探偵・渦目摩訶子は明鏡止水

凛野冥

文字の大きさ
上 下
30 / 48
【鏡の章:バラバラにされた海獣】

9(3)「渦目摩訶子による再解決編/下」

しおりを挟む
「事はかしこの想定どおりには進みませんでした。まず、瑞羽が自分の無実を訴えた――それ自体は当然の展開ですけれど、かしこにとって意外だったのは林基たちがそれに対し聞く耳を持ったことです。事件の結末や私による〈解決編〉はきっとかしこが組んだシナリオ以上の出来栄えだったでしょう。ならばいくら本人が否定しようとも、もはや〈真相〉は決して揺るがないはずだと彼女は考えていたのです。しかしそうはならず、さらには私を館へと呼び戻す羽目にまでなってしまった。

 そして条拝由木胎駅で迎えた私もまた、瑞羽犯人説を疑問視し、事件がまだ終わっていないという考えに変わっていました。夕希が取った――これもかしこにとっては予期し得なかった――悪戯心がゆえの行動により、彩華と夕希の〈入れ替わりトリック〉を疑っていたためです」

 此処に来るまでの道中でルームミラー越しに見た、かしこの思い詰めた表情を思い出す。〈犯人が瑞羽ではない疑いが強くなっている〉と聞かされた彼女は、きっと誰よりも動揺していたのだ。シナリオが、歯車が、どんどん狂い出していることに……。

「もっともこの推理は館に着いてすぐに間違いと知れたわけですけれど、ここで登場したのが『渦目摩訶子は明鏡止水』の原稿ですね。無論、かしこは私達のやり取りを盗聴していた。するとここでも彼女の予想に反して、作者が茶花であるとは私も夕希もまったく考えていないふうであり、では作者は誰なのだろうという流れになってしまいました。

 続いて私は盗聴器を疑い、それを次々と発見していきます。盗聴器を早めに回収し処分しておかなかったのもかしこの大きな失敗でした。ここまで至れば、彼女はもはや諦めざるを得ません。実際には『渦目摩訶子は明鏡止水』の作者がすぐさま真犯人と等号で結ばれるのではないものの、疑惑を持たれてしまえば、彼女にはもう逃れる自信がなかったのでしょう。事実、私は彼女を追求しないわけにはいきませんでした。彼女にはそれだけで耐えられなかったのだと思われます」

 ――ごめんなさい、お父様。ごめんなさい、お母様。ごめんなさい、摩訶子。

 ――弱い私には耐えられませんでした。馬鹿な私には耐えられませんでした。

「斯くして彼女は遺書を残し、服毒自殺を遂げたのです」

 摩訶子は一瞬だけ遠い目をして、天井を見上げた。

 この刹那、明鏡止水の探偵はその先に何を見て、何を想ったのだろう。

 それから彼女は、注意していなければ分からないほどわずかに声量を絞って、「しかしながら、」と続けた。あくまで彼女にしてはだが、訥々とつとつとした喋り方で話が始まった。

「私はもしかしてとも思うのです。この結末まで含めて、彼女のシナリオだったのではないかと、そう思うのです。

 であるならば彼女が三酸化二砒素を用意していたことに説明がつきます。

 原稿の郵送を急いだのは、あえてほとぼりが冷めないようにした――事件を続けさせたかったからであると考えることができます。

 証拠品である盗聴器類を残しておいたのも、わざとだったのではないでしょうか。

 彼女ははじめから自殺するつもりであり、この本物の真相へと私に辿り着かせるつもりだったのではないでしょうか。

 遺書にはこうありました――『自分の人生がなかった私です。せめて摩訶子は、立派な探偵になってね』。

 彼女は自分の人生とその死に、確かな意味を持たせたかった。娘にそれを託したかった。ゆえにこのような事件を起こしたのです。娘がそれを解決し、探偵として活躍する未来へと繋がるような事件を、己が命を以てして。

 ならばきっと『渦目摩訶子は明鏡止水』は、この結末まで書かれてやっと完成なのでしょうね。茶花くんに残りの半分を書いてもらうべく、彼女はその前半部を遺したのではないでしょうか」

 また少しだけ間があいた。何かを迷っているのではないかと俺は直感した。

 だが次には既に、そんな気配は消えていた。

 摩訶子はいつしか再び正面を堂々と見据えていて、そして。

「しかし本心を云わせてもらうなら、私はそれを書いてほしいとは思いません。茶花くんもきっと同じ気持ちのはずです。母上が取った方法は云うまでもなく大きな間違いでした。その遺志に沿うことは道義的に云々という以前に、私の本意とまったく異なります。

 私は常に〈立派な探偵〉であろうとしています。母上が願ったような活躍も、たしかに目指す先にあります。しかし私は私自身に恥じることのない方法でそれを成し遂げたいです。そうでなければ私は――私が――私の人生に意味を見出せないでしょう。

 母上の想いだけは、決して無駄にいたしません。最後に過ちを犯してしまった母上ですが、きっと私のこの気持ちを理解してくれるのではないかと思います。そう信じます」

 再〈解決編〉は締め括られた。

 今度も俺はどこか放心のていで、しばらくはどんな反応も示せそうになかった。

 幾人もの人間の生と死、それにまつわる真相。話を聞いただけでは受け止めきれるはずもないその重みが、時間が止まったかの如き沈黙を食堂に降ろす。

 だがやがてはそれも、破られる。「じょっ……じょ、じょっ……」と、稟音の震える声が小さく響き始めると、一気に爆発した。

「冗談じゃないわ! じゃあ何、何、何かしら――わたくし達は巻き込まれただけじゃありませんか! 貴女たち母娘のふざけた――ふざけた茶番に巻き込まれて、こんなに大勢が死んだのですか? 信じら、信じ、信じられないッ――まるで糞ったれよこんなの!」

 摩訶子は頭を下げている。改めて謝罪の言葉を述べているようだけれど、稟音の凄まじい奇声に打ち消されてしまって聞こえない。稟音はここ一番のヒステリーだ。身を乗り出して狂った獣のように目を剥いて大量の唾を飛ばしながら吠え立てる。

「どう責任を取ってくれるのですかッ! 山野部の人間が五人も死んでいるのにくっ、く、くだらない使用人がひとり自殺したくらいで釣り合いが! 釣り合いが取れるわけないでしょうッ! ふざけてますふざけています、こんなことあっていいわけがないッ! 畜生の豚ですわ! 許せないこんな屈辱、ああ、ああ、ああ、ワラジムシを噛み潰した最低の気分ッ! 最低最低です、なんて憎い、殺したいのはこちらの方! ひッ、引きずり出した貴女の腸で世界中の餓鬼がき共に縄跳びを遊ばせたって全然――全然足りませんッ! 許せないイイ――イあッ、アアアアアアアアアアアアアア!」

 暴れる彼女を林基が抱きかかえるようにして宥める。彼女はそれでもまだ嗚咽おえつ混じりに喚き散らす。

「兄様っ、兄様っ、わたくしあの娘を殺したい! 許せません、許せません、脳味噌が飛び散りそうですわっ! 採れたてのトマトみたくブチャアって飛び散りそう!」

「まあまあ、稟音さん、」と秋文も加わった。「良かったではありませんか。私達は被害者。殺人犯の汚名を山野部家は受けずに済んだのです。圭太さんについては微妙なところですがね」

「しかしっ! ああ腹立たしい、腹立たしいことこの上ない――」

「時間は戻りません。最後の審判へと向かい、直進し続けるのみです。私達を悩ませていた問題の多くが解消されたという点に目を向けましょうよ」

 何なんだこいつら。

 勝手なことばかり抜かして、このに及んでまだ自分の都合しか考えられないのか。

 人間性が、破綻しきっている。開いた口が、塞がらない。

「待ってくださいよ」俺は立ち上がっていた。「貴方たちにも非があるはずだ。何とも思わないんですか、それを」

 俺は秋文を見ている。彼はかしこを、どうやら強引に、孕ませたと云うじゃないか。他の連中もそのことを知っていた。そんな環境でかしこは働き続けていたのだ。こんな連中に尽くさなければならなかった彼女の二十年間――『自分の人生がなかった私です』――それがどんなに苦痛なものだったか、想像も付かない。

 たしかにかしこは罪を犯した。だがそのことで摩訶子がこいつらに頭を下げなければならず、そしてこいつらの方はまったく自らを省みないなんて、こんなの絶対におかしい。

「そうかも知れないね……」やや意外だが、史哲はそれを認めた。「かしこはずっと悩んでいるようだった。森蔵さんも、かやねさんのときとは違って、彼女には冷たかったと思う」

「なら辞めれば良かったのですわ! わたくし達が一度でも、いてくれと頼んだかしら! だらだら居座り続けたのはあの女の方なのに――これって逆恨みと云うんじゃなくて!」

「もう云うな、稟音」

 さすがにいさめる林基。だが続きがある。

「すべては済んだことだ。この世の一切は等価なのだと思い出しなさい。〈赦す〉も〈赦さない〉もない」――老人の濁った双眸が俺へ向く――「また同様に〈赦される〉も〈赦されない〉もないのだ」

 詭弁きべんだ。単なる思考放棄だ。そんな虚無主義の哲学は……。

「私の立場は少し異なりますがね、」とは秋文。「確かなのは、神はどんな罪もお赦しになるということです。この言葉を稟音さんへ送ると共に……茶花さんにもひとつ、教えて差し上げましょう」

 偽善者の神父が、ようやく俺と目を合わせた。白々しい憐れみを湛えて。

「貴方は実に若者にありがちな潔癖で以て、私達に反感を抱いているように見受けられます。ですが考えてごらんなさい。その人のひとつの過ちが、ひとつの欠点が、果たして他のすべてまでも否定するのでしょうか。常に正しくあれる人間はなかなかいません。私はね、いまでも毎日、懺悔しているのですよ。かしこさんもそれを分かっていたから、私を殺しはしなかったのかも知れませんね」

 彼はこちらに背中を向けるとひとり、奥の祭壇へと歩いて行った。十字架の下で足を止め、両手を組む。俺はもう彼の全部が馬鹿馬鹿しくて、何を云ってやる気勢も削がれた。

 稟音はなおも恨み言を訴えている。林基はそれを落ち着き払って宥めている。史哲はぼーっとテーブルを眺めている。秋文は神に祈る振りをして単に自らを慰めている。

 隣の夕希が「腐ってますね」と呟いた。天井を見上げて、興醒めしたような表情だった。

「ああ、そうだな……」もはやこの家は、救いようがない。

 摩訶子へ目を向ければ、彼女も俺の方を見ていた。口元の微笑みは、自分は大丈夫だから気にするなと、俺に伝えている様子であった。
しおりを挟む

処理中です...