虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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〈愛の巣〉なんてもう存在しない

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 天織は前回よりも砕けた感じで、僕に色々なものを見せてくれた。自分の趣味の品に加えて、脳姦殺人に使用するドリルや返り血対策で準備しているレインコート、冷蔵庫の奥でタッパーに入れられたうえにビニール袋に入れられ保管されている前回被害者の精液――これは見たくもなかったが――ともかく、僕のことを信用してくれて、かなり開けっ広げな振る舞いだった。とはいえ証拠を握っててイザとなれば流出させる準備まであると僕は宣ってるんだから、もう隠すこともないんだろう。

 それよりも、僕はちょっとした意外な安心感を覚えた。天織が僕に対し気安くしているのは、もしかすると証拠を握っている僕を上手く始末するためなんじゃないかと一部で疑っていたけれど、どうやら違ったらしい。なぜって、そうするのならさっきが絶好の機会だったからだ。百合莉が彼女を襲撃したことで、いわば僕は引け目を感じる立場だった。そこで僕を脅して、証拠を処分させたうえで殺害する……しかし彼女はそうしなかった。そうしようとしなかった。誤解が解けると、綺麗さっぱり、それきりにした。

 彼女は決して馬鹿じゃないが、理詰めの駆け引きなんかより、自分の感覚や好き嫌いに従う性分なんだろう。ならば僕とこうしているのも、迷惑だったら迷惑と云って追い返しそうな彼女なんだし、つまりは本意からそうしてるんだ。

 いやはや、連続脳姦殺人の犯人と僕とが、こんなにも気が合うなんてね。冗談みたいな話だけれど、悪い冗談じゃあなかったな。

 しかしながら悪い冗談もあって――ある意味においてね――「良いもん見せてあげる」と云って彼女が段ボール箱のひとつから取り出して見せたのは、手製の手榴弾だった。

「フェイクじゃないよ。MK2を参考にした構造。実地で通用するくらいの殺傷能力は充分にある。なにせ黒色火薬から自作してるんだ。材料は高校の理科室でだいぶ揃うしね。いひひ……うちの学校、管理がザルだからさぁ」

 しかもひとつではなくて、段ボール箱の中いっぱいに何十個もごろごろしてるのを見せられた。小さなパイナップルみたいな外観がどれもカラフルに着色されてて、ピンにはふざけたキャクターストラップが付いていた。正直、反応に窮したんだが……、

「こういうミリタリーな趣味も持ってるんだね」

「ううん、銃とか戦車も好きではあるけど、マニアってほどじゃ全然ないよ。手榴弾つくってんのは別の理由。『太陽を盗んだ男』って映画は知ってる?」

「知らない」

「中学校の冴えない理科教師が原爆を自作して政府を脅迫していくって話なんだけど、あたしはこの映画が大好きで、何より沢田研二演じるこの城戸って理科教師にめちゃくちゃ憧れたんだわ。超クールなんだから。狭いアパートの一室で黙々と、でも心底楽しそうに原爆をつくってく様子とか胸が苦しくなるくらい最高。で、あたしもやりたいなって思ったんだけど――」

 それはおかしいだろ。

「――原爆はさすがにつくれないでしょ。プルトニウムの入手からして難関すぎ。だから身の丈に合った手榴弾制作で満足してるってわけ。やってみると面白いんだよ。あ、次はプラスチック爆弾もつくってみようかとは思ってる」

 ……でもまぁ、友人のいない人間ってのは、暇に飽かせてこういう風変わりなことをしてるものかも知れない。小人閑居かんきょして不善を為すじゃないが、加えて天織はもっぱら反社会的な事柄を嗜好する子だし、爆弾くらいつくってても不思議はないだろう。

「ひとつあげよっか? 誰にも見つからないことと、見つかってもあたしからもらったことは云わないって約束してくれるならだけど」

「いや、遠慮しておくよ」

 もらったって困る……。

 その後も何だかんだと話しているうちに、二時間近くが経過した。そろそろ母親が帰ってくる時間らしくて、天織は「外に出る?」と訊いてくれたが、僕はこの後ちょっと予定があると云って辞することにした。「また来る?」とも訊かれたので「折を見て」とは答えておいた。天織は「そっか」と笑った。うん、この時間――なかなかに楽しかった。

 そして僕は〈愛の巣〉へと向かったんだ。いささか、重い足取りで。



 昨日の昼に天織を襲撃したのは百合莉で間違いない――僕があの地図を見せた際に天織家の位置を確認していた彼女だから、これは可能だったと思われる。

 では発見された死体の方が、百合莉じゃなかったんだろう。身許確認は彼女の両親によって為されたって話だが、これは考えてみると脆弱な根拠だ。ああ、いやいや、首なし死体だからって百合莉の両親が我が子と別人とを勘違いしたって云うんじゃないよ。そんな馬鹿なことは、海老川さんのトンチキ推理でもなけりゃ起こらない。そうじゃなくてね、彼らは意図的に虚偽の証言をしたのさ。

 なぜそんなことをしたのか――後ろめたいところがあったからだろう。彼らは是が非でも、その首なし死体を百合莉だって云わなきゃいけなかった。そうしなければ彼らにとって不都合な〈ある秘密〉が露見してしまうんだね。

 憶えてるかい? 百合莉について、奇妙な噂があっただろう? 彼女がえらく薄汚い風貌でパチンコ店に出入りしていたとか何とか……でも彼女と三ヶ月以上密に交際していた僕から云わせれば、百合莉にそんなプライベートがあったとは全然思われないんだな。つまり、その噂の人物は百合莉じゃない。ただし百合莉によく似ているのは確からしい。となると……、

 うん、双子だろう。百合莉には一卵性双生児の姉か妹がいたんだ。百合莉はひとり娘って話だったけど、それはあくまで話でしかない――〈そういうことになっている〉という以上の事実を保証しはしない。そちらの姉だか妹は隠し子だってわけだ。これが白樺家の秘密。白樺家も貧乏家庭みたいだから、養育費を少しでも削減したくて片方を〈存在しない人間〉にしたんだろう。

〈白樺家も〉ってのはもちろん、これが蟹原家とよく似た話だから云ってるんだよ。僕と百合莉の間にあった暗黙のシンパシーは、こういうところに根差してたんだな。ああ、僕らは何となく察し合っていたし、今回の件によって僕はそれを意識の俎上そじょうに上げて確信するに至ったんだ。

 結論。連続首切り殺人五人目の被害者は、百合莉ではなく双子の姉だか妹。彼女は隠し子であって、社会的に存在しないはずの人間。これを公にできない白樺夫妻は、彼女をひとり娘の白樺百合莉であると云うしかなかった。百合莉が家出しているということを警察に届けてしまっていたのも上手くなかったね――もっとも、まさか隠し子の方が隣町で殺されてるだなんて思わないだろうから、これを愚行と云うのは酷だろう。愚行と云うなら、隠し子が外出するのを許していたのと、そもそも隠し子なんてものを抱えてしまったことだ。

 まったく。自分たちの都合でつくっておきながら、いざ産まれてきたのが双子だと、今度は都合が悪いからって片方を隠し子なんかにして飼い殺す。どうしようもない連中だよ。はなから子供のことなんて考えてないんだな。僕はともかく、百合莉があんなふうに愛に飢えた人間に育ったのも頷ける。

 さて、ならば生きている百合莉は今、何処にいるのか。おそらく〈愛の巣〉だろう。白樺家に戻ったとは考えにくい。天織への襲撃で成果を上げられなかった彼女は、〈愛の巣〉で僕が来るのを待つ以外にないはずだ。

 僕が〈愛の巣〉へ向かったのは、こういうわけだった。まさか放っておくわけにもいかないだろう? だいぶ距離があったし自転車でもなかったんで、一旦家に帰るのも億劫に感じて、最寄りの西巫駅から火津路駅まで電車に乗ったんだけど……ああ、この日も暑かったなぁ。そして火津路駅から歩いて〈愛の巣〉――戸倉ビルの近くまで来たころだった。

「チョコミントって不味くねぇ?」

「えー、美味しいですよ? 果てしなく美味しいですよ?」

 振り向きはしなかったが、僕の後ろを子供の男女二人が歩いてるらしく、その会話が耳に入ってくるようになった。こちらに聞くつもりがなくても、子供ってのは話し声のヴォリュームを自重しないからな。どうやらチョコミントのアイスクリームか何かを食べているのが女の子の方らしかった。

「だってよー、歯磨き粉みてぇな味しねぇ?」

「出ました。それ云う人いますよねー。そもそも歯磨き粉が美味しいのに」

「うわ、気持ち悪。じゃあ歯磨き粉食えよー」

「食べますよ? ご飯にかけて何杯でもいけちゃいますよ?」

 馬鹿な会話だなぁと思いつつ聞いていたんだけれど、戸倉ビルに這入ったところで我慢できなくなった。方向が重なってたんじゃない――こいつら、僕の後をついて来てたんだ。

「ねぇ、」

 振り返って声を掛けると、二人は揃って僕を見上げた。『なーに、お兄さん』と声まで揃えやがった。

「僕について来るのはやめてもらっていいかな?」

 すると二人は顔を見合わせて、ぷぷぷと笑う。二人とも、小学校高学年くらいだろうか。同じTシャツにオーバーオールという格好で、性別は違ったけれど身長は同じだったし、その動作は鏡映しのように左右対称だった。仲が良いこったな。

「お兄さん、それ自意識過剰って云うんですよ」と女子。長さが足りていないのをツインテールにしているせいで、髪がピョンと跳ねてるみたいだった。

「俺達も此処に用があんの。お分かりー?」と男子。長めの髪に緩いパーマをかけていたが、僕の目にはお洒落というよりむさ苦しいだけに映った。髪のむさ苦しさに関しちゃ、僕も他人のことは云えないんだけどね。

 男子の『お分かりー?』に反応して女子が「おかわりー!」と嬉しそうに叫んだんで寒気を覚えさせられたが、それはともかく……この生意気な二人の子供は何やら得意気な様子で、それぞれ僕の左右を通り過ぎて行き、本当にエレベーターを呼び出した。扉が開くと首だけ振り向いて白々しく、

「どうしたんですー、お兄さん」

「あんたも上行くんだろー?」

 ……溜息を吐きたくなりつつ、僕は二人に続いて乗り込んだ。

 しかしこいつら、ボタンを押そうとしないんだ。「何階に行くんだい?」と訊ねたところ、男子が「五階」という返答。……僕は今度こそ溜息を吐いて、五階のボタンを押した。ああ当然、子供二人がこんな冴えない事務所ばかりのビルに用があるわけなかったんだな。でも僕の行き先が五階だと分かったのは、当てずっぽうなんだろうか? ……まぁいい。エレベーターホールまではついて来られても、〈愛の巣〉にさえ入れなければいいからな。まったく、くだらないお遊びに付き合わされたものだ。

「あたし、珠井たまいきゅうです」

 訊いてもないのに名乗ってきた。そしてアイスの棒をチュパチュパと下品にしゃぶる。

「俺は瑞屋みずやれんだよ」と男子の方も続いたが、僕はどちらも無視した。うん、もう伝わってるだろうけど、このくらいの餓鬼がとても嫌いなんだよ。それも自分の力量についてとんでもなく過信していて、何を云われたって疑おうとしないような餓鬼がね。こういうところだ――僕はホールデンと違って、〈ライ麦畑でつかまえ〉ようとはちっとも思わない。

 五階に着いた。ポケットから財布を出して、中に仕舞ってある鍵を取ろうとしながら、こいつらが無理に押し入ろうとしてきたら多少乱暴にしてでも締め出そうと考えていた。

 ところがだ。小気味良い開錠の音が響いたんで見てみれば、珠井と瑞屋はドアを開けていた。事も無げに中へと這入って行って、ドアが閉まり、二人はガラス越しに僕を見てぷぷぷと笑った。瑞屋は手に持った鍵をこれ見よがしに振っている。すられた?と一瞬思ったが、僕の財布の中から鍵はすぐ見つかる――――ああ?

 もう一度顔を上げると、まったく予想外の光景が目に飛び込んできた。珠井と瑞屋の後ろ、廊下の向こうから歩いてくるひとりの男子、それは懐かしい阿弥陀承吉の姿だった。一年のころのクラスメイト。噂話蒐集家。僕が百合莉と付き合いを持ったころから、すっかり疎遠になっていた……。

 阿弥陀が一言二言何か云うと、珠井と瑞屋は奥の部屋へと引っ込んで行った。それから彼は内側から扉を開けて「よう、遅かったじゃないか」と片手を上げた。

「どういうことだ。どうして君が此処にいる」

「どうしても何も――」

 教師が出来の悪い生徒を見るような目。

「――いまや此処は俺達〈夜の夢〉の持ち物だぜ」

「〈夜の夢〉? 聞いてないぞ。少なくとも今月いっぱいは、此処は僕の所有だ」

「ところが違うんだな。お前の契約はインチキを使っただろ?」

「……じゃあ、書類を見せてくれ。証拠の書類だよ」

「はは、書類書類って……『未来世紀ブラジル』か? お前らしくもない」

 今度は軽薄そうに愛想笑いする阿弥陀。しばらく見ない間に、いちいち癇に障る感じが増している。インテリぶったふちなし眼鏡なんて掛けて……それ、伊達だてじゃないだろうな?

「いいから這入れよ。玄関越しに立ち話ってのは間抜けだぜ」

 間抜けはお前だと内心で毒づきつつも、僕はドアを抜けた。そうしないと話にならなそうだったし、そもそも僕の所有なんだ。こんなに突然、何の断りもなしに所有者が変わるなんてあるもんか。

「ようこそ、〈夜の夢〉へ」と芝居がかった口調で阿弥陀が云ってくるのは無視して、

「此処には僕の私物がたくさんある。仮に借主が変わったところで、君達がこれを使うのは許されない」

「堅いこと云うなよ、蟹原。此処にあるものは全部、白樺百合莉が稼いだ金で買ったものだろ? お前が文句を云う筋じゃない。その白樺も、いまや俺達の〈所有物〉なんだから」

「……君、ロボトミー手術にでも失敗したのか? 何を云ってるのか全然分からないぞ」

「ほう、傑作だな。ロボトミーじゃないが、白樺が似たようなものを受けてる。会って行くか? いまならまだ、面会オーケーの段階だ」

 阿弥陀は僕が何の反応もしないうちから、隣の寝室のドアを開けた。不覚にも……その中を見た僕はちょっと言葉を失ってしまった。「遠慮することはない。這入れよ」との阿弥陀の言葉。云われなくたって這入るさ……。

 あの天蓋付きベッドが勝手に改造されていた。四方に鉄格子が嵌められて、メルヘンさと無骨さとが共存する奇妙な檻になっていた。その中には、一糸纏わぬ――いや、紙オムツだけ履かされている――百合莉の姿。丸くなって寝ていた彼女だが、僕を見とめると勢い良く起き上がった。

「せぇぇつくん! せッつくんだああ!」

 喜色満面、鉄格子に掴まってガチャガチャ揺さぶりながら、裏返った声で叫ぶ。

「せつくぅぅんっ、あっは、せつくん! せつくん! あっははは!」

 僕は――絶句。やはり百合莉は生きていた――それはいい。そうだろうと思って来たんだから。でも――百合莉のこの様子は、異様なんて言葉は通り過ぎている。涎と鼻水をだらだら垂れ流し、しかも涙までぼろぼろと流れ出した。だけど喜んでいる。心の底から歓喜して、それは輝くような笑顔だ。

「良かったな。喜んでるみたいじゃないか」

 隣までやって来た阿弥陀が、そう云った。動物園の動物でも鑑賞してるみたいに。

「……君、百合莉に何したんだ」

 こいつ――いや、こいつらが何かしたのは明らかだ。素っ裸にして檻に閉じ込めただけじゃない……百合莉の身体にはあちこちに暴行の痕が犇めいていた。薄暗い室内だが、それらが変色しているのも分かる。

「集団リンチか?」

「おいおい、勘違いするなよ。よく見ろ、ほとんどが古い傷じゃないか。あれは白樺の父親によるDVの痕だぜ。新しい傷もあるが、全部白樺が自分でやったものだ。彼女の自傷癖はお前も知ってるだろ?」

「しらばくれるな。傷だけを云ってるんじゃない」

 ああ、檻の周り――百合莉が手を伸ばしても届かない位置だ。取り囲むようにして、外科手術に使うようなガチャガチャとした器具一式や、注射器、薬品の瓶、点滴の袋なんかがそれぞれ台に置かれていた。こいつらが持ち込んだものに違いない。

「だから手術の最中なんだって。正確には催眠術――俺がやってるんじゃないぞ?」

「催眠術にこんな道具を使うわけがないだろう」

「たしかに特殊だな。俺も最初は驚いたが、何でも外科的なアプローチによる独特の精神病理学や神経学、医療薬学なんぞをミックスして確立された、新式の催眠術らしい。でも安心しろ。成功は保証されている」

 ……本当に馬鹿なんじゃないか? 阿弥陀承吉、さすがにここまで酷くはなかったと思うんだが……もしかしたら既にこいつもその催眠術とやらにかかっちまってるのかも知れない。

 ガンッガンッと音が響き始めたので見ると、百合莉が思い切り、自分の身体を鉄格子にぶつけていた。

「せつくぅん! 来てぇぇ、こっちい、来てえええ! あああぁあ!」

 格子の間から両手を伸ばして、バタバタと宙を掻き回している。血走った目は、しかし焦点が合っていなくて、それどころかグルグルと忙しく回転している……。

 隣では阿弥陀が「ああ、ナタリーアさん。見てたなら云ってくださいよ」と、廊下の方を向いて、上司に対するときの会社員みたいな不自然な声を出していた。今度は何だ。

「ほら蟹原、こちら睡目ねむりめナタリーアさんだ。白樺に催眠術を施すために来てくださってる」

 振り返ってみれば、何てことはない、扉のところに立っていたのは日本人のオカマだった。ナタリーアといえばイタリアの女性名だけれど、ハーフですらない。たぶん。

「Bon giorno――」

 発音はやけに良かった。

「――催眠術師の睡目ナタリーアよォ。よろしくね、坊や」

 よろしくしねぇよ。気色悪い。身長が高くてスリム体型、白のタキシード、宝塚っぽい化粧で誤魔化してはいるが、三十路を越えたおっさんだろうが。たぶん。

「ナタリーアさんは〈夜の夢〉の構成員とは違うんだ」

「ええ、ワタシは派遣されて来ているの。百合莉チャンの経過は順調よォ。んふ、坊やにはお礼を云わないとね。坊やが進めてくれていたんでしょう? 彼女をステージ3まで」

 何の話だ? 阿弥陀をチラと見ると、こいつは「ああ、」と云って補足し始めた。

「俺達が発見した時点でも、白樺はだいぶ精神的に壊れた状態だった。どうやらお前に酷い扱われ方をしたようじゃないか? それが、ナタリーアさんが施術を開始するにあたって助けになったみたいなんだよ」

「んふ、アタシはプロフェッショナルなの」

 やらしい手つきで自分の唇を撫でる睡目ナタリーア。

「オーダーに応じた催眠術のプランを、それぞれ別個に設計する。基本的には十のステージに段階分けするのだけどォ、百合莉チャンははじめからステージ3の状態にあったのよ。もっとも、ステージ2が部分的に未達成だったせいで、手間としてはあまり変わってないのだけどね。ちなみにいまはステージ4。社会性や倫理観はおおよそ消え失せ、また理性のタガも外れかかっているためにありのままの欲望が露わとなる……人間が社会的な生き物であるという定義に照らすなら、あまり人間とは呼べない状態ねェ」

 そんなの見れば分かる。さっきも例えた通り……あれじゃあ、ただの動物だ。白樺百合莉という個人ではない。アイデンティティ、その人をその人足らしめるものが、完全に破壊されちまってる。

「あらあら、いけないわァ。坊や、百合莉チャンにとって刺激が強すぎるみたい」

 再び振り向けば、かつて白樺百合莉であったそいつは、檻の中で一心不乱、激しい自慰行為に耽っていた。歪んだ口元から唾液をぼたぼた垂らしながら、手を紙オムツの中に突っ込んで滅茶苦茶に動かしている。「はぁーッ、はぁーッ、はぁーッ、はぁーッ!」

「爪は全部剥いであるから大丈夫よ。でも坊や、それから承吉クン、もう外に出てもらえるゥ? アタシは催眠術の続きに取り掛かるわ」

「分かりました。行こう、蟹原」

 腰に触れようとしてきた阿弥陀の手を払う。云われなくても、出て行くところだったさ。もうこの部屋にはいたくない。

「せつくぅぅん! いっちゃ嫌あああだ、嫌だあああよ! だいてぇ、せっくすしてよぉ! はやく産みたいっ、せつくんのあかちゃああんっ!」

 絶叫する声、ガンッガンッガンッと身体を打ち付ける音……。睡目ナタリーアは隅の方で何かを操作して、すると部屋中が青色の明かりで満たされた。見ると部屋の四方には電飾みたいなものがゴチャゴチャと取り付けられている。「はァい、百合莉チャン、お注射の時間よォ」怖気おぞけが走る、猫なで声。ああ嫌だ嫌だ。
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