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第一章
アイネの涙
主人が涙に暮れている間、新たに侍女となったエリーゼは、室内から廊下に通じるただ一つの扉に、じっと険しい視線を向けていた。
今では彼女たちを閉じ込めている場所には、他に出入り口がない。
ありがたいことに、扉には来客を確認できるように、小さくガラスをはめ込んだ覗き穴が用意されている。
そこを片目でじっと見入ると、廊下の片隅でいくつかの扉が空いたり閉じたりして、向こうもこちらの様子をうかがっているのが分かる。
ここに来る前、エリーゼは父親ロアーからこんな指示を受けていた。
先にホテルギャザリックを訪れ、スィートルームに宿泊するアイネをお尋ねすること。
だが、彼女はスィートではなくいま二人が閉じこもっている階に案内されるはずだから、そこで先に落ち合うこと。
大公家が用意したロアーを含む護衛が到着するまで、アイネを部屋からお出ししないようにすること。
詳しくは言えないが、危険が迫っているのでなにがあっても、侍女として。少女騎士として、主君を命がけで守ること、などなど。
お父様の予感が的中したでも……手配した人員の到着が遅い。
そんな不安が、エリーゼの心に浮きあがった。
エリーゼがたまたまこの階に居合わせて、主人であるアイネの危機に遭遇した訳ではない。
偶然にアイネを助けた訳でもない。
ここに向かえという指示が、父親であるロアーを通して、アイネの夫になる大公ブラックから下されていたからだった。
「お嬢様。これをどうぞ」
「……ありがとう」
ひとしきり泣いたのだろう。
そっと手渡したハンカチで涙を拭ったアイネの表情には、少しだけ余裕が戻ったように見えた。
これから、またあの場所へと戻らなければならない。
そして、主人と荷物を安全に大公閣下の元へと届けなければ、役目を果たせなくなる。
だけどどうして、王国騎士であるお父様が、直接の上司でもない大公閣下の勅命で動いているのか。
エリーゼはふとそんな疑問を考えてしまう。大公家は王族だ。王族の警護には、近衛騎士や近衛兵団が当たるのが、通例だった。
どうしてこんなまどろっこしいやり方……まるで、世間に大公家の新しい妻の存在を知られたくないようなやり方をするのか。まったくもって、理解できない。
父親と合流してからそれとなく質問しようと考え、気を取り直す。
再び、玄関をそっと開き、外の安全を確認した。
エリーゼが危険な現状からどうやって抜け出したものかと頭を悩ませている間、事情をなにも知らないアイネはようやく悲しみの世界から、現実に帰還を果たしていた。
「なんでこんな目に遭わなければならないの……。そうだ、貴方! どうしてここがわかったの?」
「それは――」
余裕を取り戻したのか、アイネの顔は不機嫌一色に染まっていた。
自分が受けた理不尽な暴力と、エリーゼの登場があまりにも偶然に過ぎる、と彼女は思ったらしい。
エリーゼの返事次第では、感謝が消え、罵倒の言葉が飛んできそうなのが怖い。まったく想定外のトラブルに巻き込まれたという意味では、自分も被害者なのですが。
と、エリーゼは言いそうになって止めた。
それについて理解を求めるのは、もう少し後でも遅くない。
「先ほども申し上げました通り。王国騎士ロアーの娘、エリーゼと申します」
「それは聞きました。あなたの物腰から、きちんと教育を受けたレディであることも推察がつきます」
「ありがとうございます」
「だけど、それとこれとは話が別でしょう? 助けていただいたお礼はいたします。感謝もいたします、でも納得いかないわ」
アイネは心の中から湧き上がる怒りを抑えきれないような顔をした。
多分その答えは、互いが落ち合う場所、にあるような気がするエリーゼだった。
「アイネ様はスィートルームに案内されると、当初、聞いておりました。ここに来て、この場所で落ち合うようにと命じられました」
「私もそうよ。閣下から、このホテルのスイートルーム……私に長年仕えてくれた侍女を連れていくことを許してくれないのは、ひどいと思ったわ。閣下が雇った侍女とその場で合流するように、と。そう聞いていたの」
水色の瞳で、アイネはエリーゼを見つめた。
透き通るような美しい淡いその光に吸い込まれそうになる。
夜明けの空のような色をしている、とエリーゼは思った。
けれど、とアイネが続ける。
「けれど、貴方はここで私と落ち合うように命じられた、と。そう言ったわ。私、聞き間違えをしていますか?」
「いいえ。それはございません、お嬢様。お嬢様の申される通りです」
「……否定くらいしてくれないと、責められないじゃない。どうして、私をこんな目に遭わせるのですか」
どうやら彼女は廊下で自分を襲った連中と、エリーゼが仲間だと勘違いしているようだ。
この誤解は解かなければいけないと思った。
「お嬢様。私はこの階のこの部屋。この場所に行け、という命じられたのです。このホテルに着くまでは」
「……は? 理解ができません」
「到着してすぐに父から伝言があったのです。ホテルの入り口に入り、カウンターでスイートルームへの来客だと告げたら、フロントの係の者から、一枚のメモを渡されたのです」
「どういうこと?」
首をかしげるアイネに、エリーゼはスカートのポケットから取り出した、紙片を渡した。
それは隅の方にこのホテルの名前と連絡先が小さく印刷された、ホテルのメモ用紙だった。
そこには確かにこの階とこのルームナンバーが記されている。
ロアーより、とも書かれてあった。
今では彼女たちを閉じ込めている場所には、他に出入り口がない。
ありがたいことに、扉には来客を確認できるように、小さくガラスをはめ込んだ覗き穴が用意されている。
そこを片目でじっと見入ると、廊下の片隅でいくつかの扉が空いたり閉じたりして、向こうもこちらの様子をうかがっているのが分かる。
ここに来る前、エリーゼは父親ロアーからこんな指示を受けていた。
先にホテルギャザリックを訪れ、スィートルームに宿泊するアイネをお尋ねすること。
だが、彼女はスィートではなくいま二人が閉じこもっている階に案内されるはずだから、そこで先に落ち合うこと。
大公家が用意したロアーを含む護衛が到着するまで、アイネを部屋からお出ししないようにすること。
詳しくは言えないが、危険が迫っているのでなにがあっても、侍女として。少女騎士として、主君を命がけで守ること、などなど。
お父様の予感が的中したでも……手配した人員の到着が遅い。
そんな不安が、エリーゼの心に浮きあがった。
エリーゼがたまたまこの階に居合わせて、主人であるアイネの危機に遭遇した訳ではない。
偶然にアイネを助けた訳でもない。
ここに向かえという指示が、父親であるロアーを通して、アイネの夫になる大公ブラックから下されていたからだった。
「お嬢様。これをどうぞ」
「……ありがとう」
ひとしきり泣いたのだろう。
そっと手渡したハンカチで涙を拭ったアイネの表情には、少しだけ余裕が戻ったように見えた。
これから、またあの場所へと戻らなければならない。
そして、主人と荷物を安全に大公閣下の元へと届けなければ、役目を果たせなくなる。
だけどどうして、王国騎士であるお父様が、直接の上司でもない大公閣下の勅命で動いているのか。
エリーゼはふとそんな疑問を考えてしまう。大公家は王族だ。王族の警護には、近衛騎士や近衛兵団が当たるのが、通例だった。
どうしてこんなまどろっこしいやり方……まるで、世間に大公家の新しい妻の存在を知られたくないようなやり方をするのか。まったくもって、理解できない。
父親と合流してからそれとなく質問しようと考え、気を取り直す。
再び、玄関をそっと開き、外の安全を確認した。
エリーゼが危険な現状からどうやって抜け出したものかと頭を悩ませている間、事情をなにも知らないアイネはようやく悲しみの世界から、現実に帰還を果たしていた。
「なんでこんな目に遭わなければならないの……。そうだ、貴方! どうしてここがわかったの?」
「それは――」
余裕を取り戻したのか、アイネの顔は不機嫌一色に染まっていた。
自分が受けた理不尽な暴力と、エリーゼの登場があまりにも偶然に過ぎる、と彼女は思ったらしい。
エリーゼの返事次第では、感謝が消え、罵倒の言葉が飛んできそうなのが怖い。まったく想定外のトラブルに巻き込まれたという意味では、自分も被害者なのですが。
と、エリーゼは言いそうになって止めた。
それについて理解を求めるのは、もう少し後でも遅くない。
「先ほども申し上げました通り。王国騎士ロアーの娘、エリーゼと申します」
「それは聞きました。あなたの物腰から、きちんと教育を受けたレディであることも推察がつきます」
「ありがとうございます」
「だけど、それとこれとは話が別でしょう? 助けていただいたお礼はいたします。感謝もいたします、でも納得いかないわ」
アイネは心の中から湧き上がる怒りを抑えきれないような顔をした。
多分その答えは、互いが落ち合う場所、にあるような気がするエリーゼだった。
「アイネ様はスィートルームに案内されると、当初、聞いておりました。ここに来て、この場所で落ち合うようにと命じられました」
「私もそうよ。閣下から、このホテルのスイートルーム……私に長年仕えてくれた侍女を連れていくことを許してくれないのは、ひどいと思ったわ。閣下が雇った侍女とその場で合流するように、と。そう聞いていたの」
水色の瞳で、アイネはエリーゼを見つめた。
透き通るような美しい淡いその光に吸い込まれそうになる。
夜明けの空のような色をしている、とエリーゼは思った。
けれど、とアイネが続ける。
「けれど、貴方はここで私と落ち合うように命じられた、と。そう言ったわ。私、聞き間違えをしていますか?」
「いいえ。それはございません、お嬢様。お嬢様の申される通りです」
「……否定くらいしてくれないと、責められないじゃない。どうして、私をこんな目に遭わせるのですか」
どうやら彼女は廊下で自分を襲った連中と、エリーゼが仲間だと勘違いしているようだ。
この誤解は解かなければいけないと思った。
「お嬢様。私はこの階のこの部屋。この場所に行け、という命じられたのです。このホテルに着くまでは」
「……は? 理解ができません」
「到着してすぐに父から伝言があったのです。ホテルの入り口に入り、カウンターでスイートルームへの来客だと告げたら、フロントの係の者から、一枚のメモを渡されたのです」
「どういうこと?」
首をかしげるアイネに、エリーゼはスカートのポケットから取り出した、紙片を渡した。
それは隅の方にこのホテルの名前と連絡先が小さく印刷された、ホテルのメモ用紙だった。
そこには確かにこの階とこのルームナンバーが記されている。
ロアーより、とも書かれてあった。
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