透明令嬢は、カジノ王の不器用な溺愛に、気づかない。

秋津冴

文字の大きさ
19 / 51
第一章

虚ろな視線

しおりを挟む
 しかし、普段から学院で使う辞書以上に重いものなど、上げ下げしたことがない身だ。普通の女性にとってはそんなに重くない中見だが、アイネにとっては数十キロもあるような重量物に感じられた。

「こんな……っ。重いっ、何が詰まっているのよ、この中身は!」

 バッグ二つはどうにか運び込めた。
 しかし、旅行箪笥だけはどうやっても少しずつしか動かない。

 中身を詰めさせたのはアイネだ。
 これまでの旅行で家人たちがひいひいと言いながら運んでいたのを、素知らぬ顔をして気にしなかった罰が下ったのかもしれない、とアイネは過去の行動を顧みてちょっとだけ反省した。

 うううっと呻きながら大きく足を開き、自分の背丈ほどもある大きな荷物を押して運ぶ姿を、友人たちが見たらどう思うだろうと、そんな考えが頭をよぎる。

 だが、すぐに消えてなくなった。
 彼女たちは、数日前にアイネを見捨てて、自ら去って行ったのだ。

 もはや友人とも言えない、単なる顔見知りでしかない。
 それよりも、旅行の装いとして着ている薄緑の膝下丈のワンピースの裾が捲れて、太ももが露わにならないかが、大いに気になった。

 馬に乗る時ならば乗馬用のズボンを履いているから足を大きく開くことに抵抗感はないが、いまはスカートだ。これでは力を入れて押すどころではなかった。

 陰気な場所で、力作業など、伯爵令嬢がするようなことではないのだ。
 おまえけにもっと気になることが、目の前で起こっていて、それがアイネをもっと焦らせた。

「待って、何? どういうことなの」

 通路の左右にはアイネが通された部屋と同じような扉がずらっと等間隔に並んでいる。
 いま、その扉をうっすらと開き、こちらを覗きこんでいる人々の視線がアイネに向けられていた。

 ホテルキャザリックは王都でも屈指の一流ホテルだ。
 そこに宿泊する客は、最低でも富裕層でなければならない。

 そんな高級ホテルであっても、従業員ともなれば話は別だ。
 そして、最下層の従業員――ホテルの裏側で設備を管理したり、庭の剪定をしたり、掃除をする者たちともなれば……。

 低所得者どころか、物取りでも平気でやる奴隷たちだって、いてもおかしくない。
 浮浪者より少しばかりまともな連中が、そこかしこの扉から廊下に沸いて出て来たのだった。
 
「大変そうですね、お客様。お手伝いいたしましょうか? 代価はその中身でもいい」
「ひっ! やめて、触らないで!」

 首に奴隷の証である焼き印を押された男たちが数名、扉の中からこちらに向かって歩いてきた。
 誰もが生きることに疲れ切ったような顔をしており、野卑な笑みを浮かべて近づいてくる。

 暴力に満ちた生き方しか知らない連中が、そこにはいた。
 口調は至極丁寧だが、その要求は物取りのそれだ。

 このままでは荷物どころか、部屋に押し込まれて、命すら危うくなる。
 アイネが後を振り返り、元来た道を逃げ戻ろうとした瞬間、男たちの一人がアイネに追いすがり、悲鳴を上げさせまいと手でその口を防ぐ。

 廊下に力づくで叩きつけられ、左側の頬が強く傷んだ。
 アイネはその勢いの強さに胸を激しく打ち、肺から息が吸い出されて、目の前が昏倒する。
 視界が急展開し、仰向けにされてドレスの胸元に男の手がかかった時だった。

「お嬢様に触れるな、この無礼者」
「へぐっ!」
 
 アイネの視界に何かが凄まじい速さで滑り込んでくる。
 誰かの怒りの声とともに、男の肉体はボールにでもなったかのように飛んでいき、廊下の床で跳ねて動かなくなった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

そのご寵愛、理由が分かりません

秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。 幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに—— 「君との婚約はなかったことに」 卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り! え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー! 領地に帰ってスローライフしよう! そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて—— 「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」 ……は??? お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!? 刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり—— 気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。 でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……? 夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー! 理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。 ※毎朝6時、夕方18時更新! ※他のサイトにも掲載しています。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

残念な顔だとバカにされていた私が隣国の王子様に見初められました

月(ユエ)/久瀬まりか
恋愛
公爵令嬢アンジェリカは六歳の誕生日までは天使のように可愛らしい子供だった。ところが突然、ロバのような顔になってしまう。残念な姿に成長した『残念姫』と呼ばれるアンジェリカ。友達は男爵家のウォルターただ一人。そんなある日、隣国から素敵な王子様が留学してきて……

【完結】転生したらラスボスの毒継母でした!

白雨 音
恋愛
妹シャルリーヌに裕福な辺境伯から結婚の打診があったと知り、アマンディーヌはシャルリーヌと入れ替わろうと画策する。 辺境伯からは「息子の為の白い結婚、いずれ解消する」と宣言されるが、アマンディーヌにとっても都合が良かった。「辺境伯の財で派手に遊び暮らせるなんて最高!」義理の息子など放置して遊び歩く気満々だったが、義理の息子に会った瞬間、卒倒した。 夢の中、前世で読んだ小説を思い出し、義理の息子は将来世界を破滅させようとするラスボスで、自分はその一因を作った毒継母だと知った。破滅もだが、何より自分の死の回避の為に、義理の息子を真っ当な人間に育てようと誓ったアマンディーヌの奮闘☆  異世界転生、家族愛、恋愛☆ 短めの長編(全二十一話です) 《完結しました》 お読み下さり、お気に入り、エール、いいね、ありがとうございます☆ 

静かなる公爵令嬢と不貞な王子~婚約破棄の代償は国家転覆の危機?~

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと公爵令嬢アリエッタの物語。婚約破棄したスミスの代償は、アリエッタの兄:若き陸軍士官オングリザによる国家転覆計画だった。

王太子妃専属侍女の結婚事情

蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。 未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。 相手は王太子の側近セドリック。 ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。 そんな二人の行く末は......。 ☆恋愛色は薄めです。 ☆完結、予約投稿済み。 新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。 ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。 そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。 よろしくお願いいたします。

見た目は子供、頭脳は大人。 公爵令嬢セリカ

しおしお
恋愛
四歳で婚約破棄された“天才幼女”―― 今や、彼女を妻にしたいと王子が三人。 そして隣国の国王まで参戦!? 史上最大の婿取り争奪戦が始まる。 リュミエール王国の公爵令嬢セリカ・ディオールは、幼い頃に王家から婚約破棄された。 理由はただひとつ。 > 「幼すぎて才能がない」 ――だが、それは歴史に残る大失策となる。 成長したセリカは、領地を空前の繁栄へ導いた“天才”として王国中から称賛される存在に。 灌漑改革、交易路の再建、魔物被害の根絶…… 彼女の功績は、王族すら遠く及ばないほど。 その名声を聞きつけ、王家はざわついた。 「セリカに婿を取らせる」 父であるディオール公爵がそう発表した瞬間―― なんと、三人の王子が同時に立候補。 ・冷静沈着な第一王子アコード ・誠実温和な第二王子セドリック ・策略家で負けず嫌いの第三王子シビック 王宮は“セリカ争奪戦”の様相を呈し、 王子たちは互いの足を引っ張り合う始末。 しかし、混乱は国内だけでは終わらなかった。 セリカの名声は国境を越え、 ついには隣国の―― 国王まで本人と結婚したいと求婚してくる。 「天才で可愛くて領地ごと嫁げる?  そんな逸材、逃す手はない!」 国家の威信を賭けた婿争奪戦は、ついに“国VS国”の大騒動へ。 当の本人であるセリカはというと―― 「わたし、お嫁に行くより……お昼寝のほうが好きなんですの」 王家が焦り、隣国がざわめき、世界が動く。 しかしセリカだけはマイペースにスイーツを作り、お昼寝し、領地を救い続ける。 これは―― 婚約破棄された天才令嬢が、 王国どころか国家間の争奪戦を巻き起こしながら 自由奔放に世界を変えてしまう物語。

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

処理中です...