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俺の地元

追憶の中の姉ちゃん

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 冷やし麦茶とクエン酸の効いた梅干しのお茶漬けは、麦茶の甘さにアクセントをつけるように酸っぱさが丁度良い。冷やされたご飯が喉によく通る。ぐっと目をつむり、あの梅干しを飲み下した時と言ったらもう――!

 スライス玉ねぎと鰹節とミックスをポン酢で味付けした惣菜は俺の大好物。玉ねぎがシャキシャキっと弾けるたびにポン酢の味が程好く増していく。我が家では新鮮な玉ねぎ限定の逸品だ。

 苦味と旨みがこれ以上ない程に混ざり合った青菜のおひたしは、沢山かけられたゴマによって野菜のつべつべ感をカバーしてくれている。ゴマがかかっていないと、舌触りもそうだが、苦味が上手くカバーされていない気がする。

 最後は御袋が手間暇かけて作る、我が家で最高のイタリアン。プレーンヨーグルト1と豆腐3をミキサーにかけて、1/8カットしたトマトの上にスプーン一杯分を乗せる。御袋は狂っていて、この上からたっぷりとオリーブオイルと塩胡椒をかけてしまう……。本当はフレッシュチーズとトマトの組み合わせであるが、御袋はヨーグルトの滑らかさの方が好きなようである。





「食べた食べた……」


 梅雨スペシャルご飯は、やっと消化が開始されたようだった。お腹がぐるぐるとくすぐるように音をたてる。俺は先ほどから降り出した雨の音を聞くように、縁側へごろりと身を落ち着けた。


「おい、食べて直ぐ寝ると太るぜぇ?」
「親父に言われたくねーんだけど」


 親父は今朝の新聞を読み返すように、ぺらぺらとそれを捲り始めている。が、うちわで扇いだり、俺や御袋やテレビに視線を移したりと何をしたいのか分からない。


 雨が先程より強くなり、テレビの音が少ししか聞こえなくなる。まるでバケツをひっくり返したような大量の雨に、昼間降っていなかったのが奇跡のように思える。雲は流れているんだから、時間ごとに見る空は違うものだが……、よく今まで降らなかったものだ。


 雨乞いの向こう側にちらりと目をやると、イカ墨をべったりと塗りたくった所から、何重にも白い斜線が引っ張られている。雷でもなれば空は光るだろう。その時に、どれだけ雨雲があるか分かるのだが。


 流し台で皿洗いをしていた御袋が蛇口を閉め、「ぎゅっ」と独特なゴムの音がした。家の蛇口がもう古くなってきていて、配管が老いて錆て古されていくうちに、そんな音がいつしかするようになっていた。その「ぎゅっ」による鈍い音がしてから水と金属の雑音はしなくなり、一段とテレビの音が聞こえやすくなった。


「前、柴田さん――が――たと思うんですけど」
「それはさぁ――んで、―――ないのぉ?」


 まどろみの中では、実に日本語は複雑なものだと思える。知っている言語だからか、流暢に喋れる言語だからか。頭が意味を理解しようと耳をすませなさいと命令しているに違いない。そのメカニズムに苛立ちさえ覚える。


 暇なときににラジオをつけて洋楽を聞くものの、日本語のようにメカニズムが働かないので非常に穏やかに聞くことが出来る。ビヨンセやケイティ、マイケルやクリスはメジャーだったりする訳だが、アレクサンドラやビクトリアも好きだったりする。俺はどちらかというと意味の分からない言語を聞いたり、迫力だったりだとか癒しだったりを重要視した歌声の方が好きかもしれない。


  畳の上に寝転ぶ俺に、「どすどす」という音と振動が伝わる。この歩き方は母さんだ。寸胴な親父より振動が緩やかで、品のある音。せかせかした音。


「慶介、湿気が入ってくるから閉めるわよ」
「少し開けといて、暑い」


 割烹着を着たまんまの御袋が駆けてくると、俺が見詰めている先だけを少し開けて、無言のまま台所へと戻って行った。一瞬だけ俺の顔をちらりと見られた気がした。どうやら御袋の中の俺はもう大人らしい。


(自分の部屋で寝なさい、は中学生までかな)


 親父が煙草を吸おうと無造作にテーブルに手を滑らせる。テーブルには孫の手と幾つかのリモコン、3本の老眼鏡と耳かき、しけらないようにピン留めされたせんべえと、煙草の灰皿しかないというのに。
 親父は気づいたように、自分のジーンズのポケットへと手を滑らせた。


 釣りに行っていたとき、アンタは煙草を吸っていただろう! と怒るのは辞めた。雨の憂鬱さに気持ちが丸められてしまったから。それより、けだるさに身を委ねる気分だった。


(ラジオでも聞くかな……)


 ゆっくりと膝を立てて起き上がる。久し振りに身体を動かしたもんだから、疲れが溜まっているようだった。脳が少しふわりとする。軽くその場で伸びをすると、煙草を灰皿につけた親父が呟くように言った。


「なあ、慶介――?」
「なんだよ、親父」
「もうすぐ姉ちゃんの十回忌なんだけど……お前も行くか?」


 俺はしばし沈黙した。親父の何気なく、何事もあることをないように言った言葉が胸に刺さる。


 行方不明の少女達の中でも、一番の手掛かりがあり、見つかるだろうと言われていたのは姉ちゃんだった。だから御袋はその希望にしがみついて、帰ろうと言う親父の腕をいつも振りほどいていた。御袋は姉ちゃんは死んだと認めたくなかった。死亡届を書くのが遅くなって、お墓を準備するのも遅くなって、1年の空白が出来てしまっていた。




 姉ちゃんは俺が大好きだった。暇があったら俺を抱きしめてくる姉ちゃんが、俺はとてつもなくうざく思っていた。仲の良い姉弟って言われるのが嫌だった。
 小学校に入って間もなかった俺に、姉ちゃんが死亡したということは理解出来なかった。何処か遠い所へ行ってしまって帰りたくても帰って来れない、永遠に。そんな価値観の大きさもよく分からなかった。


 ただの小さい穴が開いただけの感覚。家が少し広くなったように感じた。家が少し静かになったような気がした。出て来る料理が少なくなったような気がした。いつもの通学路が退屈になったような気がした。
 担任の木村先生に抱きしめてもらった理由も、同級生の親御さんから頭を撫でられた理由も分からないままだった。知っている狭い語彙がぐちゃぐちゃになって、それで、必死に、何かを、正しく、伝えようとする、小さな自分がいた。


 大きくなって事の重要さがようやく分かったが、もう既に傷は癒えていた。もしかしたらまだその傷は探したら出て来るかもしれないが、その傷をほじくってどうこうしようという考えはない。


「家族全員で行くべきだろ、そういうのは」


 俺は母さんと同じようにちらりと、本人にしか分からない一瞥を親父に向ける。親父は薄い髪をわしゃわしゃする。家族の絆とか、そういうものにひっかかって何処か照れ臭いのだろう。


 ふと、小さかった頃の記憶が蘇った。親父は海に行けず、仕事もなく、リビングで朝刊を読みふけっている。俺達ふたりは、畳の上でそれぞれ転がって。


 遊び盛りの子供が家で何をするべくもなく無言を貫いている。そんな状況に機転を利かせようと、暫く体勢をそのままに瞼を閉じる。親父は御袋に頼んでひとつ水筒を準備させ、俺達に「行くぞ」とだけ告げる。


 そして俺達ふたりを連れて、近所の森の中に遊びに行く。未開発のその地は、昆虫と生物の宝庫だった。土と青の匂いを嗅ぎながら、どんどん奥へと足を進めて行く。俺達の想像を絶する程立っているだろう大木に心を奪われていると、親父が俺の肩をつっつく。


「?」


 にんまりと優し気に微笑む親父の指先に、大木にひっつくカブト虫。


「わぁ……!」


 それも1匹や2匹じゃなくて、10をも超える数がその大木の蜜を吸っていた。親父は暇があると、俺達を森に連れて行った。





 自分の部屋に戻ると、壁にぶら提げたカブト虫の標本が目に入った。姉ちゃんと一緒に作ったものだ。小4の時の夏休みの自由研究。大きくなっても昆虫は好きだったし、親父も森へ連れて行ってくれた。


 白昼のベランダで、俺と姉ちゃんのふたり。リビングでは船の雑誌に魅入る親父と、台所には皿洗いをする御袋。誰も何も喋らなかった。草木を揺らす風の音だけを聞けるのが幸せだった。懐かしい。


 姉ちゃんはペロリと下唇を濡らし、真剣な目付きに変わる。猫のようにゆるやかな曲線を描いた目に、それを縁取るカールした睫毛。肩にかかる長い黒髪を垂らし、――ゆっくりと昆虫に針をさしていく。


 なんでこんなことに一生懸命になれるんだろうって、俺はそんな目でみていた。それでも姉ちゃんは頑張ってた。


(つまんねぇの――)


 ローズヒップティーで染色したみたいな、肩ひものワンピース。御袋とトカイに行った時に買ってもらった、というそれは姉ちゃんによく似合ってた。
 そういう所を含めて、姉ちゃんは別次元の人だった。時が経って大人に近づくたびに姉ちゃんと俺の距離は離れていくんだろうって確信に近い気持ちまであった。


「でっきたー。夏休みの宿題ひとつ完成ー」


 長い黒髪を手で後ろへ追いやり、ケースに飾られた昆虫に魅入る。
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