虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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海老川蝶子の最終推理2

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「………………」

「しかし感情とは要するに起伏だわ。悲しみがなければ喜びもない、憎しみがなければ慈しみもない、嫌いがなければ好きもない……そうやって君の、その虚無的な人格は形成された。さらに不都合な記憶、罪悪感、そういったものまでお姉さんに押し付けることができた君には、道徳意識や倫理観さえも欠如した。

 だから君のお父さんはとうとう、君からお姉さんを切り離す決断を下したのよ。君が双頭であることは君が生命活動を続けていくうえでの致命的な弊害にはならない……それを無理に手術すれば失敗の可能性もある……ゆえに君の手術はこれまで見送られてきたけど、もはや外見でなく、その内面が、恐ろしいほど不気味で非人間的なそれへと育っていきつつあった。お父さんはそんな君を〈悪魔の子〉〈呪われた子〉とまで云い表していたわ。

 手術の後、君達は君達を知る者が誰もいないこの土地に移り住んだ。君は火津路高校に入って――もっとも学校には簡単な事情を説明したようだけど――一般的な人生を歩み始めることになった。でもね、君にはひとつ、大きな問題が残っていたのよ。お姉さんは君にとって、それまでずっと共に生きていた〈半身〉であったばかりでなく、君の精神を安定させておくための〈装置〉でもあった。その〈不都合なことを押し付けられる先〉を失った君は、今度は一種の二重人格者へと変貌した。自らの意識を二つ別個に持って、その片方が、それまでお姉さんの脳が果たしていた役割を担うようになった。君にとってはすっかり手馴れた手口を流用すればいいんだから、簡単よね。だから君のメインの意識はやはりそれまで通りに、不都合な記憶や感情や思考を避け、さらにはそれを自らに対して隠蔽できるよう、無意識下での高度な記憶の改竄かいざんまで行い始める始末……。ええ、この新たな機能が備わったのは、二つの脳を使うのとは違って、二つの人格はひとつの脳の中に同居せざるを得ないがゆえの自然なものなんだけど……そうね、この後の説明においても大事になってくる両者の違いを図示すると、こうなるわ」

 海老川さんは片手では僕に拳銃を突き付けたまま、手帳を開いて見せた。左側のページには二つの円が並んでいて、左の円から右の円へと矢印が引っ張ってある。右側のページではひとつの円をもうひと回り大きな円が囲んでいて、内側の円から外側の円へと矢印が引っ張ってある。

「矢印が〈押し付け〉の方向で、左のページが二つの脳の場合、右のページが二つの人格の場合よ。前者は問題ないとして後者なんだけど……二つの人格を別個に持つとは云っても、正確には、片方が片方を包括ほうかつしている状態――これはメタレベルの関係を表しているわ。つまりは君のメインの意識が内側の円で、これは自分より外の円のことは知れない。でも君のメインの意識をいわばマネジメントする〈装置〉たる第二人格は当然、メインの意識のこともすべて知ったうえでそのマネジメントを行うってわけ。内側から外側へ押し付けるだけじゃなく、外側から内側へも改竄やその他調整というかたちで干渉するから別の色の矢印をその方向に引っ張ってもいいけど……いずれにせよ、二者間のこうしたやり取りもまた超自我による〈検閲けんえつ〉みたいなもので、メインの意識には自覚されない。以上を踏まえたうえで聞いて頂戴」

「………………」

「お姉さんの死もまた、君の中では隠蔽されていた。君はお姉さんの生首の剥製はくせいを部屋に置いて、彼女が生きているかのように振る舞った。本当にそれを信じきっていた。お父さんが何を云っても無駄――だって君はつまり、都合の悪い情報は見ざる聞かざるでシャットアウトできるに等しいんだから。まるで暖簾に腕押しの状態よ。このままじゃあいけない……そう思ったお父さんはそして、君が学校に行っている間に、お姉さんの生首を処分することに決めた。

 でもね、これは話してくれなかったけど……もしかしてお父さんは知ってしまったんじゃないかしら。君が人を殺めたことをね。一年前の首切り殺人――君は〈お姉さんの胴体〉を手に入れるために、目に留まった女子高生を殺害してその胴体を持ち帰ったのよ。ええ、私は前に、今回の連続首切りが一年前のそれに合う生首を求めての犯行ではないかと推理したことがあったけど、一年前の方こそがまさにそうだったのね。おそらく、いくら事実を歪曲して自分に都合が良いように改竄できるとは云っても、生首を生きてる人として扱うのには限界があった……お姉さんの死を隠蔽するにあたって、君はこのときには既に自分たちは普通の双子として産まれたものという認識を完成させていたはずだから、お姉さんもまた胴体を持っていなければ理屈が合わないんだし……君の精神はまたも崩壊の危機に立たされた……だから胴体を見繕って、五体満足の格好に仕上げようとした。これが、一年前の首切り殺人のおおよその真相でしょう。もちろんすべては無意識下で画策され、もうひとつの人格で以て実行された。どうかしらね……このときの死体が君の家の庭の中からでも見つかってくれれば、分かりやすい証拠のひとつになるんだけど……まぁいいわ。

 ええ、結局はこの殺人の甲斐なく、あるいはそんなことをしてしまったせいで、お姉さんの生首はお父さんによって処分された。君は発狂したそうね。生まれてはじめて味わう、精神のカタストロフィ。そこからどうやって恢復かいふくしたかと云えば、やはり忘却と改竄による自己の保護と、さっき述べた恐ろしい大妄想だった――未曾有みぞうの犯罪計画の始まりよ。

 君がこのたびの大量殺人事件を企画した目的はただひとつ、お姉さんとの〈再会〉だわ。君は〈夜の夢〉を組織しながらも、自らに対してはそれを隠蔽し、いずれ〈夜の夢〉の創設者が君のお姉さんに他ならないという〈真相〉に到達できるように、すべての事を進めた。つまり、お姉さんの生首を失った君は、彼女が生きているという可能性を自分に納得させるために彼女は行方不明なのだと信じ――ええ、行方不明のお姉さんが公的に捜索されない理由として白樺家の隠し子事情を借用することで、これは後に補強されるわ――、そして彼女が君に〈再会〉しようとしていることを、それを暗示する犯罪事件に君自身を巻き込ませることによって演出すればいいという……あまりにも常軌を逸した思考を辿った。それも、お姉さんが〈生きた生首〉として生きているという冗談みたいな〈真相〉に向けてね。

 お姉さんの生首を生きているものとして扱っていた期間――それは短かったけど、君の精神にとっては物凄く強烈な印象となったのでしょう。さらにはそれをどうにかするために、首切り殺人までおこなったこと……ああ、これは今思い付いたけど、もしかすると、このときに手元に残った〈胴体〉に説明を付ける必要まで感じていたからなのかしら……ともかく、君はこの期に及んで、生首のお姉さんが死んでいなかったということを君自身に納得させたかった。ええ、君は都合の悪いことは一切合切、普段意識できない領域に突っ込んでいるわけだけど、それは厳密には忘却ではないし、君の知らないところで君を支配している無意識下の法則は、いわば包括的にそれらを知っていて意識している――さっき図で示した通りにね。だから自らの出生、シャム双生児であったという根源とも関連して、君にとって〈生首〉というのは無視できない重要なファクターなんだわ。

 さぁ、これで事件には驚くほどきれいに説明が付く。この約一年間で準備は着々と進められ、火津路高校の終業式があった日、いよいよ実行に移された。ええ、連続脳姦殺人のスタートもこの日だったけど、天織黄昏も同じ火津路高校の生徒なんだから、このタイミングの一致はそれほどの偶然じゃなかったわけね。それはいいとして、まず行われたのは連続首切り殺人。〈生首〉にこだわりを持つ君のことだから当然でもあるし、それに是非ともはじめに、複数の生首を回収することが肝心だった。なぜなら、後にあの〈生きた生首〉の動画がアップされたのが決定的だけど――君が設定した〈真相〉においては、連続首切り殺人の被害者たちは全員〈生きた生首〉として生存していることになってるのよ。

 連続密室殺人も、それを裏付けるために行われていた。と云うのも、これに関して君が至る〈真相〉は、〈生きた生首〉を用いた密室トリックに違いないんだわ。だから毎回、被害者の腹を切り開き、そこにわざわざ連続首切り殺人の被害者の生首を一度入れるなんて手間を掛けさせた。しかも君は探偵である私と関係ができたことまで利用して、あえて玖恩寺家の事件では玖恩寺富恵の腹の中に生首を入れたままにしておいて、それを自身に目撃させるなんて離れ業までやってのけたわね? そうよ、悔しいけど、私は君が設けた陥穽かんせいに嵌められた。あの赤ん坊を利用したトリック、さらには二件目の事件が玖恩寺家で起きるということまで、君は私をコントロールすることでそう推理させ、あの日、君をその場に連れて行かせたのよ。私はあの推理を自分の力で完成させたとばかり思っていた……でもそれらはすべて、与えられた情報から成り立っていた……ええ、情報提供者よ……君は警察内部の〈夜の夢〉協力者を使って、私に偏った情報と暗示を与えていた。思えばどこか不自然だった……あのときに気付けなかった、私のミスね、痛恨の……。

 しかしながらもちろん、実際に使用されたのは蛇を用いたトリックだわ。君が設定した〈真相〉と、それとは異なる実際の真相とが別々にあるってところが、この一連の事件の特徴よ。あの動画にしたって、自走する簡単なロボットの上に、その分だけ中身をくり抜いた生首を被せて撮影しただけ。でも君は必ず君自身を、実は生きていたお姉さんが犯人であって、彼女が君に自分を見つけさせようとしているという〈真相〉の方へと導くでしょう。君の脳は、君に都合が良いようにできてるのだから。

 そして君はこれから、最終段階に入ろうとしている。待ちわびていた〈再会〉よ。現実にはお姉さんはもう何処にもいないのだから、この〈再会〉をどう果たすつもりなのか私は分からないでいたんだけど……なるほどね……行方不明中の本物の白樺百合莉は、戸倉ビルにいるに違いない。その戸倉ビルに出入りしていた人々……その中のひとりの素性を突き止めたことで、分かったわ。分かってしまったわ。予定では、白樺家の隠し子事情は露見せず、白樺百合莉は社会的に生きていないものとされるはずだった。君は彼女を――」

「もういいです」

 僕は何だか、泣きたいくらいの気持ちになっていた。こんな酷い話、よくもここまで聞けたもんだと思うよ。ホテルに匿ってもらったときは感謝もしたけどさ、やっぱりこの人、ろくでもない奴だった。いや、もはや畏敬の念さえ抱いたな。ここまで嘘ばっかりの話をべらべらべらべらと、しかも深刻な表情なんか浮かべて並べ立てられるってのは、一種の才能には違いないんだ。

「海老川さん、貴女は探偵じゃなくて推理作家になったらいいと思います。でも……売れはしないでしょうね。出来が悪すぎる――はははっ」

 笑い声が洩れちまった。どうしたんだろうな、面白くもないのに。

「いえね、相変わらず、僕を高く買いすぎてますよ。僕にはそんな馬鹿みたいな妄想をやる力はないし、実行する力となればもう論外だ。家は貧乏、友達もいない、目立った特技もありはしない、こんな高校生がどうやって、そんな犯罪集団を組織したり、警察内部に協力者をつくったり――」

「〈アウフヘーベン〉」

「…………何ですか、それ」

「日本国内に限らず、各界の大人物が多数所属し、強大な力を持っている宗教的結社よ。調べてみるとその存在自体は別に秘匿されてるわけじゃないみたいなんだけど、私は知らなかったわ。師匠に教えてもらったの――ええ、今日の昼、会って来たのよ。私はどうしてもこの事件を解決しなくちゃいけない。だからくだらないプライドは捨て、師匠に事件の概要と私の推理を話して、この背後にいるはずの〈黒幕〉……〈夜の夢〉じゃなくて、さらに大きな、どうやっても私じゃ尻尾を掴めないそれについて、思い当たるものがないか訊ねた。その答えが〈アウフヘーベン〉だった。師匠も過去に、やり合ったことがあるそうよ。この結社なら警察に影響を与えるのだってお茶の子さいさいだし、今回のケースにぴったりだって」

「………………」

「蟹原くん、君はもとから〈アウフヘーベン〉と繋がりがあったのよ。しかもある程度、個人的な要求を通せるほどの特別な立ち位置だった。だからその力を借りて〈夜の夢〉を組織できたし、今回の事件でも陰で様々なサポートを受けている。

〈アウフヘーベン〉はその名の通り〈止揚〉をテーマに掲げているわ。あらゆる対象について、劣った部分は捨てられるが優れた部分は保存され、それらの発展的統合によって〈最善の状態〉へと向かっていくこと。君――いえ、君達双子は、その内の〈男女の止揚〉を一種体現していた。双頭であったばかりじゃなく、臓器はすべて単一のものを共有し、その身体的特徴は基本的に男性でありながら、外性器に関しては女性……シャム双生児の中でも類を見ない遺伝子の奇蹟。単なる結合にとどまらない、半陰陽的な融合体……これはいわば、古くより〈神〉や〈完全〉と結び付けて語られてきたアンドロギュヌス――両性具有のまったく新しいかたちだわ。〈アウフヘーベン〉が関心を抱き、崇拝さえしたって無理はない。手術によってお姉さんの頭が取り除かれても、それはむしろ〈止揚〉の観点からすればより理想に近づいたとも云えるでしょう」

「…………分かりました。分かりましたよ。いえ、全然分かりませんけど、もう大方、話し終わったでしょう? どうぞ警察へでも裁判所へでも、連れて行ってください。どうせ銃で脅されてりゃ、僕に選択権はないんだ」

 両手を上げた。降参だ。こいつは自分の妄想を信じ込んじまってて、こっちが何を云ったって意味を成さない。「蟹原くん……」だなんて、急にしんみりした感じで名前を呼んできたけど――何だ今更。ふざけんじゃねぇぞ。

「でもそんな話、誰も信じないでしょうね。当たり前です。考えるまでもない。さぁ早く。僕は面倒事はさっさと済ませたいタチなんで。早くしてくださいよ。精神病院が待ってますよ、海老川蝶子さん」

「…………分かったわ」

 彼女はまだ何か云いたいらしく見えたけれど、飲み込んだようだった。偉いじゃないか。それとも喉が痛くなったのかな?

「その前に、天織黄昏を連れてきてもらうわよ。もちろん、見逃すつもりはないわ。君と違って彼女の方は、立派な指名手配犯なんだから」

「ああ、残念ながら、黄昏ならとっくに逃げましたよ。この車は、貴女が玄関を見通せる方向で停めるべきでしたね」

 こう云ってやると、彼女の注意は一瞬、背中を向けていた家の方へと移った。僕はすかさず飛び掛かるようにして、彼女の首を両手で掴んで絞め上げた。ギリギリギリっと、体重を掛けてもう一気に首の骨をへし折ってやろうってくらいの力を籠めて。抵抗はされたけど、この間抜け、その拍子に拳銃を離しちまったのが分かった。馬鹿だなぁ。詰めが甘いんだよ。大体どうなったって、どうせ僕を撃つことなんかできやしなかったに違いない。こいつは僕のことが好きだったみたいだからな。

 見る見るうちに顔面は鬱血、白目を剥いて泡を吹いて、ついに動かなくなった。それでもしばらく絞め続けて……ようやく手を離そうとしたときには手と首とがくっ付いてるみたいでベリベリ音が鳴った。こっちの腕まで痛くなっちまったよ。それにしても、絞殺死体ってのはこんなに醜いものなんだねぇ。美人が台無しだったな。

 車から出て、家の中に戻った。黄昏はボロボロのソファーに腰掛けていて「待ちくたびれたわー。何だったの?」と訊ねてきた。

「いや……信じ難いくらい無駄な時間を過ごしちまった。あれなら犬の糞でも拾ってきてレンジでチンした方がまだ有意義だったな……」

「ひひっ、何それ」

 屈託なく笑われたが――何が可笑しいんだ? こっちは大真面目なんだが。

 父親は椅子の上でまだ目覚めていなかった。ああ、なるほど……と僕は得心する。こいつが隠し子のことを誤魔化したくてシャム双生児がどうだのと出鱈目を云ったんだな。それで海老川さんは、あんな頓珍漢とんちんかんな妄想を膨らませた。僕の住んでた町まで行って調べてきたというのはハッタリだろう。本当にさぁ……そういう横着はやめようよ……。

 台所の戸棚の奥からウォッカの瓶を二本取る。父親が隠していたものだ。私はキリスト教徒だから酒はやらないなんて平素から抜かしてたけど、こっそり飲んでたことを知ってんだよこっちは。そして二本とも栓を開けて、父親の頭の上からバシャバシャとかけた。

「は、何すんの?」

「燃やすんだよ。灰燼かいじんすってわけだな、くだらない過去は全部」

 二歩ほどさがってマッチを擦る。

「訊きたいことがあるんじゃなかったの?」

「ひとつもないさ。ねぇ黄昏、僕と君以外の人間は大体が宇宙人みたいなものだと思った方がいいよ。話をしようったって無駄なんだ」

 火の点いたマッチを適当に放り込んだ。ぼわあっ!と勢い良く燃え上がる。父親はやっと目を覚ましてジタバタし始め、椅子ごと後ろ向きに引っくり返った。ばちばちばちっ!と、熱気が近くの僕らにまで感じられた。黄昏は「うわ! 凄い凄い!」なんて笑って拍手していたけれど、僕は「早く行くよ。じきに全焼するぜ」と云って足早に出て行った。

 外はもう、東の空が茜色に染まり始めていた。どのくらい車内にいたんだろう。

「この人が探偵? 殺したの?」

 後について出てきた黄昏が、家の前に停められた車の中を覗き込んではしゃいだ声を出す。はしゃぐのはやめて欲しかった。相手をしてて疲れるんだよ。

「いいから乗ってくれ。〈夜の夢〉のアジトまで行くから」

 僕は既に自転車に跨っていた。

「え、自転車?」

 黄昏はと云うと、まだスーツケースなんか持ってたんだ。

「当然じゃないか。大丈夫、誰も僕らなんて見てないさ」

「あたし、二人乗りってしたことない――って云うか自転車乗れないんだけど」

「荷台に座って僕にしがみついてりゃいいだけだぞ? 誰でもできる。百合莉にだってできた」

「ああ、あのイザベル・アジャーニ?」

 黄昏はスーツケースを捨てて、いくらか恐る恐るって感じで荷台に跨って僕の腹に両腕を回した。

「なんか刹先輩、怒ってない?」

「怒ってる? 斬新な意見だな。何を怒ることがあるんだ?」

 僕はペダルを踏み込んだ。大して揺れてもないのに「ひゃっ、ひゃあ――」と後ろで小さく声を上げ続ける黄昏。腹をぎゅうっと締め付けられて、まったく先が思いやられた。

「ひっ――そ、それであの探偵は、な、何を話したわけ?」

「話す価値もないことだって。前々から愚にも付かないことばかり得意気に話す人だったけど、最後の最後でここ一番の大駄作を披露しやがった。堪ったもんじゃなかったな」

「ひひっ、か――かえって気になるじゃん」

「全然。いくら君が物好きでもおすすめしないよ。耐性のない人が聞いたら顎が外れると思うんだ。僕でも危うかったくらいだから」

 それに、話したらどうせ黄昏は『ファイト・クラブ』みたいだとか云うに決まってる――うん、僕は映画は見てないけど、原作小説なら昔に姉さんと読んだことがあるんだ。そうだな、そう考えると海老川さんの推理はありきたりもいいとこだったな。今時、二重人格がどうとか……自称ミステリ好きが恥ずかしくないのかね?

「へー、だけど、ひっ――残念だね。駄目駄目だった奴が最後の最後で当てられてれば、か――格好良かったの、にっ。ほら、『暗黒タマタマ大追跡』の女刑事みたく――」

「なぁ黄昏、君はいちいち映画で例えないと死んじまう病気に罹ってるのかい? 僕は映画なんか一回も見たことがないんだよ。毎度毎度チンプンカンプンなんだ」

「あーごめんごめん。――刹先輩、やっぱり怒ってるでしょ? そんなに探偵の話が気に食わなかっ――だあ、し、舌噛んだ……」

「良いことだ。喋ってると男装だって知らせてるようなもんだからな。背中に顔を押し付けてるといい」

 茜色が徐々に浸食していく空の下、すっかり見飽きた町並みの中を疾走し続けた。

 ああ、すれ違う人々も建物も景色もにおいも空気も何もかも、僕の神経を逆撫でするものばかりだった。この町にはそんなものしかない。首の傷がうずく。

 どうしてみんな、僕を苛立たせることに関してだけは一級品なんだろうか。凄い町だよ本当に。もう少しくらい、まともなものがあったっていいじゃないか。なのに全部が全部、退廃している。息が詰まって仕方がない。

 僕は別にね、楽しませてくれとか思ってるわけじゃないんだよ。そんなのは疲れるだけなんだから。ただ、落ち着いた、穏やかな、優しい時間が欲しいだけなんだ。姉さんがいなくなってからというもの、ついぞ離れなくなったこの憂鬱だとか気掛かりだとかが、一瞬でも和らいでくれたらいい。それだけなんだよ。

 そのためには……姉さんに会うしかない。姉さんに会わなきゃ駄目だ。早く、早く、早く会いに行かないと……僕はもう、とっくに限界なんだから…………。

「見て、黒煙が上がってる。刹先輩ん家の火、燃え広がってるみたいだよ」

 そう云われたけど、見なかった。どうでもよかった。何のことだ? 忘れちまったよ。実はね、僕は頻繁に記憶が飛ぶんだ。昔から。
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