔は凍り付いた。いっそ呼吸まで止まったかのようだった。

 僕は下半身を露出したまま、両手を広げた。馬鹿馬鹿しいことこの上ない光景だ。

「残念ながら、僕には男性器なんてないよ。レズセックスでも構わない?」

「……………………」

 百合莉は口をパクパクしていたよ。金魚みたいにね。

 いやぁ、白けた空気ってのはまさにこういうのを云うんだな。痛快とも思ったけれど、僕だって呆れ返った気持ちの方が大きかった。このときの百合莉は馬鹿ヅラそのものだったからな。まったく冷めさせてくれるよ。

 下着とズボンを上げて再びベルトを締め、僕は今度こそ身を翻した。「手首の傷、ちゃんと自分で手当てしといた方がいいよ。化膿とかしたら嫌だろう?」とは老婆心ながら注意しておいたけれど、返事は一切なかった。もうこのまま、永遠に動かないんじゃないかと思ったくらいだ。僕が男の身体じゃなかったってことが、そんなにショックかね?

 くだらない話だ。
しおりを挟む

処理中です...