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第十六話 冷戦状態のまま過ぎていく日々
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朝起きて、ヒューパート様がまだ眠っているのを確認すると、わたくしは侍女のクロエを呼びつけてさっさと身支度をし、一人きりで部屋を出る。
少し前までなら決して許されなかった行動だし、外面を保つためには急に関係が悪化したと気づかれないようにしなければならないのも理解している。しかし、わたくしはとても気楽だった。
――もう、ヒューパート様に縛らなくていいのだ。
一緒に食堂へ行く必要もなければ、彼が起きるのを待つこともしなくていい。
もちろん、偶然起きる時間が重なってしまった時や、ヒューパート様が先に起きているという珍しい場合は挨拶くらいはするけれど、食堂へ行くのは別々だ。
視線を合わすことも、お互いの顔をまともに見ることさえほとんどない。
いつも演技をしていなくてはならなかった以前とは比べられないほど淡白な日常を、わたくしたちは送っている。
わたくしとヒューパートの関係はアンナ嬢とのお茶会をきっかけとした例の夫婦喧嘩以降、仲は一気に冷え込んだと言えるだろう。
とはいえ、以前までに戻っただけだ。ヒューパート様はわたくしを嫌い、わたくしは彼を嫌う。これが嘘偽りのない正しい関係性なのだから。
冷戦状態は今も続き、周囲は困惑している。真っ先にわたくしたちの異変に気づいたのは侍女のクロエで、「皇太子殿下と何かあったのですか」と訊いてきたが、わたくしは精一杯の笑顔で誤魔化した。
「別に。ただ少し、わたくしがアンナ嬢と仲良くしていたことで拗ねられてしまったご様子ですわ」
「やはり愛されているのですね」
わたくしの言い訳を信じたかどうかはわからなかったものの、クロエはそう言って、それ以上詮索することはしなかった。
もっとも、ヒューパート様との冷戦状態が一週間、二週間と長引けば長引くほど彼女の黄色の瞳は疑いの視線を向けてくるようにはなったけれど。
――ですがまあ、構いませんわ。どうせわたくしは愛されない妃。初めから取り繕う必要さえなかったのですもの。
わたくしは心の中でそう呟いて、ヒューパート様と交わることなく、思うように日々を過ごす。
昼間は執務室に行ってしまい、彼が部屋にいないので、書類仕事が以前のように捗った。読書もした。アンナ嬢以外の友人、皇太子妃であるわたくしと懇意になりたい貴族たちからの招待を受けて、一人で集まりに赴くようになった。
皇太子妃の務めの一つは社交。今まで制限をかけられていた分、しっかりやっておこう。
もちろん二年限りの妃ではあるから人脈を作っても仕方がないのだが、ピリピリした雰囲気の城にいたくないというのが本音だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……おい、ジェシカ!」
茶会や小さな催しからの帰りは決まっていつも不満げな目でヒューパート様が見つめてくる。
だがこの日はほんの少し特別で、ドレスを着替えようと夫婦の寝室に足を向けていたわたくしは呼び止められた。
「何でございましょう?」
うんざりした気持ちで、しかしそれを悟られぬよう完璧な淑女の笑みを貼り付けながら振り返る。
またわたくしを咎めるつもりであるに違いない。皇太子殿下であるというのにずいぶんと暇でいらっしゃいますのね、とつくづく思った。
「近頃、毎日毎日飽きもせずあちらこちらに顔出ししているようだな! 貴族の集まりなら私がお前を伴って行くべきだろうに、どうして一人で行くのだ。もしや私には見せられないような下等で野蛮な集いにでも赴いているのか?」
「野蛮な集いとは?」
公爵家の娘であり、今は皇太子妃であるわたくしが、そのようなものに参加するとでも思っているのだろうか。そのような皇家、そしてハパリン帝国の信用に関わることになるのは明白なのに。
そっけなく返せば、ヒューパート様は吠えるように言った。
「やはり思い当たることがあるのだろう!? そうでなければなぜ、公の場まで!」
「これくらいの社交を行うのは妃としてごく当然のことでしてよ。それさえ許せないほどにヒューパート様がわたくしを監視なさりたいということは、よくわかりましたわ」
約束通り、わたくしは彼へ迷惑をかけるようなことはしていない。だから咎められる謂れは微塵もないのだ。
だから少し、強気に出た。
「お互いへの束縛はもうやめにいたしましょうと申しましたでしょう」
ヒューパート様は顔を顰めたが、それ以上何も言わずに無言で去っていった。
せめて「わかった」とでも言ってくれればよろしいですのに、と思いながら、わたくしは小さく呟く。
「わたくしのことが嫌いなのに、溺愛しているかのような態度を取るヒューパート様が悪いのですわ」
そんなわけはないとわかっている。
ヒューパート様の想い人はたった一人。わたくしではない。
それなら、適切な距離を取ればいいのだ。
あまりに近過ぎるのは不快だった。心の中では顔も見たくないと思っているくせに、優しいように振る舞われるのは。
――だって、誤解しそうになるではありませんの。
わたくしはヒューパート様のことが大嫌い。
想い人である例の彼女はもちろん、他の令嬢に対してもいつでもどこでも貴公子然としているにもかかわらず、なぜか唯一わたくしに横暴な態度を取ってくるのが気に入らないし、何より理解不能でどうしようもなく気持ち悪い。
そんなにわたくしを嫌っているなら会いに来なければ良いのに、わざわざやって来て見下すような発言を繰り返していた彼を思い出すと腹が立つ。先ほどだって、そうだ。
それなのに優しくしているふりをされて、どうして喜べよう。
だから今くらいがちょうどいいのだ。いくらヒューパート様との関係が険悪過ぎて居心地が悪くても、周囲になんとも言えない視線を向けられたとしても。
そのはず、だった。
少し前までなら決して許されなかった行動だし、外面を保つためには急に関係が悪化したと気づかれないようにしなければならないのも理解している。しかし、わたくしはとても気楽だった。
――もう、ヒューパート様に縛らなくていいのだ。
一緒に食堂へ行く必要もなければ、彼が起きるのを待つこともしなくていい。
もちろん、偶然起きる時間が重なってしまった時や、ヒューパート様が先に起きているという珍しい場合は挨拶くらいはするけれど、食堂へ行くのは別々だ。
視線を合わすことも、お互いの顔をまともに見ることさえほとんどない。
いつも演技をしていなくてはならなかった以前とは比べられないほど淡白な日常を、わたくしたちは送っている。
わたくしとヒューパートの関係はアンナ嬢とのお茶会をきっかけとした例の夫婦喧嘩以降、仲は一気に冷え込んだと言えるだろう。
とはいえ、以前までに戻っただけだ。ヒューパート様はわたくしを嫌い、わたくしは彼を嫌う。これが嘘偽りのない正しい関係性なのだから。
冷戦状態は今も続き、周囲は困惑している。真っ先にわたくしたちの異変に気づいたのは侍女のクロエで、「皇太子殿下と何かあったのですか」と訊いてきたが、わたくしは精一杯の笑顔で誤魔化した。
「別に。ただ少し、わたくしがアンナ嬢と仲良くしていたことで拗ねられてしまったご様子ですわ」
「やはり愛されているのですね」
わたくしの言い訳を信じたかどうかはわからなかったものの、クロエはそう言って、それ以上詮索することはしなかった。
もっとも、ヒューパート様との冷戦状態が一週間、二週間と長引けば長引くほど彼女の黄色の瞳は疑いの視線を向けてくるようにはなったけれど。
――ですがまあ、構いませんわ。どうせわたくしは愛されない妃。初めから取り繕う必要さえなかったのですもの。
わたくしは心の中でそう呟いて、ヒューパート様と交わることなく、思うように日々を過ごす。
昼間は執務室に行ってしまい、彼が部屋にいないので、書類仕事が以前のように捗った。読書もした。アンナ嬢以外の友人、皇太子妃であるわたくしと懇意になりたい貴族たちからの招待を受けて、一人で集まりに赴くようになった。
皇太子妃の務めの一つは社交。今まで制限をかけられていた分、しっかりやっておこう。
もちろん二年限りの妃ではあるから人脈を作っても仕方がないのだが、ピリピリした雰囲気の城にいたくないというのが本音だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……おい、ジェシカ!」
茶会や小さな催しからの帰りは決まっていつも不満げな目でヒューパート様が見つめてくる。
だがこの日はほんの少し特別で、ドレスを着替えようと夫婦の寝室に足を向けていたわたくしは呼び止められた。
「何でございましょう?」
うんざりした気持ちで、しかしそれを悟られぬよう完璧な淑女の笑みを貼り付けながら振り返る。
またわたくしを咎めるつもりであるに違いない。皇太子殿下であるというのにずいぶんと暇でいらっしゃいますのね、とつくづく思った。
「近頃、毎日毎日飽きもせずあちらこちらに顔出ししているようだな! 貴族の集まりなら私がお前を伴って行くべきだろうに、どうして一人で行くのだ。もしや私には見せられないような下等で野蛮な集いにでも赴いているのか?」
「野蛮な集いとは?」
公爵家の娘であり、今は皇太子妃であるわたくしが、そのようなものに参加するとでも思っているのだろうか。そのような皇家、そしてハパリン帝国の信用に関わることになるのは明白なのに。
そっけなく返せば、ヒューパート様は吠えるように言った。
「やはり思い当たることがあるのだろう!? そうでなければなぜ、公の場まで!」
「これくらいの社交を行うのは妃としてごく当然のことでしてよ。それさえ許せないほどにヒューパート様がわたくしを監視なさりたいということは、よくわかりましたわ」
約束通り、わたくしは彼へ迷惑をかけるようなことはしていない。だから咎められる謂れは微塵もないのだ。
だから少し、強気に出た。
「お互いへの束縛はもうやめにいたしましょうと申しましたでしょう」
ヒューパート様は顔を顰めたが、それ以上何も言わずに無言で去っていった。
せめて「わかった」とでも言ってくれればよろしいですのに、と思いながら、わたくしは小さく呟く。
「わたくしのことが嫌いなのに、溺愛しているかのような態度を取るヒューパート様が悪いのですわ」
そんなわけはないとわかっている。
ヒューパート様の想い人はたった一人。わたくしではない。
それなら、適切な距離を取ればいいのだ。
あまりに近過ぎるのは不快だった。心の中では顔も見たくないと思っているくせに、優しいように振る舞われるのは。
――だって、誤解しそうになるではありませんの。
わたくしはヒューパート様のことが大嫌い。
想い人である例の彼女はもちろん、他の令嬢に対してもいつでもどこでも貴公子然としているにもかかわらず、なぜか唯一わたくしに横暴な態度を取ってくるのが気に入らないし、何より理解不能でどうしようもなく気持ち悪い。
そんなにわたくしを嫌っているなら会いに来なければ良いのに、わざわざやって来て見下すような発言を繰り返していた彼を思い出すと腹が立つ。先ほどだって、そうだ。
それなのに優しくしているふりをされて、どうして喜べよう。
だから今くらいがちょうどいいのだ。いくらヒューパート様との関係が険悪過ぎて居心地が悪くても、周囲になんとも言えない視線を向けられたとしても。
そのはず、だった。
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