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俺の地元

相思相愛

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「今日はいつもより暑かったなあ――」


 日本酒をば、といそいそと家へ帰って行く親父の足取りはとても軽やかだった。


 それは、梅雨真っ只中の日。雨の中にできた晴れの谷間の日の出来事。


 親父が晴れた日に家でいるのは勿体無いと気遣ってくれて、船を出してくれることになった。雨で海水がいつもより多いため、遠出することは残念ながら出来なかった。親父が俺と5つ年上の ライトさんを連れて、船で15分程出た所で、釣竿を出してのんびり過ごしていた。


 やっぱり海は良いな。
 どんな俺でも包んでくれそうな優しさが感じられる。


 久し振りにみる海の余韻に浸りながら、月さんと別れて親父の後についていく。目を瞑ったら身体がふわりと浮いて、海をだーっと駆けていって、そして俺は――夜空に抱かれる満月の前に立ち尽くす。


 後ろ髪を撫でる潮風を感じながら、俺は親父に気付かれないように静かに一呼吸し肺をリフレッシュさせる。家の前まで目を閉じて余韻に浸ってしまった。


 明日から頑張ろう。


 そう胸に誓った時、俺の右腕が何か細くて熱いものに絡め取られた。家へ上がって行く親父を目に、次は手を取った奴に視線を転じる。


「……渚沙」
「やほ。慶介……」


 口角をぴくぴくとさせている渚沙は、上目遣いで俺を見ていた。怯えているのは一目瞭然である。表情が青く、何処をとっても芳しくない。


 ポニーテールを華やかにするピンクのシュシュが唯一、渚沙っぽいなと思えた。今までとは雰囲気が違った。ベビーブルーと言えばいいのか、女の子らしい一色のワンピースは気品が駄々漏れで、渚沙の持つ色白さとよく似合っていて――っていうより俺の知っている渚沙じゃなかった。


 胸元で光るアクセサリー。
 自分のイニシャルネックレスは、俺があげたものだ。


 この時点で俺は何故ここに来たのかを6割を悟る。無言のまま、ぱく、ぱく、と口を動かす渚沙の手を握り、台所にいる母さんに一声かける。


「おふくろ、ちょっと用事出来たから飯遅くなる」
「それは良いけど……。お味噌汁冷めるわよ」
「なるべく遅くならないようにするー」


 視線を渚沙に戻すと、くりくりとした瞳の近く、目元が赤らんでいることに気付いた。きょとん、とした表情だ。そして目があったことにまた吃驚する。渚沙にしか聞きとれない音量で、行くぞと言って腕を退く。


 ここで話していたら誰かに見られるだろうし、お互いも困るだろうから。握った腕からぎこちない足取りの振動が伝わってくるが、渚沙は抵抗せずに俺に静かについてきた。


 距離は短いが急な坂を登ると、紺碧色をした空が眼前に広がっていた。水平線と接するのは、情熱的な緋色の夕暮れ。つい地球の大きさと自分の等身大に想いを馳せてしまう――。遥か彼方で夕暮れが始まっているんだな。人ひとり住んでいない海の向こうで。その残留を俺達のいる海から望めるのだと思うと生命の時間が尊く思えた。


 まだ人間の手が加えられていない、誰も手を加えることのできない神秘的な空をこうして当たり前に見れることが奇跡なのではないかと思えてきた。綺麗な空だ。


「今日はもう遅いから、ここでいい――」


 俺の腕を払い、渚沙は防波堤に腰を降ろした。強い海風に揺れるポニーテールがぼさぼさになっていくのを渚沙は片手で制す。静かに俯く渚沙の足元で厚底サンダルの金色のストラップが上品に艶めく。もう、俺の目の前にいるのは別人の渚沙なのか……。


 虚しさを覚えながらも、俺は渚沙の前で気丈でいようと誓う。
 渚沙の想像通りの男でいようと誓う。


 そして胡乱な目でぱちぱりと瞬きする渚沙が、ようやく口を開いた。


「お母さんとよく話したんだけど、私やっぱり神奈川の学校へ行くことにした」
「…………。ひとりで大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。学校の近くに安いんだけどアパート借りてね……」


 渚沙を喧嘩をしたあの日から、渚沙の進路について独りで考えていた。俺に相談してくれた渚沙の気持ちをくみ取り、どんな決断をしても夢を応援しようと思っていた。


「神奈川の学校に、挨拶もしてきた」


 海風の中でも聞こえる声だが、その態は弱弱しい。口元に笑みはあるものの、まるで心が違うようだった。真っ白なサンダルをしばし見詰めていたものの、俺がそっかと言うと、ぱっと顔を上げる。


「慶介には直接言っておこうと思って……今日、来たの」


 携帯すら圏外になるので、此処の人で携帯を持っている人は少ない。渚沙は勿論持っていないし、持っていた所で俺が持っていない。連絡の取れない中で渚沙はどれだけ俺を待っていたんだろうか。
 僅かに滲んだ嬉々とした態に、俺は少し疑問する。


 渚沙が標準語を喋っている訳でもなく、悲しい表情から何故いきなりそんな感情が出てきたのかという事でもなく。


「それで、俺との関係はどうすんの」


 そういうことだ。


 渚沙はまた俺から目をそらすと、胸元にそっと手をそえた。俺は眉毛をピクリと上げて、渚沙の言葉を待った。身体を小さくするように足を自分の方へと置き直す……。ごくりと喉を鳴らした渚沙は、何かを決意したように頭を上げる。


「私、慶介と別れるつもりない!! 遠距離恋愛になるけど、良かったら私とまだ一緒にいてくれない?」


 迫るような言葉が来たのに、俺は何故か平然としていた。


「私、慶介に怒られたのに神奈川へ行くって決めた馬鹿女だよ。料理もまだまともに出来ないし、生魚だってさばけないし。欠点を上げたらキリがないってくらいの馬鹿女だよ。


 でもね、私は慶介が好き。誰にも負けないくらい」


 俺は興奮している渚沙を治めるように頭を撫で、その唇を塞いだ。渚沙はまたきょとんとなり、俺はその表情に笑ってしまう。


「俺も渚沙のことが好きだよ。遠距離恋愛になっても構わない」


 俺の出した答えだった。俺は静かにもう一度、渚沙にキスをした。
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