虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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意味もなく彷徨うだけの夏

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 家に帰り着いたころには陽も沈んでいた。いつ見ても陰気な家だ。僕はよくやってる方だと思うよ。毎日毎日こんな家に帰っていたら、生きる気力ってもんはおのずと枯れ果てる。何かにつけて自分を虚無的だって云う僕だが、それでも生きてはいるんだから立派なもんさ。そこんとこ、もう少し評価されたっていいんじゃないかな――なんて、別にそんなこと望んじゃいないんだけどね。富も名声も、おそらくあったらあったで煩わしいだけだろう。前にも云った通り、そういった〈充実〉もまた〈虚無〉と裏表なんだし。

 洗面所で手を洗っていると、廊下がギシギシ軋む音が近づいてきて、背後に父親が立ったのが鏡に映った。顔が真っ赤で、両目を剥いて、鼻の穴を大きくして、まったく見るに堪えない滑稽なツラだったな。「ただいま」と云ったけど、聞こえてもないみたいだった。

「……また、警察が来たぞ」

 僕は蛇口を止めて振り返った。目が合うと、父親のこめかみに青筋が浮き上がった。

「恋人が殺されたらしいな。刹、お前は何をやっているのだ」

「さあ……僕は悪くないと思うんだけど」

「いいや、お前が悪い。恋人だと? しかもお前の周りで、人死にばかり起きている」

「知らないよ。みんな勝手に死ぬ……と云うか、殺されるんだ。恋人? ああ、でも恋人くらいつくってたってよくないか? あんただってそうやって、僕と姉さんを拵えたんだろう?」

 これは禁句だった。つまり母親に関することはね。

「う、ぬあああああああッ!」

 実に単細胞らしく激昂した父親は、僕の胸倉を掴むと、廊下に引きずり出して床に放り投げた。貧相な身体つきのくせに、意外と力は強いんだな。「悪魔だ――やはり悪魔の子だッ!」なんて叫びながら、僕に馬乗りになった。

「あの女も悪魔だった――私を誘惑し、お前を産むのに利用したのだッ! 恐ろしいィ、お前には悪魔の血が流れている――ゆえにお前の周りでは皆が不幸になるッ! その被害を最も受けているのが私だッ!」

 参ったな。僕が全部悪いことにされちゃったよ。でも反論する元気はなかったし、できなかった。父親はギリギリと握った拳で僕の顔面を繰り返し殴り始めたんだ。

「お前のせいでッ、何もかもッ、上手くいかないッ! やっと仕事をッ、見つけてきてもッ、また新しいッ、面倒をッ、抱え込まされるッ! 邪魔ばかりッ、しやがるッ! お前はそうやってッ、私をジワジワとッ、甚振いたぶってッ、愉しんでッ、いるのだなッ! 忌々しいッ、悪魔のッ、性質だッ! 災厄を振り撒きッ、人界をッ、混乱にッ、陥れることをッ、愉悦とするッ! 何度ッ、躾けたってッ、無駄なのだなッ! お前のッ、存在ッ、そのものがッ、呪われているとッ、いうのだからッ!」

 何度も意識が飛びかけた。口の中が血の味だ。声や音にエコーが掛かってるみたいに聞こえる。三半規管がおかしくなって、吐きそうだ。息継ぎのタイミングを失って、ひどく苦しい。このまま殺されるんじゃないだろうかと、ぼんやり思った。姉さんを殺した奴なんだし、それは全然おかしいことじゃない。僕もまた殺されて、埋められる…………?

「どうしてッ、消えないのだッ、お前はッ! 愛那あいなァ! どうして私をッ、苦しめ続けるッ! 私はッ! 私はァ――」

 拳の雨が止んだ。大方、自分の拳の方が痛くなったんだろうな。愛那ってのは母親の名前なんだけど……何だ? 朦朧とする意識で見上げれば、薄ぼやけた視界の中で、父親は歯を食いしばって涙なんか流してたんだ。

「愛那ァ……私がいつも、一体どれだけ我慢しているのか、お前に分かるか? お前を見るたびに! お前の誘惑に、どれほど懸命に抗ってきたのか……」

 父親は片方の手で僕の髪を鷲掴みにすると、もう片方の手を僕の首から肩、胸や脇腹に這わせた。次いでその手は下半身へ移動した。「お前のこの身体が憎いぞ、愛那……」その口から唾液がだらーっと僕の顔に垂れた。なんて臭いんだろう。「愛那……ッ!」首のあたりにしゃぶりつかれた。骨ばった手が下着の中に入ってきて、乱暴にまさぐられた。

 こいつはまた、僕を犯したくなったらしい。それもいいだろう。僕は罰せられるべきなんだと思ってたんだ。他の奴らについては知らないが、百合莉があんなことになったのが僕のせいだってのは、あながち間違ってもない気がする。僕はいっそのこと、物凄く惨めになりたかった。ちゃんとすべてを諦められるように、これ以上ないくらい凌辱されることが、慰めになるような…………

 と、その瞬間だった。僕は戦慄した。信じられなかった。僕は今、父親から犯されることを――こんなに気持ち悪いことを、良いことだって感じていたのか? そうされることを、望んでいたって云うのか? あり得ない!

 僕は父親の頭を両手で掴み、すぐ横の壁へと叩きつけていた。何の考えもない行動――火事場の馬鹿力みたいなものか、単に父親が油断していたのか――それは呆気ないひと刹那だった。声も上げず、父親の身体からはたちまちすべての力が抜けて、僕に覆い被さったまま動かなくなった。僕の息遣いだけ……間抜けでさえある静寂が、訪れた。

「………………………………」

 父親の身体を押し退けるようにしながら、その下から脱出した。やはり父親は、うつ伏せのまま、ピクリとも動こうとしない。まさか…………死んだのか? 嘘だろう? こんな簡単に――いや、しかし人ってのは簡単に死ぬから…………。本当に…………?

 僕は父親の手を取って、脈を確かめた。すると……別に何のことはない、トクトクと普通に脈打っていた。小さな失望と小さな安堵とが同時に起こって、すぐ消えたように思う。ああ、この程度では、死なないよな……気絶しているだけだ……。

 立ち上がると視界が眩んで、頭が一気に何十倍も重くなったように感じられた。壁に手をついて、探り探り、洗面所の中に這入った。すると立ち眩みは少しだけ落ち着いて、見えるようになった。蛇口をひねって、咥内に溜まっていた血をウーエッウーエッと吐き出して、顔をバシャバシャと洗って、口をゆすいだ。傷が沁みて痛かった。鼻血も出ていたし、頭にも疼痛とうつうがあったし、それに爪を立てられたんで陰部からも出血があるようだった……。

 ボロ切れ同然のタオルで鼻を押さえながら、廊下に倒れている父親を見下ろす。こいつが起きたらどうなるだろう……と考えて、ゆーっくり気が遠くなっていった。何か、中身のない、途方もない気持ちになった。それはある側面において、投げやりでありながら大胆でさえある気持ちだった。

 ようやく鼻血が止まると、僕は何も持たずに家を出た。高い建物がひとつもない田舎だから、空がやたらに広い。しかしあいにくと星は見えなかった。蒸し暑い、夏の夜。

 行くあてもなく、歩き始めた。逃げようとしたんじゃない……僕はどうせ、この町からは出られないと分かっていた。ただ、この家ではない場所にいたかっただけなんだ。問題を先送りすること……負債は膨れ上がり、後になってきっちり払わされるだろう。自分の首を自分で絞める……ああ、僕はこんなに馬鹿だったっけね? 何をしてるんだろうなぁ……。

 僕には何もない。それをつくづく、実感させられた。この夏休みは色々なことをやっていたような気がしてたけれど、結局は何にもならなかったんだ。得たものはない。失ったものはない。僕は単に、僕とは無関係に獲得されたり喪失されたりしていく数々の間をウロチョロと動き回っていただけだった。積み重ねられていたのは錯覚の山で、僕はそんな勝手な錯覚に対して、ひとりでいちいち溜息をついてただけだったんだ。道化だなぁ……。笑えない道化に、何の価値があるって云うんだろう?



 住宅地の中でも、巡回しているパトカーが目に付いた。僕はそれらを避けるうちに、追いやられるように、土手の下を歩くようになっていた。瑳辺川さべがわに沿って続いている土手だ。やがて歩き疲れると、小さな橋の下――そのジメジメとした斜面に座り込んだ。

 何をしてるんだろうなぁ……この疑問ばかりが、頭の中でずっと繰り返されていた。きっと、夏休みというひどく漠然とした時間のせいなんだろう。夢も目標も持ち合わせてない僕みたいな奴は、その中で何かをしようとしながら、空回り続けるしかない。際限なき虚無の夏。どうしたもんかねぇ……これでも夏休みは、まだ半分も終わっちゃいないんだぜ? 数えてみると今日で十六日目……これ以上ないくらい終わっちまって、まるで家なき子のように橋の下で座り込んじまってるくらいなのにさ?

 もう駄目だ。ただでさえ頭痛がするのに、くだらない考えばかりが出てくる。人間は考えないってことができない。目を閉じたって瞳は瞼の裏を見ているし、耳なんか閉じることさえできないんだ。もうちょっとオン・オフが効いたっていいんじゃないか?

 いっそ、この頭にドリルでも突っ込んで滅茶苦茶にしてくれたら良いんだけどな……。脳姦殺人……。脳髄が孕むってのは、なかなか核心をついてるよ……。やっぱり天織は大した奴だな……。そう云えば彼女、今日の夜にまたひとり殺すつもりだって云ってたが……。

 天織の逃亡生活に、僕もついて行かせてもらおうかな……という考えが、ふと浮かんだ。しかしすぐに、首を横に振った。そんな勝手なこと……彼女に迷惑を掛けるだけだ。そもそも断られるだろう。たった二回会って話した程度で心が通ってるとでも思ったら大間違いだ。恥ずかしい奴だな、僕は。

 大体、正直に云わせてもらうと彼女の逃亡生活、上手くいくとは到底思えない。すぐ捕まるだろうってことを云ってるんじゃないよ。はじめは新鮮で楽しく感じられるかも知れないが、どうせすぐに飽きて白けて、困難の多さに嫌になるに決まってるんだ。天織はそうならなくても、僕はそうなる。それに僕と天織の間柄も、いざ運命共同体めいた親密さになれば、合わないことばかり出てくると容易に想像がつく。すぐに仲違なかたがいするさ。ああ、これも正直に云わせてもらうけど、いくら事情だの思惑だのがあるからといって、男性器を口に含んでシゴいて出てきた精液を受け止めるなんてことをしてる奴は、やっぱり汚いと思うんだよ。これは僕だけなのかな? 大半の連中はそういうのが大好きみたいだし…………。

 僕は自分の腕を枕にして寝転んだ。雑念と、頭痛と、不快な湿気と、虫の声と、川が流れる音。すごく吐き気がして、何度も寝返りを打って、呻いていた。惨めだったねぇ……何の慰めにもなりゃしなかったよ。こういうときに限ってなかなか寝付けないんだが、夜は長いからさ、恐ろしく長いからさ、いつしか眠りに堕ちてたな…………。
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