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後編

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 そして迎えた『聖星祭』当日――。

 オレンジを基調とした胸元のざっくり開いたドレスを身に纏ったあたしは、勝負の場へ臨んでいた。

 あたしのすぐ隣を歩いているのはパディ。他の魅了した男たちはイライザ王太女の傍に立ち、まもなく裏切ろうとしている主人を守るようなふりをして立っていた。

 そしてあたしを睨みつけるのは長い黒髪の美貌の少女――イライザ王太女だ。その真紅の瞳には怒りの炎が揺らめいていて、視線だけで人を殺せそうだなと他人事のようにあたしは思う。
 そして、

「――ローゼイン」

 ローゼインは、氷の視線であたしを射抜いていた。
 背筋がゾクゾクとする。一体彼は何を考えているのだろう。『愛してる』と囁いても微塵も動かないその心の裏が知りたくてたまらない。
 きっと彼とて無策ではないはずだ。あたしたちがこの場で婚約破棄をすることも見抜かれているのではと思って、少々不安になるが、しかしあたしたちは挑むしかないのだ。

 『聖星祭』は学園生だけではなく聖王も教皇も、高貴な身分の人間は全て出席する国の祝賀祭だ。
 貴族たちの視線があたしの方に突き刺さる。上爵令息の心を奪い、本来エスコートされるべき王太女を差し置いて彼のエスコートを受けている。そんなあたしがいい目で見られるはずがなかった。

 ――でも構わない。どうせ今からあたしは国家反逆罪を犯すんだから。

「パディ様、言っちゃってくださぁい」

「――うん」

 あたしの一言でパディが覚悟を決めたような顔になる。
 そして彼はあたしを引き連れてイライザ王太女の前までずかずかと歩いて行き、叫んだ。

「イライザ王太女殿下! 僕はもう我慢ならない。ただ今をもって、君との婚約を破棄する!」

 直後、会場に激震が走ったのは言うまでもないことだ。
 ざわざわと人混みが揺れ、あたしを指差し嗤っていた人々がパディの言葉に絶句する。
 しかしイライザ王太女は少しも怯む様子がなく言葉を返した。

「とうとう言ってしまいましたの、パディ。この婚約は父とあなたの父上が交わした契約。それを簡単に反故にできるとでもお思いなんですの? そのルイーズとかいう少女にお熱なのは知っておりましたが、さすがにその娘と添い遂げるというのは無理な話ですの」

 王太女の言葉は至って正論。しかしパディはそれに負けじと声を荒げる。

「あろうことか君がルイーズを虐げ、苦しめていたそうじゃないか。彼女がどれほど辛かったのか、君はわかっているのか!?」

「――冤罪で王族を糾弾したとあらば、タダでは済みませんの。よもや、その娘の言葉をそのまま信じたんですの?」

「いいや、僕らには証拠がある。証拠を持って来てくれ!」

「「「はっ」」」

 パディの呼びかけに応じる三人の王太女側近候補たち。
 これにますます他の参列者は驚きに声が出なくなったことだろう。本来王太女を味方しなければならない側近たちが婚約破棄を告げて来た元婚約者に味方してどうするのだ、と。
 しかしそんな当たり前のことが彼らの頭では理解できない。あたしの甘い蜜によってでろんでろんに溶かされた彼らは、もはや思考するという能力を奪われた可哀想な人形に等しい。

 ローゼイン以外の側近候補三人が、証拠――もちろんあたしが捏造したそれを持って来た。
 そして次々と、イライザ王太女があたしへ暴力を振るったという記録を読み上げていく。その度に王太女の視線が鋭くなり、まるで刃のようにあたしへ突きつけられた。

 ――でも怯んではあげない。勝つのはあたしなんだから。

 圧倒的証拠の差。これが結局は勝負を決める。
 こんな公衆の面前で、それも『聖星祭』というこの国では大切にされるお祭りの日に婚約破棄したのは汚点になるが、それにしたって王太女の方が不利だ。あたしはさらにこちらの正当化をするため演技を加えることにした。

「ああ……あたし、もう、痛くて痛くてっ。王太女殿下から鞭で打たれた時は、死ぬかと、思いましたぁ……」

 そしてあたしはわざとらしく背中を見せびらかす。
 そこにはアザに見えるようにペイントが施されている。これを目の当たりにした多くの人間が、それまで疑っていたイライザ王太女の犯行を信じてしまったことだろう。

「それから、学園の掃除小屋に押し込められて、何度も何度もっ……。苦かった。そこを救っていただいたのが側近候補の皆さんなんです」

 一気に同情の視線を集めたあたしは、さらに王太女を追い込むべく言葉を続ける。

「友人のパディ様にも手伝ってもらって、ようやく……。王太女殿下、罪を認めてください。謝罪してくれるだけでいいですからぁ」

「……ルイーズは優しいね。しかしこの問題、謝罪一つでは済まされることではない。まさかイライザがこんな酷いことをする人間だったとは……僕は失望したよ」

「殿下、謝罪を」
「殿下はあんまりです」
「聖王様に恥がかかるような行為をとった責任をお取りください」

 男たちに詰め寄られ、イライザ王太女はほんの少し戸惑いを見せる。
 彼女はローゼインへ視線を送ったが、ローゼインは曖昧な笑みを浮かべるばかりだった。ますます慌てふためきつつそれを器用に隠し、王太女が叫んだ。

「これは冤罪ですの! あなた方の調査だけではいくらでも偽証を作れます。信用なりませんの」

 しかしローゼインが放置を選んだ以上、もはや彼女に味方はいない。
 さあイライザ王太女。大人しく堪忍を……。


「じゃあ、イライザ殿下の断罪も終わったことだしこれからそこの下爵令嬢の断罪を始めてもいいか?」


 この一言により、再び参列者たちがざわめいた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「あ、あたしの断罪って……何のことですかぁ、ローゼイン様ぁ?」

 あたしは余裕ぶりながらピンクブロンドを揺らし、可愛らしく見えるようにして首を傾げる。
 しかし内心では冷や汗が噴き出していた。先ほど彼が動かないからと少しでも油断したのがいけなかった。彼はきっとこの機会を虎視眈々と狙っていたのだ。

「まずお前への第一の罪はイライザ殿下への不敬と侮辱。第二の罪は偽証。第三の罪は聖マリエット学園への不正入学。そして……」

 ローゼインは整った顔を歪め、少し悪戯っぽく笑った。

「禁術である魅了の魔法を使用したこと、だ」

 ――。
 ――――。
 ――――――――え?

 彼があたしの目の前に立って、そんなことを言い放つ。
 その言葉があまりに信じられないものだったから、あたしはたっぷり十秒以上声を失ってしまった。

「み、魅了の、魔法……? こ、心当たりが、ありません、ですぅ」

 どうして。どうしてそんなことが。
 魅了の魔法は帝国の皇帝の血筋だけに伝わる秘術。ごく稀に現れるその特異体質者を見つけ出し抹殺するのが皇帝の役割の一つである。
 しかし今代の皇帝はそれを利用しようと考えた。確かにどんな男の心でも手玉に取れる人物など使わない手はない。

 そうしてできたのが、『泥棒猫』のあたし。
 でもそんなこと、この男――ローゼインが知るはずがないのに。

 胸の鼓動がこれ以上なく早まっていく。

「魅了とは何ですの、ローゼイン」

「イライザ殿下、それは順を追って説明します。……まず第一の罪について。先ほどの不敬極まりない言い分はたとえ被害者でも許されることではない。こんな場『聖星祭こんなこと婚約破棄と断罪をするなどおと、気が触れているも同然だろう」

「――なっ!?」

 パディが声を上げたので、あたしはうるさいと言って突き飛ばしたくなって寸前でやめた。
 そんな当たり前のことはどうでもいい。問題は、問題は……。

「偽証の罪についてだが、まあこれは『闇の聖騎士団』に聞いた方が早いだろう」

 ローゼインに呼ばれて現れたのは、甲冑を纏った騎士たち。聖騎士団に他ならないが、『闇の』と言うだけあって、普段は忍び、王族などの行動を把握しているという。
 ――知らなかった。この王国には影がいないからと油断していたが、まさかこんな組織がいるだなんて。
 彼らは次々に王太女の身の潔白を証言していく。そしてあたしが彼女の罪を捏造していたことさえも。

「そして第三の罪。聖マリエット学園の不正入学が認められた。これは書類などを確認すれば容易いことだ」

 ――そうだ。そうだった。校長を魅了して簡単に入学させてもらったんだっけ。でもまさかそれが暴かれるとは思ってもいなくて。

 そして最後、トドメがやって来る。

「しかし今までの罪は些細なことに過ぎない。ルイーズ・デーオン下爵令嬢の最後にして最大の重罪、それは帝国に伝わる禁術、魅了魔法の行使だ」

「違っ。あたしはそんな魔法、使ってない!」

「裏は取れている。お前が帝国の人間兵器――『泥棒猫』であることもな」

 あたしはその時、確信した。
 ……ああ、何もかも全部知られていたんだ、と。
 膝から崩れ落ちるあたし。これ以上抵抗しても何もかもが無駄だ。あたしは失敗した。失敗してしまった。

 この男を野放しにしてはいけなかったのだ。早く、早くこの男を抹殺していれば。
 どうしてあたしはローゼインを殺しておかなかったんだろう。その答えはすぐにわかった。彼を誘惑するのが楽しくなってしまっていたからだ。……否、それも正しくない。

 恋は盲目だ。恋という禁忌を犯してしまったあたしには正しい選択が選べなかった。ただそれだけの話である。

「……わかってたのなら、なんで今まで」

 知らないふりをしていたのか。
 もしももっと前に言われていれば、あたし一人の被害で済んだ。しかしこんな場所で公にされた以上、帝国と聖王国の戦争に発展するのは目に見えている。

 ――ははは、あたしってば聖王国の心配しちゃってるわけ? どこまでイカれてるんだろう、あたしは。

「バレてしまった以上は仕方ないわねぇ。そうよ、あたしは魅了の『泥棒猫』。男を魅了して婚約破棄させて国を引っ掻き回す最低の女よ。どう? パディ、ネルソン、ビッフェー、オーガス。失望した? 絶望した? たった今魅了の魔法は解いたわ。せいぜい後悔しながら生きるのね。ふふ、ふは、ふははははは」

 魅了の魔法を解除した途端、それまであたしへ心配そうな目を向けていたパディたちの目から、ふっと熱が消える。
 その様が面白くてあたしは笑い転げた。

「殺すなら、殺しなさいよ。でも残念だったわね。あたしを殺したら皇帝が許さないわよ?」

「……る、いーず」

 正気を取り戻したらしいパディが何か言っているが、あたしの知ったことじゃない。
 あたしはもはやヤケクソになって叫び続けた。

「任務は失敗! 『泥棒猫』は殺されてハッピーエンド!!! ローゼイン、とっととあたしを殺しなよ。王太女を守るんでしょ? じゃあ邪魔者は排除しなきゃ。ふふ。それとも皇帝が怖くて怯んじゃった? 大丈夫。皇帝はできるだけ争いをしたくないからすぐに終わらせてくれるって。聖王国も帝国の属国になれてめでたしめでたしじゃない? やったね!」

「……」

「さあ早くってば。それとも何? あたしに逃げさせてくれるわけ? ははっ、そんなわけないよねぇ。じゃあ牢屋にでも放り込むのかな? さあて、あたしは拷問に何日耐えられるでしょうか? うーん、三日かな? 三日だねきっと。でも口は割らないよ? それが『泥棒猫』の矜持ってもんよ。ねえ、どうするの?」

 さて、ローゼインはどんな行動に出るか。
 あたしを捕まえる? 『闇の聖騎士団』とやらに命じて殺す? 色々と想像を巡らせたが、次の瞬間に彼が撮った行動はあたしが考えてもみなかったことだった。

「――お前を殺すつもりはない。ただしお前には、俺の言うことを聞いてもらうつもりだがな」

 そう言って太い両腕で全身を抱かれた。
 理解の追いつかないあたしに彼は意地悪な笑みを浮かべて、

「俺はお前のことが気に入った。お前の本当の名前を教えてくれたら許してやろう」

 そんな信じられないことを言い放ったのである。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「ふざけてんの!? この期に及んでどういうつもりよ! 許す!? なんでこんな奴を許せるわけ!? あたしは人間兵器よ。『泥棒猫』なのよ! あんたたちの国を滅ぼすために送られたの! 死罪が当然でしょうが!!!」

 ローゼインに抱きしめられている。
 しかしその事実を受け入れた時、胸の中に湧き上がったのは喜びではなく怒りだった。
 ――舐められている。この男だけはあたしのことをちゃんと見てくれると、そう思っていたのに。

「それとも何? あたしがそんなに脅威にならないっていうの!? あんたくらい簡単に殺すことだってできるわよ!」

 ――こんなのじゃあ、他のクズ男たちと一緒じゃないの。
 甘やかせばいいと思って。それで全部あたしが吐くと思ったのならとんだ誤算だ。

 ローゼインに対する急激な失望と言葉に表せない喪失感を、あたしはどうしていいのかわからなかった。

「あたしね、実は、あんたのことが好きだったの。他の男みたいに簡単に落ちなくて、ちょっと興味を持った……ただそれだけ。でも今ので完全に愛想が尽きたわ。こんなことなら恋なんてしなきゃ良か――」

 ――パリン。
 あたしが長台詞を言い切る直前、ガラスの割れるような高い音がした。
 驚いて割れたものを見てみれば、それは左腕に嵌められていた奴隷用の腕輪だった。あたしを縛り付けていた枷。それがあっさりと、目の前で。

 あたしは言葉を失った。

「これは邪魔だったから壊させてもらった。悪いな。……別に、俺の女になれとは言わないさ。ただ言っておくがな、お前の言う皇帝はとっくの昔に他国の者によって暗殺されたよ。よっぽどたくさんの恨みを買ってたんだろうな。つまりお前はもう主人はいないんだよ。わかったか?」

 ――そんな、馬鹿な。
 目の前が真っ白になる。何を言われたかわからなかった。わかりたくなかった。

「顔色が悪いな。とりあえず、休憩室にでも運んで行ってやるよ。……イライザ殿下、騒動を起こしてすみませんでした。沙汰はまた後でよろしくお願いします」

「――。わかりましたの。その娘や上爵令息たちの処遇は父と話し合いますの」

 ローゼインの声も、イライザ王太女の声も、どこか遠くに聞こえる。
 頭がガンガンと痛い。そのうちに意識もぼんやりして来て、あたしはローゼインの腕の中で気絶してしまった。

 意識が途切れる寸前に感じたのは、ローゼインの温かな匂いだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



『お前には魅了の力がある。それを使い、我に仕えるのだ』

 ボロの身なりのままで連れて行かれた広間で、髭面の男がそう言ったのをよく覚えている。
 当時まだ十三歳だったあたしは、ずっと孤児として貧しく生きて来たから、その人物が皇帝であるだなんて知らなかったけれど。死にかけだったあたしを引き上げてくれたのは確かだ。だからある意味では彼は恩人だった。
 それに、お金と食事がもらえると聞いたから頷いた。頷いた途端、腕に重い金の輪が嵌められた。

 決して逆らってはいけない。自分の感情のままにあってはいけない。
 厳しい躾を受け、『泥棒猫』として教育されたあたしに教えられたことはそれだけだ。

 だから恋なんてしないと思っていた。恋は愚か者がするのだと言われ続けていたから。
 多分皇帝の言っていたことは正しかったのだろう。実際、あたしは今、みっともなく、愚かだ。
 なのにこんな温かい気持ちになるのはどうしてなのかわからないけれど――。


「目覚めたか」

 目を開けてすぐそこにあったのは、銀髪に灰色の瞳の美丈夫の姿。
 ローゼイン・リグフィーユ。彼を見てあたしはすぐに、今までのことを全て思い出す。そしてどうしようもなく苛立ちを覚えた。

「……なんでまだ、あたしのそばにいるわけ? いくら甘やかしてもあたしは何も吐いてやらないわよ」

「ふぅん。やっぱりそっちの方が素なのか。俺としては甘ったれた女より好ましいが」

「どういうつもりと聞いてるのよ」

「お前の名前を聞きそびれたからな。それだけは聞いておこうと思って。お前くらい俺の気を引いた人間もそう多くはない」

 ――もしかして本気でこいつ、あたしのことを?
 それだったら馬鹿。馬鹿にもほどがある。あたしの魅了魔法は確かに彼には効かないのに。効いていないのに。

「なんであたしの魅了魔法が効かなかったの」

「悪かったな。俺が教皇の息子だからだ。聖なる血が流れる聖王族と教皇の血筋は、あらゆる魔術に対して耐性があるんだよ」

「――そう。そうなのね。はぁ、色々やって損したぁ」

 皇帝がもっと下調べをしておいてさえくれれば、あんなに苦労しないで済んだのに。元々そういう体質なのであれば当然どれほど努力したって敵うはずがない。

「そういえば皇帝陛下が死んだって聞いたけど」

「お前のことを調査した誰かの仕業だろう。俺は知らん」

「あたしを使って世界征服を目論んでたくせに、勝手に死ぬなんてねぇ。ほんと、情けない話だわ。あたしは何のためにこの聖王国を攻略してたんだか」

 全てが馬鹿らしくなって小さく笑みを漏らした。

「で、あたしをどうするつもり?」

「悪いようにはしない。言ったろう、お前ほど俺の興味を引いた奴は他にいないって。国外に逃げたければそうしてやるよ」

「なんでそんなにあたしを好いてくれるのかしら。魅了魔法が効かないくせに」

「『愛してる』って初めて言われた時からお前の腹の内は大体読めてたが、それでも諦めないお前がちょっと可愛かった。それだけだ」

 今まで何度『可愛い』と言われただろう。しかしこんな風に『可愛い』と言ってもらったのは初めてだったから、あたしはなんと言葉を返していいかわからない。
 悔し紛れに毒を吐いた。

「嫌な奴ね、あんたは」

「よく言われる」

「ふふっ、でしょうね。あんた、最低だもの。期待させるだけさせておいてさ」

 あたしはこの男に騙された。ローゼインは特別なんかではなかった。普通のどこにでもいるクズ男だ。
 なのに、未だに胸が締め付けられるように痛い。それがあたしが今も騙され続けている――否、騙されていたいと思っている確かな証拠であった。
 だからもう自分の心を封じ込めるのは諦めることにした。

「あたしの名前はヒルダ。家名はないただの孤児よ。どう、満足した?」

「ヒルダ、か。……じゃあもう一度聞く。ヒルダ、お前はどうしたいんだ」

「す、好きにすれば? あたしは所詮雇い主を失った飼い犬だから、行くあてなんてないし」

 あたしがそう言うと、ローゼインはいやらしくニヤリと笑った。
 その笑顔ですら好ましいと思っているあたしは、もうずっと前からどうかしている。

「本当に好きにしていいんだな?」

「――――」

「なら」

 互いの距離が急激に近づき、直後、唇と唇がそっと触れ合う。

 今まで何度も何度も交わしたはずのキスの感触。なのに今回のそれは妙に甘ったるくて、変な気持ちになる。
 この瞬間あたしはどうしようもなく恋に落ち、すっかり彼の虜にされてしまったことを自覚した。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆






 ――『聖星祭』の大騒動の後日、正気に戻ったパディ上爵令息はイライザ王太女に何度も謝罪したことで許され、無事に婚約を続行。
 王太女の側近候補である聖騎士団長の息子など三人はしばらくの謹慎が言い渡されたが、魅了の禁術をかけられていたことが公になり、結局こちらも無罪となった。

 そして騒動を巻き起こした主たるピンクブロンドの下爵令嬢は、奔放で知られていた教皇の息子ローゼインと共に忽然と姿を消し、聖王国から失踪したと見られる。
 彼らの行方を知る者はいないが、きっと今も二人でどこかを彷徨っているのだろう――。



《完》
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