虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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混沌の町における逃走劇

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 その日は外でやることは全然ないとのことで、海老川さんは昼に二時間ほどひとりで出掛けた後、ホテルの部屋で推理に耽っていた。すると午後三時を回ったころ、海老川さんの携帯電話が忙しく鳴り始めた。彼女は最初の電話ですっかり昂奮して、それから引っ切りなしに掛かってくるそれらに口調を器用にころころと変えながら対応しつつ、合間合間で僕に事情をまくし立てた。

 まとめると、こういうことになる。

 午後二時八分、火津路警察署に、不眠不休の捜査官たちを一気に目覚めさせる通報が入った。曰く、自分の友人が今、脳姦殺人の犯行に居合わせており、助けを求めていると。そして複数台のパトカーが、教えられた某アパートへ急行。アパートを包囲し、数名の警察官が問題の部屋――三〇一号室のインターホンを鳴らした。直後、アパートの裏の通りで待機していた人々が、一斉に声を上げる。三〇一号室のベランダにひとりの女子が出てきて、隣の民家の屋根に飛び移ったんだ。彼女はそのまま数軒の屋根の上を渡ると路地に下り、その時点で警察官たちは彼女を見失う。付近は車が通り抜けできない細い道も多く、また彼らは予期せぬ事態に連携が乱れ、思うように動けなかったらしい。大失態だ。無論、捜索は現在もエリアを拡大して続行中、公共交通機関も押さえ、検問も次々に敷かれている。火津路町は蜂の巣をつついたような大騒ぎ。

 三〇一号室では、部屋の借主である独身男性――火津路高校で体育教師をしている縞崎達夫たつおが殺害されていた。頭頂部に穴を開けられ、中に精液を注ぎ込まれ。死体の傍には血まみれのレインコートと、一連の犯行に使用された電動ドリルドライバーが残されていた。また、部屋のクローゼットの中では同校に通う彼の教え子――一年生の湯葉ゆば千奈津ちなつが隠れていた。助けを求めたというのが彼女だ。

 彼女はこの部屋に遊びに来ており、そこに不意の来客があった。ドアスコープから来客が誰か確かめた縞崎に一旦クローゼットに隠れるよう云われて、彼女はその通りにした。しばらく玄関扉を開けた縞崎が来客を帰らせようとしている声が聞こえていたが、小さな呻き声を最後にそれは途絶える。クローゼットの隙間から部屋を覗いていると、気絶しているらしい縞崎をずるずると引きずる女子の姿――この女子は彼女のクラスメイトである天織黄昏だった。天織はレインコートを被るとボストンバッグから取り出した電動ドリルドライバーで以て、縞崎の頭に穴を開け始めた。一瞬で目覚めてバタバタと暴れようとしたのも束の間、たちまち絶命する縞崎……返り血を浴びながら愉快そうに笑う天織……。クローゼットの中で口元を押さえ震え上がった湯葉だが、助けを求めなければいけないという思考が働く。これが脳姦殺人であるというのも分かった。彼女は携帯電話を震える指で操作して、信頼できる友人にメールを送った。縞崎のアパートにいること、その場所の案内、縞崎が殺されたこと、それは脳姦殺人であって犯人は天織黄昏であること、自分は身動きを取れず、声や音も一切出せない状態にあること、自分の代わりに急いで警察に通報して欲しいということ等。それからの彼女は、目を瞑って耳を塞いで、ジッと息を殺していた。果たして数分後、警察はやって来た。天織はベランダから逃げ出し、湯葉は無事に保護された。

 と、こういうことらしい。

 海老川さんは「もうっ! 何をしてるのよ警察も――犯人も! これじゃあ私の出る幕なく、連続脳姦殺人が終わっちゃうじゃない! 蟹原くん、私はちょっと出てくる。君は待ってて! ああ、滅茶苦茶よっ……」なんて頭を掻きながら慌ただしく出て行き、僕は部屋でひとりとなった。

 ああ、本当に『何をしてる』んだか……まさか最後の最後でヘマをやるとはね。しかしこうなってみると、こうなるしかなかったんじゃないかという気もしてくるから不思議だった。これは何度も繰り返し見てきたもののひとつ……そんな既視感めいたものを覚えたんだよ。

 天織の失敗は、責められるようなそれじゃない――僕はそう思う。犯行を重ねるごとに失敗のリスクも大きくなるんだし、本命の縞崎を殺害する頃合としては、このあたりがたしかに最適だっただろう。ただ上手くなかったのは、アポイントメントを取らないで縞崎のもとへ押し掛けてしまったこと。これまでは一期一会的な援助交際を装っていたから〈相手と二人きり〉の条件を満たせるのは必然だったわけだが、この本命の殺人はそうじゃない。この本命の殺人こそ、最も慎重に事を運ばなければならなかったんだ。天織にはそれを承知できるだけの能力があったはずなのに……やはり、思い入れの強さがためにかえって冷静な判断力を欠いていたんだろうか? それは――うん、仕方のないことなんだろう。運命の悪戯。あまりに皮肉な、間の悪さ。それもまた、仕方ないことだったんだろう……。

 こういうものなんだ。上手くはいかないものなんだよ。暗闇からは抜け出せない。それが分かっているから、僕は抜け出そうとしない。でも、天織にはそれでも、抜け出して欲しかったな。希望を託してたってわけじゃないし、そもそも僕はどんな希望も持たない人間だったけれど――天織は希望を持っていた。それが打ち砕かれて、はなから何も努力しようとしなかったこんな僕と同じところに、あるいはもっと酷いところに堕ちていく様っていうのは、見ていてとても遣る瀬なくなるんだから。

 おそらく、逃げおおせはしないだろう。縞崎を殺したその足でただちに逃亡生活に入るつもりは、天織にはなかったはずだ。準備は完了していたかも知れないけれど、一度は家に帰らなければいけない。だが当然、自宅は既に押さえられている。ほとんど裸一貫で逃亡を始めざるを得ない状況に陥ってしまった。しかもこの、最高の警戒態勢が敷かれた火津路町の中から。

 僕は窓辺に立って、混沌の火津路町を眺めた。雨は昨日で止んで、いまや再び焼け付くような夏の快晴だった。

 天織は炙り出される……彼女は今、どんな気持ちだろう? 縞崎の殺害には成功した。環の完成まではやり遂げた。前に云っていた通り、未成年の彼女は捕まったところで命まで取られるわけじゃない。ならば実のところ、そこまで悲観的ではないんだろうか? 分からない。たった二度、会って話しただけ。僕には彼女のことなんて、全然分からなかった。



 夜になって帰ってきた海老川さんは、仕入れてきた情報を自分でも整理しながら開陳していった。

「火津路高校の一年生、天織黄昏。学年は違うけど、蟹原くんは知ってた?」

「いいえ。同学年の人達さえ全然知らないくらいなんで」

「そう。この天織黄昏だけど、被害者の縞崎達夫に弱みを握られて、肉体関係を持たされていたみたい。はじめから、その復讐のための連続殺人だったのよ。面白いことが分かったの。第一の被害者の脳内に注がれていた精液は、縞崎のものだった。つまり精液がこれで、ぐるっと一周したんだわ。だから今回は、それを回収せずにいきなり殺害したのね」

「最後と最初が繋がって、もう次はないってことですね」

「その通り。縞崎の精液は、既に注がれ終わっていた。他の被害者と天織とはやっぱり無関係で、全体としては無差別殺人なんだけど……変わった犯行ね。第一の被害者に注がれた精液の意味にもっと着目していれば、天織に辿り着けていたかしら……?」

 そう云って歯噛みしたが、すぐにコホンと咳払い。

「たらればの話をしたって仕方ないわね。ええ、縞崎という教師は下種野郎だったらしい。生徒からの評判も悪かったし、怪しい噂は沢山あった――これは学校も責任を負うことになりそうよ。縞崎が肉体関係を持っていた生徒は天織の他にも何人かいて、まだ全員は分かっていないけど、今回の現場に居合わせた湯葉千奈津もそのひとりだったみたい。縞崎の部屋で行為していたところに、天織がやって来た。だから縞崎は湯葉をクローゼットに隠したんだし、玄関先でのやり取りで天織にそれを話さなかったのね。それが期せずして、天織の破滅に繋がった……。湯葉もまた縞崎に脅迫されて無理矢理に関係を迫られていたのに違いはなかったんだけど、自分の身の危険を感じたからという他になんと……呆れるわよ?……関係を続けるにつれ、縞崎へ対する愛慕を抱くに至っていたそうなの。迷わず通報することを決められたのは、こういうわけ」

「本当に呆れますね」

「何なのかしらね、こうした心理は。ストックホルム症候群とは少し違うかも知れないけど……いえ、それはともかく、他にも色々なことが判明しているわ。天織の部屋からは同種のレインコートや大量の札束などの証拠品、遠方へ逃亡するつもりだったらしい準備、さらに事件とは関係なく、自作した手榴弾なんかも発見されてる。これはもしかすると、新たな事件を起こそうと計画していたのかもね。加えて――」

 加えられたのはさして重要じゃない情報だったからいいとして、肝心の天織本人は、まだ捕まっていないとのことだった。縞崎のアパート近くで姿を消して以降、その足取りは不明。女子高生相手にこうも手こずるとは大半の人間が驚いているらしいが、これまで尻尾さえ掴ませなかった連続殺人犯なんだから当然だろうとは思う。それに、未成年だからこそやりづらいという点も、多分にあるんだ。

 うん。犯人は女子高生で、おそらくまだ火津路町内に潜伏しているだろうということ、それからその体格や服装なんかは既に公開されていたけれど、本名や顔写真は伏せられていたんだよ。これは大いに、天織の利として働く。

「それにしたって、何処に潜んでいるのかしら? 火津路町は広いけど、現場からそう遠く離れられたとは思えないし、彼女には頼る先もない……。今から推理すれば、身柄確保の手柄は私がいただけるかしらね? それとも連続脳姦殺人についてはもう諦めて、連続首切りと連続密室の方に専念するか……ええ、天織には他の二つとの関連はやはり見出せないそうなのよ。私が考える〈黒幕〉的存在の陰も、同じく見当たらない……。ああ、どうなってるの? この町はまったく!」

 いつだか僕が云った通り、二兎を追うものは何とやらの言を体現中の海老川さんだった。彼女はそれから三十分の仮眠を取ると――昨晩もろくに眠らなかったらしくてね、目の下にはクマもできていたよ――朝まで帰らないかもと云ってまた出掛けて行った。

 僕は、うーん……困惑とはいかないまでも、ちょっと分からなくなっていた。数時間前までは天織はもう逃げられないと思っていたけれど、そうでもないかも知れない。火津路町から脱出さえできれば、可能性はずっと高くなるし……。

 とはいえ、此処で僕が何を考えていたって、天織の今後の道にはまったく影響しないんだな。だから考えても仕方ない、いずれにせよ静観の構えでいるしかない――そう思って、僕は海老川さんが買ってきてくれていた食糧からおにぎりをひとつだけ食べると、さっさとシャワーを浴びて、早くに寝てしまった。これは不貞寝ふてねみたいなものだったかもな……何もできない自分に対する苛立ちがなかったと云うと、嘘になるから……。

 だが翌日になると、事情は変わっていたんだ。
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