探偵・渦目摩訶子は明鏡止水

凛野冥

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【鏡の章:バラバラにされた海獣】

9(2)「渦目摩訶子による再解決編/中」

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「さて、これだけであれば、かしこは自分が犯人だと暴かれないように、瑞羽に容疑が向くよう私さえも利用して犯罪計画を立てたのだとも考えられます。推理小説で云うところの、探偵の手の内を読む犯人――いわゆる〈操り〉のトリックですね。

 しかしそうではありません。かしこは本当に掛け値なく、私に解決させるための、私を活躍させるための事件を〈提供〉するつもりでシナリオを練り、犯行に及んだのです。『渦目摩訶子は明鏡止水』の原稿がその証拠です。

 かしこの目的が〈操り〉だったなら、こんなものを書く必要はまったくありません。これがなければ私は盗聴器を疑うこともなく、いくら本人が否定しようとも瑞羽犯人説を撤回する気は起きなかったでしょう。にも拘わらず、かしこはこれを書いた。此度の犯罪における第一義的な目的がここにあったため、是非とも書かなければならなかった。

 これこそかしこの理想としては、茶花くんに書いてもらいたかったはずです。彼が推理作家を志望しているのは皆さんも知るところですね。山野部森蔵の曾孫が、森蔵が亡くなったこの時機に森蔵と同じ形式のノンフィクション推理小説――しかも森蔵の葬儀のために一族が集った〈つがいの館〉が舞台のそれを書いたとなれば、注目度の高さは保証されています。当然、そこで〈探偵役〉を務めた私の知名度も一挙に上がる。山野部茶花は山野部森蔵の、渦目摩訶子は覇唐眞一郎の、さながら後継者のようではありませんか。茶花くんはともかくとして、私の場合は無名の新人から数段飛びで第一線に仲間入りです。

 かしこは私にそうなってほしかった。

 ですが茶花に〈あみだくじの殺人〉を小説化しようとする意思は見られませんでした。仕方ないので彼女自ら、まるで茶花が書いたかのように装ってそれを執筆したのです。盗聴器を仕掛けていたことからも無論、彼女はそうなるだろうことを見越していたわけですね。

 執筆には書斎にあるワードプロセッサーを借りたのだと思われます。会話についてはおおむねそのまま書き起こし、その語調や聞こえてくる方向、他の物音などから行動・仕草・表情といったものを想像で補い描写したのでしょう。あくまでも小説ですから――私が読みました限り――実際との細かな違いはそれほど不自然ではありませんでした。むしろ現実をありのままに書いた方が、小説としては不出来なものとなりそうです」

 俺はまだ、原稿の半分までも読めていない。だがそこに書き表されている俺の心理は、俺自身でさえまったく違和感を覚えなかった。かしこの観察眼が優れているのか、それとも俺が単純な人間なのか……夕希曰く、彩華に対する俺の複雑な心境までも見透かされていたと云うけれど、どうだろう、それはかしこのみならず他の皆からしても自明なのだろうか? であれば、彩華にもまた、俺の心境は気取られていたのだろうか?

 もしもそうなら、きっと彩華は深く傷ついたに違いない。彼女が失踪したのはやはり、俺のせいなのか……またしても忸怩じくじたる思いが頭をもたげる。

「ところで問題は、その小説『渦目摩訶子は明鏡止水』をどうするかということでした。漠然とながらかしこが描いていたビジョンは、やはり出版でしょう。しかしながら、自分が書いたということを知られるわけにはいきません。それは盗聴器を仕掛けていたこと、ひいては自分が犯人であることの発覚に繋がるからです。先程述べました理由――かしこの理想からも、これは是非とも茶花が書いたということにしなければならない。

 では原稿を、差出人を不明にして、あるいは茶花が差出人というふうに偽装して、出版社に送ってみてはどうでしょうか? 駄目です。どうせ山野部家は事件の詳細が世間に漏れないようにしますから、こんな原稿は相手にされない可能性が高いうえに、茶花へ確認の連絡がいけば彼はそれを否定してしまいます。

 どうしても茶花本人に、一種の告発という意味も籠めて出版させる必要がありますね。しかしたとえば原稿をこっそりと彼に渡したとして、彼がそれを自分が書いたのだと云って出版しようとしてくれるでしょうか? いささか考えにくいです。ならば誰か他の人物に渡すこととなります――その人物は、原稿の内容を冗談でなく本気と受け取り、かつ茶花にこれを出版しようと促すような性格の持ち主が望まれる。

 そこで選ばれたのが、其処にいる紅代ちゃん――薊夕希だったのですよ。以降、呼び方は夕希に統一させてもらいましょう。

 かしこと夕希とは今日が初対面だったようですけれど、私の助手をしている夕希は私の祖父・麻由斗ともよく打ち解けており、かしこは麻由斗と不定期的にですが連絡を取っています。つまりかしこは夕希のことを麻由斗から聞いて知っていたのです。

 さらに――夕希ちゃん、君は茶花くんと交流があることを麻由斗には話していたんじゃないかい?」

 そう問い掛けられて、俺の隣の席に座している夕希はしかし、首を横に振った。

「話してませんよぉ。今回こうして何人かにバレてはしまいましたけど、ボクと茶花先輩とは秘密の関係なんです。いくら麻由斗さんが相手だからってボクから喋ることはあり得ませんねぇ絶対に」

 摩訶子は少しの間だけ沈黙した後、「そうですか」と頷く。それならそれで推理を修正できたらしい。

「ではかしこが想定したケースとは、夕希が原稿についてまず私に教え、次に私から茶花へ話がいくというものですね。茶花は自分が書いたのではないと主張するでしょうが――かしこの見立てでは――それでも私は茶花が作者で何か心情的な理由からそれを認めたくないのだろうと、そう考えるはずでした。なぜなら盗聴器を疑わない限り、作者は茶花か私のどちらかでしかあり得ないためです。ここにかしこの誤算があったわけですけれど、その話は少し措いておきましょう。

 かしこの想定について続けます。茶花が自分が書いたと認めずとも、『渦目摩訶子は明鏡止水』は一作の推理短編として現に出来上がっているのですから、出版してはどうかという流れになる。必要ならば茶花が手を加えてもよいですし、あるいは全編書き直されても構わない。いまや山野部家に対し反感を抱いている彼なので、そう勧められれば善処してくれる見込みは高い。私にとっても名前を広げる好機――その原稿の中にもありますが、今回の事件を茶花が小説化するならば『構わない』と私は発言しています。そして私の助手たる夕希も、麻由斗から聞き及んでいる性格から、それを後押しするだろうと思われる――と、こんなところでしょうね。

 また、かしこが原稿を私ではなく夕希に渡すことには様々な効果が期待できます。

 大きなそれとしましては、まず今回の事件に無関係であった外部の人間からの視点および意見が入ります。夕希に事が露見したなら事件の機密性が幾分か薄れるため、そのぶんだけ『渦目摩訶子は明鏡止水』の発表が心理的に簡単となるわけです。

 それからやはり、茶花が書いた憶えはないと云いつつ私に原稿を渡したという格好になれば相当に不自然ですので、かしこは夕希というワンクッションを挟むことによって、いっそ不自然をさらなる不自然で上塗りして誤魔化そう、有耶無耶うやむやにしてしまおうと発想したのではないでしょうか。かしこにとって原稿をはじめから私に渡すのでは露骨が過ぎ、事件の本当の真相に気付かれては大変だという危惧もあったと想像されます……」

 摩訶子はここでまた少し黙った。かしこの自殺はついさっき発覚したばかりなのだ。ほとんど推理を組み立てるのと同時進行で話しているのだろう……つくづく驚異的な奴である。

 一昨昨日の〈解決編〉でもそうだったけれど、俺は摩訶子が語る真相にひたすら衝撃を受ける一方で、彼女のそんな姿そのものに圧倒され、何か云いようのない感動みたいなものを覚えてしまう。

 その歳にして一体どれほどの研鑽けんさんを積み、己が感覚を研ぎ澄ませてきたのだろうか……。

「申し訳ありません。話がやや混線しますが、」と云って摩訶子は再開した。

「かしこはやはり茶花と夕希の繋がりを知っていたと考えるべきですね。その場合も今お話しした効果や彼女の想定に大きな違いはありません。ただし、よりにかなったかたちとなります。――夕希ちゃん、自分が私立ツグミ高等学校に通っていることなら麻由斗に話したかい?」

「話してませんよぉ。ボクが摩訶子探偵には話してなくて麻由斗さんには話してることって、摩訶子探偵が想像してるほどないと思います」

「しかし君は普段、生徒手帳や学生証、他の身分証明書などを携帯しているだろう?」

「そうですね。通学もプライベートも同じリュックと財布ですし」

「ならば麻由斗はそのいずれかを目にする機会があったか、あるいはかしこに頼まれて盗み見ていたのだ。夜が明けたら彼に電話で確認してみよう。――次はこの館で普段から生活している方々に訊きたいのですが、かしこはここ二ヵ月程度の間に外出を一日中していたことがありましたでしょうか?」

 これには林基が「あったよ」と答えた。「ひと月ほど前だったな。そろそろ実家に一度顔を見せて、お前さんにも会いたいと云うから、二日間だか暇を出したのだ」

「ありがとう御座います。おかげで合点がてんがいきました。母上はもう半年以上、家には帰ってきていません。その休暇を利用して彼女は盗聴器などを揃えたり、夕希について調べたりしていたのでしょう。森蔵の体調が良くないことを使用人である彼女は当然ながら知っていました。近いうちに彼の葬儀で一族が館に集まるだろうと考えた彼女は、そのころから犯罪計画の準備を進めていたというわけです」

 再び間がおかれたが、今度はほんの数秒だった。彼女の脳内で目まぐるしく回転しているだろう思考の渦を思うと身が強張る。

「かしこが夕希について麻由斗からどれほど聞いていたかは定かでありませんけれど、最低でも通っている高校は知っていたに違いありません。それならば彼女は高校に出向いて夕希を調べられましたし、其処で夕希と茶花とが二人でいるのを目にしていても不思議はない。家の住所は尾行によって掴めますから、原稿の郵送も可能だったと分かります。

 ところで夕希の家に届けられた茶封筒の消印は、私が此処で瑞羽を犯人とする推理を披露した日の十八から二十四時です。条拝由木胎の郵便局は遅くまで営業していますので、かしこが其処に郵便物を持ち込んだのは私を駅へと送り届けた後、二十一時頃のことだったでしょう。また、それ以前の夕方には茶花が同じくかしこによって駅まで送られていました。そこで彼はすぐには帰らず、どこかで『渦目摩訶子は明鏡止水』を執筆し、差出人を伏せて夕希へと郵送したのだ――と、そう私達に解釈させることも可能になっているのです。茶花はこれを自分が書いたのではないと主張することになりますので、そのためにわざわざ条拝由木胎から郵送したのだろう――と、そう納得させる仕組みですね。

 実際のかしこは〈解決編〉以前から書けるところまで執筆を進めておいて、その後も時間の合間を縫いながら完成まで漕ぎつけたのだと思われます。どうして彼女がこうも郵送を急いだのかと云えば、茶花が向こうへ帰った日のうちにそうしなければ郵送主が彼でないことを明らかにしてしまうからでしょう。かしこには当分、香逗町まで行くような余裕はありそうになく、薊家への郵送は条拝由木胎からとなる。もっともこのような無理をせずにほとぼりが冷めるまで待ってから行動した方が賢明だったわけですけれど……そうですね、これは彼女が犯したミスのひとつでした。人を四人も殺めて間もなかった彼女には冷静な判断が難しかったのではないでしょうか。

 先刻も少し触れましたが、かしこにはいくつかのミスと誤算があった。それらが彼女を破滅へと――自殺へと――そして皮肉なことに、娘によって自分の犯罪を暴かれるというこの結末へと、導いたのです」

 摩訶子は一旦、テーブルの上に置かれたコップの水を飲んだ。

 この再〈解決編〉もいよいよ大詰めなのだと俺は感じ取った。
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