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【O章:表ラブホの裏ビジホ】
2、3「WAVY」
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2
あれからは〈ヘルメス〉で何度かやり取りしただけで、予定は合わずにいた。「また飲みましょう」は社交辞令だったのかもと思い始めていた六月十八日、誘いを受けての二度目の対面。待ち合わせは日付変わって深夜一時、場所は茜条斎の〈FURFUR〉だ。
今夜も他に客はおらず、韋吹がひとりで店番をしていた。彼によると、友餌は二週間に一度ほどやって来ては破滅的な酒の飲み方をしていく不思議な客だという。
「ぼくは三ヶ月前からのバイトなんで、そんなに会ってるわけじゃないんですよ」
「そうなんだ。彼女、きみには容赦ないから、付き合いが長いのかと思った」
「うちの店主が顔馴染みみたいで。ぼくには最初からあんな感じでしたね……」
カシューナッツをつまんで待っていると、友餌は一時を十分回ってから登場した。
「ごめんなさい、遅れちゃった! お詫びにワン・ショットおごります!」
「いいよ、全然気にしてない」
「ええ、荻尾サン優しい。今日も格好良いねえ。あたしはこれ、美容室でヘアセットしてもらって来たの。髪がふわっとしてるでしょ? ふわっと」
わざわざ美容室で? 俺がよく知らないだけで、別に普通のことなのだろうか。
そして彼女の方こそ今日も可愛い。デニムのベアトップは少し目のやり場に困るけれど。
「えへへ……潰し合いましょうね?」
椅子に掛けると、意地悪っぽい笑みを向けてきた。その右手の人差し指が、様々なボトルが並んでいる棚を指差す。
「とりあえず再会を祝してスパークリングワイン、開けちゃいましょうか」
韋吹がセレクトしたそれをグラスに注ぎ、俺達は乾杯した。上品な出だしだと思っていると、「韋吹クン、割り箸突っ込んで。負けた人が残りイッキね」との発言が飛び出す。
「その割り箸はどういう意味?」
「知らない? 炭酸を抜くんだよ。イッキできないし、酔いが回りやすくなるからね」
「へえ。もったいない気がするけど……」
「いーのいーの。長く楽しみたいでしょ?」
続いて彼女がコインを用意するよう指示すると、韋吹はげんなりとした。
「鉛さん、それ強いじゃないですかー」
「まあねん。ほら貸してみーや」
友餌はコインを真上へ投げて、左手の甲に落ちる瞬間に右手で覆った。
俺と韋吹はそれが表か裏か当てればいいようだ。外した方が負け、二人とも正解したら友餌が負け、二人とも外した場合にはもう一度とのこと。
「ごめん、これは分かった。コインは表だ」
右手で覆うタイミングが遅く、俺にはそれが見えていた。しかし韋吹の方は見逃したのか、裏と宣言した。友餌が右手を斜めにゆっくり上げると、答えは裏だった。ええ……?
「あははははっ! 騙されたあ!」
「荻尾さん、見えた方とは逆なんですよ」
割り箸を入れておいてくれて良かった……。
結局は三人とも泥酔した。午前三時ごろに帰ってきた店主に今日はもう閉店だと云われて、友餌は自分も出すと云ったが俺が全額支払って、二人で肩を組みながら店を出た。
「お別れするの嫌だあ。荻尾クン、もっと飲もうよお」
「いいよ、俺は全然。全然酔ってないからね、まだ」
エレベーターの扉が開き、転ばないよう壁に手を着いて中へ乗り込む。
「ホント? あのねえ、ミスロペスの新しい味が出てるんだあ」
「そうなの。なに味? どこなら飲めるんだろ」
「マルキで買ってさあ、二人で飲も? 荻尾クンのキャンピングカー、行きたいなあ」
「いいね。少し歩くけど大丈夫? 少し――十分くらいかな」
「大丈夫う。あれ荻尾クン、エレベーター動いてなくない?」
「んあ。一階押してなかった」
「あははははは!」
抱き着かれた俺はバランスを崩し、友餌もろともひっくり返った。友餌がまた笑うので俺も笑う。一階のスイッチを押すとエレベーターがガコガコと動き始め、そこで思い出す。
「あ、キャンピングカーは駄目だ。同居人がいるんだよ」
「そうなの? う~ん……あたしの家は遠いしなあ」
俺の上に乗った友餌は、視線を宙に投げて考える。唇の端を歪めて少し歯を見せているのは彼女がよく浮かべる笑みで、とてもさまになっている。
「じゃあホテル行こ? ホテル街すぐ其処だからあ」
「ああ、そうしようか。そのまま寝られるし、丁度いいかもね」
「やったあ」
一階に着いて扉が開いた。俺は友餌に肩を貸して立ち上がりつつ、アルコールのせいで正常な思考からは程遠くても、内心ではこの展開にちゃんと動揺している。
ホテル――いやしかし、辛うじて残っている理性が、妙な気を起こすなと云っている。友餌は俺を信頼してくれているのかも知れない。変なことをするはずがないと。
先のことを考えるんだ。関係を終わらすような馬鹿な間違いはするなよ……。
3
二十四時間営業のディスカウントストア〈マルキ・ド・サド〉でミスロペスのマンゴー味を箱買いし、どこか綺麗なところが良いと云いながら歩いていて目に留まった〈オケアの巣〉というホテルに這入った。八階建てのビルの六階、七階がそれで、フロントがある六階までエレベーターで上がる。
フロントには、タキシードを着た清潔そうな男が立っていた。ラブホというのは受付がパネル操作だったり、顔が見えないように仕切られているイメージだ。もしかして普通のビジネスホテルなのか? と思って料金表を見たが、休憩と宿泊で分かれている。
俺と腕を組んでいる友餌が「宿泊でえ」と云って、俺が料金を先払いし、部屋の鍵を受け取った。アクリル製のキーホルダーには六一〇という番号が刷り込まれている。同じ階だ。柔らかいライトに包まれた廊下を奥へと進む。
ドア横の壁に取り付けられたプレートの部屋番号が六〇一、六〇二、六〇三とカウントアップされていくのを眺めつつ、途中で左に折れて、再び左に折れて、その左手奥にある部屋が六一〇号室だった。開錠し、中へと這入る。
室内もいかがわしいムードはなく、綺麗なビジネスホテルという印象だ。俺はどこか安心する。友餌に腕を引かれて、倒れ込むようにソファーに腰掛けた。
「あは。来ちゃったねえ、ホテル」
「え? うん、そうだね。来ちゃったけど」
可笑しそうに笑いながら、友餌は横から身体を密着させてくる。色々と柔らかい感触が当たる。俺は頭がぼんやりしているが、自分の鼓動が早くなるのは分かった。
「お酒飲む? 買ってきたやつ」
ビニール袋から箱を取り出し、膝の上に置いて開ける。友餌はずっと俺の顔を見上げている。「持たせて」と云うので、小瓶の蓋を開けて、彼女の左手に握らせた。
「荻尾クンも。おいしーおいしーしよ?」
彼女流の乾杯らしい。俺も小瓶を持つ。「はーい、おいしーおいしー」と云いながら瓶と瓶を軽くぶつけ、それぞれ二十ミリを一気に飲み干す。頭の中がぐらりと揺れる。
「あ~、ホント美味しいねえ。ホント美味しい」
「俺――もう無理そうかも。今のでだいぶキたよ」
外の空気に当たっているうちは大丈夫な気持ちもあったが、そういえば俺は昨晩も飲んでいるのだった。これ以上は吐いてしまうかも知れない。既に吐き気がする。
「荻尾クン、一、二、三って云って」
「どうして?」
「いいから、云ってよお」
友餌が可愛く甘えてくるので、俺は云われたとおり「一、二、三」と数える。
「四、五、六」
「え、なに? 七、八、九?」
「そう! 十、十一、十二」
「十三、十四、じゅう――」
「あうとお。十三を云った方の負けなんだよ。荻尾クン、もう一杯」
「ちょっと、ええ? ルール説明がなかったじゃん」
「ふふふ。男らしいとこ見せてよお」
仕方なく箱からもう一瓶とる。真上を向いてグイッと強引に流し込むと、喉が焼けるほど熱くなって「くあーッ」と声を上げた。友餌が嬉しそうに笑うのが聞こえる。
「ねえ荻尾クン、これ――気付いてるでしょ?」
彼女は左手を俺の眼前に掲げた。手首に幾筋も走っている自傷の痕についてだろう。
「荻尾クン、リスカ痕がある女は嫌い?」
「いや――まったく気にならないな。むしろ好きだよ」
「むしろ好きい? あはは、なにそれえ。性癖なの?」
「違う違う。なんか、ちゃんと悩んでる人なんだなあと思って、なんかしてあげたくなる」
「へえ、なにかしてくれるんだ? なにしてくれるの?」
「なんだろ、なんでもいいけど。お酒飲む?」
「あははは! どうしよっかなあ……一、二、三」
「四、あー……いくつまで進めていいの?」
「三つまでだよ。ひとつか、二つか、三つ」
「じゃあ四だけ。四でストップ」
「あたしも――五だけ。五だけ」
「六、七、八」
「えーっとねえ……九?」
「十、十一、十二」
「うわあ最悪う~!」
俺が蓋を開けて差し出すと、友餌もひと息に飲み干した。ひと筋、口の端から垂れる。声は上げなかったが、代わりにぎゅう~……と俺に抱き着いた。俺も彼女の腰に腕を回した。
「……あたし、隔離病棟に入れられそうになったことがあるんだあ」
俺の肩に額を乗せたまま、彼女は呟くように云った。
「え、なんの病気で?」
「なんか、精神的なやつ。高校生のころね、自殺未遂を繰り返してたから」
「……つらいことがあったの?」
「色々ね。だけどみんな、なんのことか分からないみたいだった。親とか先生とか神父様とか、クラスの子達も、全員。あたしがどうして死のうとするのか、意味不明だってえ」
「虐待とか、イジメとか、そういう理由とは違ったんだ?」
「そう。鉛友餌の生活には、なにも問題がないはずだって。意味わかんなかったなあ、本当に。虐待とかイジメとか、そういう理由がないと、死のうとしちゃいけないわけ?」
「そんなことない。それは外野が、なんと云うか……分かりやすい理由を求めていただけだろ。外野が納得したいだけで、きみの苦しみとは関係ない」
「そう、そうなの」
友餌の両腕が、俺の首に回る。さらに強く抱き着ける体勢を探るみたいに。
「それを分かってくれる人が、いなかった。荻尾クンは優しいねえ」
「そうかな……」
もっと気の利いたことを云ってあげたいのに、酔いのせいで考えがまとまらない。
「結局、隔離病棟には入らずに済んだけどね。死ぬのもやめた。自分で解決したの」
「どうやったの」
「考えたんだよ。あたしはどうしたら、この世界で生きていけるのかーってこと」
「それは――すごいね。答えが出たんだ?」
「ふふ。高校は中退した。家も出て――あたしが夜の仕事だってことは話した?」
「いいや。そうかもとは思ってたけど。髪の色で」
「変かな? 緑色」
「良いと思うよ、すごく。きみに似合ってるし」
「ありがと。ふふふ……。この仕事はね、若いうちしか価値がないんだ。三十代になって続けてる人も沢山いるけど、あたしには無理。二十代後半でも駄目だね」
「二十代なら若いだろう」
「意味がないんだよ。あたしが死ぬのをやめた理由は、そうなったら意味がない。あのときに、自分で期限を決めてたんだ。それを越えたら、もうお終いだって期限」
「いつまで? その期限は」
「二十二歳の誕生日。今年中に運命の人と出逢わなかったら、死のうと思ってたんだよ」
友餌は顔を上げた。赤色のアイシャドウに強調された両目が、俺を見つめる。瞼には涙が溜まっていて、照明を反射している。赤らんだ頬。寂しそうに微笑んだ口元……。
俺は目が離せなくなる。彼女のすべてが、息が詰まりそうなくらい魅力的に映っている。
「……運命の人って?」
慎重に訊ねた。俺は酔っている。自覚している。慎重にならないといけない。
友餌は「あたしの――神様みたいな人」と答えた。神様みたいな人……?
「荻尾クン、」
「なに?」
「シャワー……浴びてきてもいい?」
「え――うん、いいよ。もちろん……」
彼女は照れたみたいに頷くと、俺を抱き締めていた腕を解いて立ち上がった。
浴室へ向かうその後ろ姿を見ながら、俺はまだ胸が高鳴っている。
いまの話は、どういうことだろう。俺への告白と受け取っていいのか?
『死のうと思ってたんだ』と、彼女は過去形で話した。なら既に出逢ったということだろう、運命の人に。この流れで、それが俺じゃないなんてことがあるだろうか?
彼女は酔っている……? 話し方は穏やかで、しかし強い意志……決意みたいなものが滲んでいたふうに感じられた。
問題は、酒に酔った俺の判断力の方が、正常か分からないという点だ。
彼女がシャワーを浴びに行ったのは、単にそれだけか。それとも――
「きゃあ!」と、友餌の叫び声が耳に入った。
彼女は洗面所にいて、浴室の戸を開けたところだ。
「どうしたんだ?」
訊ねても、俺の方へ振り向こうとしない。浴室の中に釘付けになっているようだが、俺がいるソファーからはその中を見ることができない。
俺も立ち上がった。ふらふらとして真っすぐ歩くことが難しい。本当に酔っている。それでも友餌のもとまで辿り着いて、浴室の中を覗き込む。
湯の張られていない浴槽に、血だらけとなった女の死体が入っていた。
あれからは〈ヘルメス〉で何度かやり取りしただけで、予定は合わずにいた。「また飲みましょう」は社交辞令だったのかもと思い始めていた六月十八日、誘いを受けての二度目の対面。待ち合わせは日付変わって深夜一時、場所は茜条斎の〈FURFUR〉だ。
今夜も他に客はおらず、韋吹がひとりで店番をしていた。彼によると、友餌は二週間に一度ほどやって来ては破滅的な酒の飲み方をしていく不思議な客だという。
「ぼくは三ヶ月前からのバイトなんで、そんなに会ってるわけじゃないんですよ」
「そうなんだ。彼女、きみには容赦ないから、付き合いが長いのかと思った」
「うちの店主が顔馴染みみたいで。ぼくには最初からあんな感じでしたね……」
カシューナッツをつまんで待っていると、友餌は一時を十分回ってから登場した。
「ごめんなさい、遅れちゃった! お詫びにワン・ショットおごります!」
「いいよ、全然気にしてない」
「ええ、荻尾サン優しい。今日も格好良いねえ。あたしはこれ、美容室でヘアセットしてもらって来たの。髪がふわっとしてるでしょ? ふわっと」
わざわざ美容室で? 俺がよく知らないだけで、別に普通のことなのだろうか。
そして彼女の方こそ今日も可愛い。デニムのベアトップは少し目のやり場に困るけれど。
「えへへ……潰し合いましょうね?」
椅子に掛けると、意地悪っぽい笑みを向けてきた。その右手の人差し指が、様々なボトルが並んでいる棚を指差す。
「とりあえず再会を祝してスパークリングワイン、開けちゃいましょうか」
韋吹がセレクトしたそれをグラスに注ぎ、俺達は乾杯した。上品な出だしだと思っていると、「韋吹クン、割り箸突っ込んで。負けた人が残りイッキね」との発言が飛び出す。
「その割り箸はどういう意味?」
「知らない? 炭酸を抜くんだよ。イッキできないし、酔いが回りやすくなるからね」
「へえ。もったいない気がするけど……」
「いーのいーの。長く楽しみたいでしょ?」
続いて彼女がコインを用意するよう指示すると、韋吹はげんなりとした。
「鉛さん、それ強いじゃないですかー」
「まあねん。ほら貸してみーや」
友餌はコインを真上へ投げて、左手の甲に落ちる瞬間に右手で覆った。
俺と韋吹はそれが表か裏か当てればいいようだ。外した方が負け、二人とも正解したら友餌が負け、二人とも外した場合にはもう一度とのこと。
「ごめん、これは分かった。コインは表だ」
右手で覆うタイミングが遅く、俺にはそれが見えていた。しかし韋吹の方は見逃したのか、裏と宣言した。友餌が右手を斜めにゆっくり上げると、答えは裏だった。ええ……?
「あははははっ! 騙されたあ!」
「荻尾さん、見えた方とは逆なんですよ」
割り箸を入れておいてくれて良かった……。
結局は三人とも泥酔した。午前三時ごろに帰ってきた店主に今日はもう閉店だと云われて、友餌は自分も出すと云ったが俺が全額支払って、二人で肩を組みながら店を出た。
「お別れするの嫌だあ。荻尾クン、もっと飲もうよお」
「いいよ、俺は全然。全然酔ってないからね、まだ」
エレベーターの扉が開き、転ばないよう壁に手を着いて中へ乗り込む。
「ホント? あのねえ、ミスロペスの新しい味が出てるんだあ」
「そうなの。なに味? どこなら飲めるんだろ」
「マルキで買ってさあ、二人で飲も? 荻尾クンのキャンピングカー、行きたいなあ」
「いいね。少し歩くけど大丈夫? 少し――十分くらいかな」
「大丈夫う。あれ荻尾クン、エレベーター動いてなくない?」
「んあ。一階押してなかった」
「あははははは!」
抱き着かれた俺はバランスを崩し、友餌もろともひっくり返った。友餌がまた笑うので俺も笑う。一階のスイッチを押すとエレベーターがガコガコと動き始め、そこで思い出す。
「あ、キャンピングカーは駄目だ。同居人がいるんだよ」
「そうなの? う~ん……あたしの家は遠いしなあ」
俺の上に乗った友餌は、視線を宙に投げて考える。唇の端を歪めて少し歯を見せているのは彼女がよく浮かべる笑みで、とてもさまになっている。
「じゃあホテル行こ? ホテル街すぐ其処だからあ」
「ああ、そうしようか。そのまま寝られるし、丁度いいかもね」
「やったあ」
一階に着いて扉が開いた。俺は友餌に肩を貸して立ち上がりつつ、アルコールのせいで正常な思考からは程遠くても、内心ではこの展開にちゃんと動揺している。
ホテル――いやしかし、辛うじて残っている理性が、妙な気を起こすなと云っている。友餌は俺を信頼してくれているのかも知れない。変なことをするはずがないと。
先のことを考えるんだ。関係を終わらすような馬鹿な間違いはするなよ……。
3
二十四時間営業のディスカウントストア〈マルキ・ド・サド〉でミスロペスのマンゴー味を箱買いし、どこか綺麗なところが良いと云いながら歩いていて目に留まった〈オケアの巣〉というホテルに這入った。八階建てのビルの六階、七階がそれで、フロントがある六階までエレベーターで上がる。
フロントには、タキシードを着た清潔そうな男が立っていた。ラブホというのは受付がパネル操作だったり、顔が見えないように仕切られているイメージだ。もしかして普通のビジネスホテルなのか? と思って料金表を見たが、休憩と宿泊で分かれている。
俺と腕を組んでいる友餌が「宿泊でえ」と云って、俺が料金を先払いし、部屋の鍵を受け取った。アクリル製のキーホルダーには六一〇という番号が刷り込まれている。同じ階だ。柔らかいライトに包まれた廊下を奥へと進む。
ドア横の壁に取り付けられたプレートの部屋番号が六〇一、六〇二、六〇三とカウントアップされていくのを眺めつつ、途中で左に折れて、再び左に折れて、その左手奥にある部屋が六一〇号室だった。開錠し、中へと這入る。
室内もいかがわしいムードはなく、綺麗なビジネスホテルという印象だ。俺はどこか安心する。友餌に腕を引かれて、倒れ込むようにソファーに腰掛けた。
「あは。来ちゃったねえ、ホテル」
「え? うん、そうだね。来ちゃったけど」
可笑しそうに笑いながら、友餌は横から身体を密着させてくる。色々と柔らかい感触が当たる。俺は頭がぼんやりしているが、自分の鼓動が早くなるのは分かった。
「お酒飲む? 買ってきたやつ」
ビニール袋から箱を取り出し、膝の上に置いて開ける。友餌はずっと俺の顔を見上げている。「持たせて」と云うので、小瓶の蓋を開けて、彼女の左手に握らせた。
「荻尾クンも。おいしーおいしーしよ?」
彼女流の乾杯らしい。俺も小瓶を持つ。「はーい、おいしーおいしー」と云いながら瓶と瓶を軽くぶつけ、それぞれ二十ミリを一気に飲み干す。頭の中がぐらりと揺れる。
「あ~、ホント美味しいねえ。ホント美味しい」
「俺――もう無理そうかも。今のでだいぶキたよ」
外の空気に当たっているうちは大丈夫な気持ちもあったが、そういえば俺は昨晩も飲んでいるのだった。これ以上は吐いてしまうかも知れない。既に吐き気がする。
「荻尾クン、一、二、三って云って」
「どうして?」
「いいから、云ってよお」
友餌が可愛く甘えてくるので、俺は云われたとおり「一、二、三」と数える。
「四、五、六」
「え、なに? 七、八、九?」
「そう! 十、十一、十二」
「十三、十四、じゅう――」
「あうとお。十三を云った方の負けなんだよ。荻尾クン、もう一杯」
「ちょっと、ええ? ルール説明がなかったじゃん」
「ふふふ。男らしいとこ見せてよお」
仕方なく箱からもう一瓶とる。真上を向いてグイッと強引に流し込むと、喉が焼けるほど熱くなって「くあーッ」と声を上げた。友餌が嬉しそうに笑うのが聞こえる。
「ねえ荻尾クン、これ――気付いてるでしょ?」
彼女は左手を俺の眼前に掲げた。手首に幾筋も走っている自傷の痕についてだろう。
「荻尾クン、リスカ痕がある女は嫌い?」
「いや――まったく気にならないな。むしろ好きだよ」
「むしろ好きい? あはは、なにそれえ。性癖なの?」
「違う違う。なんか、ちゃんと悩んでる人なんだなあと思って、なんかしてあげたくなる」
「へえ、なにかしてくれるんだ? なにしてくれるの?」
「なんだろ、なんでもいいけど。お酒飲む?」
「あははは! どうしよっかなあ……一、二、三」
「四、あー……いくつまで進めていいの?」
「三つまでだよ。ひとつか、二つか、三つ」
「じゃあ四だけ。四でストップ」
「あたしも――五だけ。五だけ」
「六、七、八」
「えーっとねえ……九?」
「十、十一、十二」
「うわあ最悪う~!」
俺が蓋を開けて差し出すと、友餌もひと息に飲み干した。ひと筋、口の端から垂れる。声は上げなかったが、代わりにぎゅう~……と俺に抱き着いた。俺も彼女の腰に腕を回した。
「……あたし、隔離病棟に入れられそうになったことがあるんだあ」
俺の肩に額を乗せたまま、彼女は呟くように云った。
「え、なんの病気で?」
「なんか、精神的なやつ。高校生のころね、自殺未遂を繰り返してたから」
「……つらいことがあったの?」
「色々ね。だけどみんな、なんのことか分からないみたいだった。親とか先生とか神父様とか、クラスの子達も、全員。あたしがどうして死のうとするのか、意味不明だってえ」
「虐待とか、イジメとか、そういう理由とは違ったんだ?」
「そう。鉛友餌の生活には、なにも問題がないはずだって。意味わかんなかったなあ、本当に。虐待とかイジメとか、そういう理由がないと、死のうとしちゃいけないわけ?」
「そんなことない。それは外野が、なんと云うか……分かりやすい理由を求めていただけだろ。外野が納得したいだけで、きみの苦しみとは関係ない」
「そう、そうなの」
友餌の両腕が、俺の首に回る。さらに強く抱き着ける体勢を探るみたいに。
「それを分かってくれる人が、いなかった。荻尾クンは優しいねえ」
「そうかな……」
もっと気の利いたことを云ってあげたいのに、酔いのせいで考えがまとまらない。
「結局、隔離病棟には入らずに済んだけどね。死ぬのもやめた。自分で解決したの」
「どうやったの」
「考えたんだよ。あたしはどうしたら、この世界で生きていけるのかーってこと」
「それは――すごいね。答えが出たんだ?」
「ふふ。高校は中退した。家も出て――あたしが夜の仕事だってことは話した?」
「いいや。そうかもとは思ってたけど。髪の色で」
「変かな? 緑色」
「良いと思うよ、すごく。きみに似合ってるし」
「ありがと。ふふふ……。この仕事はね、若いうちしか価値がないんだ。三十代になって続けてる人も沢山いるけど、あたしには無理。二十代後半でも駄目だね」
「二十代なら若いだろう」
「意味がないんだよ。あたしが死ぬのをやめた理由は、そうなったら意味がない。あのときに、自分で期限を決めてたんだ。それを越えたら、もうお終いだって期限」
「いつまで? その期限は」
「二十二歳の誕生日。今年中に運命の人と出逢わなかったら、死のうと思ってたんだよ」
友餌は顔を上げた。赤色のアイシャドウに強調された両目が、俺を見つめる。瞼には涙が溜まっていて、照明を反射している。赤らんだ頬。寂しそうに微笑んだ口元……。
俺は目が離せなくなる。彼女のすべてが、息が詰まりそうなくらい魅力的に映っている。
「……運命の人って?」
慎重に訊ねた。俺は酔っている。自覚している。慎重にならないといけない。
友餌は「あたしの――神様みたいな人」と答えた。神様みたいな人……?
「荻尾クン、」
「なに?」
「シャワー……浴びてきてもいい?」
「え――うん、いいよ。もちろん……」
彼女は照れたみたいに頷くと、俺を抱き締めていた腕を解いて立ち上がった。
浴室へ向かうその後ろ姿を見ながら、俺はまだ胸が高鳴っている。
いまの話は、どういうことだろう。俺への告白と受け取っていいのか?
『死のうと思ってたんだ』と、彼女は過去形で話した。なら既に出逢ったということだろう、運命の人に。この流れで、それが俺じゃないなんてことがあるだろうか?
彼女は酔っている……? 話し方は穏やかで、しかし強い意志……決意みたいなものが滲んでいたふうに感じられた。
問題は、酒に酔った俺の判断力の方が、正常か分からないという点だ。
彼女がシャワーを浴びに行ったのは、単にそれだけか。それとも――
「きゃあ!」と、友餌の叫び声が耳に入った。
彼女は洗面所にいて、浴室の戸を開けたところだ。
「どうしたんだ?」
訊ねても、俺の方へ振り向こうとしない。浴室の中に釘付けになっているようだが、俺がいるソファーからはその中を見ることができない。
俺も立ち上がった。ふらふらとして真っすぐ歩くことが難しい。本当に酔っている。それでも友餌のもとまで辿り着いて、浴室の中を覗き込む。
湯の張られていない浴槽に、血だらけとなった女の死体が入っていた。
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