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俺の地元
親父と家
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結局、ピンクのグロスは渚沙に返せないままだった。
月の明かりで紫にも似た妖艶な色を放つラメは神秘的でありながら、男を敬遠する存在であるように思える。弱弱しくて、細々していながらもひとつひとつが天の川のように輝いていて。
掌にある未知の領域。どろっとした、血より粘度のある液体はプラスチックの中でゆっくりと揺れている。ラメを溶かすようにどろどろと、それは我が先にと移動しているようで。
返却するつもりが持って帰って来てしまった。どうしたものか。
と言っても、捨てるなんて俺の中に選択肢はない。
坂を降りれば漁師仲間の家が立ち並ぶ俺の近所なのでグロスをしまう。同い年の野郎はいないものの、5つ離れた兄貴分の人がいる。更には6つ離れた姉貴分の人がいる。
気策で話しやすいふたりだが、いじられると厄介だ。グロスの犯人をつきとめて話題にされたらその3倍は厄介だ。広められたら5倍は厄介だ。
海があるからか、山があるからか、田んぼがあるからか、のどかで広く感じるが土地が開拓されておらず実際に移動出来る範囲は限られている。人も少ないからそれぞれが顔見知りだったりする。
俺の親父で言えば、ほぼ全員がツルめる仲だったりする訳だ。という事は、その一部の人から親父の話を聞くこともある訳で。
キャバクラはまだ言ってないと断言しているが、月に1度は母さんと俺を置いて夜行バスへ乗り、カラオケや居酒屋へ行ってひゃっはーしていると聞く。
サザエさんでよく聞いたり目にする、「ご機嫌取りの土産」も勿論ある。
お土産に都会で売っていそうな、ちょっと手の込んだショートケーキを買ってきてくれたりする。メロンを買って来てくれた時もあった。
我が家は変な父さんがいる限り賑やかだ。能天気で中年太りしている父さんがいる限り、俺の家は平和だ。
ポケットの奥底にあるグロスを気にかけながら、
「ただいま」
と言ってサンダルを適当に脱いで、レースのカーテンをくぐる。
ドアは開けっ放しにしておくと海から良い風が入ってくるので、俺の家は通常開けっ放しでだ。開ける必要も閉める必要もない。
家の居間にはテレビを見る父と、晩酌の片付けをする母。居間に酒臭さが充満している。酒を出せという父と、それに何も言わず命令通りに動く母との相性は息子の俺でも何とも言えない。俺は椅子に座り、ごろんと寝転がる親父を呆れた目でみつめる。
親父は毎日の労いか、夜も更けた8時に日本酒を嗜む。小さな升一杯、それが我が家の家計的にもストック的にも限度だ。
ただ他に、もうひとつ問題がある。あのことを思い出すと、途端に口が重くる。でも俺は親父に質問をツいた。
「親父、医者に酒は辞めとけって言われてなかったか」
「いいんだよー。だってさぁ、俺はもう年なんだぜー。死を待つのみの!」
「年だから健康に気遣う……という解釈はないのかよ」
ことん、と俺の前に夕御飯が置かれる。母さん特性のシャケの塩焼き。
定期健診を受けているものの、良い親父の顔をするのは医者の前だけである。テーブルの上にある、紙袋に入っている高血圧予防の薬。1日3回の約束だが、それも紙袋の日時と薬の量が矛盾しているので――守っていないらしい。
薬と親父を両方に目をやると、思わず椅子から崩れ落ちてしまいそうな程だ。呆れるというより、諦めるというより、残念というか……。
ごろごろしている親父に目を細めていると、夕食を用意してくれていた母がこそりと俺の耳元で言う。
「父さんね、あんなこと言ってるけど……、慶介がいないから今日は意地はらずにご飯が喰えるって、今日はちょっと控えめに食べてたのよ」
「ほーう……」
母さんはそう言ってたけど。
さっき……、なのに、
「酒は飲むなんて流石親父だな。“自称酒豪”の、おーやーじー!!」
「なにぃ!?」
父さんはむくりという効果音がつきそうな体勢で起き上がると、真っ赤な顔を隠さずに俺の所へ歩みを進めた。多分、そんな顔になっている自覚がないのだろう。
言ったな、というと俺に遠慮なく首絞めをする。俺はその腕を振りほどこうとぺちぺちと腕を叩いたり、引き剥がそうとしたが酔っ払っているので力加減が出来ていないようである。
俺は抵抗しながらも自然と腕が解けるのを待ち、父さんの笑い声を聞いていた。さほど父からは酒の臭いはしていない。この部屋の方が臭いくらいだ。一体どれくらい水割りしたものを飲んだのだろうか……。
親父は俺が降参と言った呟きを聞き逃さなかった。
「ガハハ、ざまあみろ!」
と決め台詞をするとやんわりと腕を解く。風呂に入ってくる、と言うとドスドス足音を響かせ奥の部屋の闇へと消えて行った。
母さんはそれを見届けると、またコソコソと俺の耳元に口を近づける。
「長生きしなきゃって。
まだ慶介に教えなきゃならない事が沢山あるって言ってたわよ」
心なしか母さんが嬉しそうに見えた。俺の背中をぽんと叩くと、母さんは風呂場へ行って湯を沸かしに行った。
「俺に教えること……ねぇ」
頬杖をついて、親父が俺に何を教えていないかを考えた。煙草の吸い方、女の口説き方、網に絡まった魚の取り方、取引先との交流の仕方。思えば、17歳の半ばで親父に教えてもらったことが――数えきれない程あった。
月の明かりで紫にも似た妖艶な色を放つラメは神秘的でありながら、男を敬遠する存在であるように思える。弱弱しくて、細々していながらもひとつひとつが天の川のように輝いていて。
掌にある未知の領域。どろっとした、血より粘度のある液体はプラスチックの中でゆっくりと揺れている。ラメを溶かすようにどろどろと、それは我が先にと移動しているようで。
返却するつもりが持って帰って来てしまった。どうしたものか。
と言っても、捨てるなんて俺の中に選択肢はない。
坂を降りれば漁師仲間の家が立ち並ぶ俺の近所なのでグロスをしまう。同い年の野郎はいないものの、5つ離れた兄貴分の人がいる。更には6つ離れた姉貴分の人がいる。
気策で話しやすいふたりだが、いじられると厄介だ。グロスの犯人をつきとめて話題にされたらその3倍は厄介だ。広められたら5倍は厄介だ。
海があるからか、山があるからか、田んぼがあるからか、のどかで広く感じるが土地が開拓されておらず実際に移動出来る範囲は限られている。人も少ないからそれぞれが顔見知りだったりする。
俺の親父で言えば、ほぼ全員がツルめる仲だったりする訳だ。という事は、その一部の人から親父の話を聞くこともある訳で。
キャバクラはまだ言ってないと断言しているが、月に1度は母さんと俺を置いて夜行バスへ乗り、カラオケや居酒屋へ行ってひゃっはーしていると聞く。
サザエさんでよく聞いたり目にする、「ご機嫌取りの土産」も勿論ある。
お土産に都会で売っていそうな、ちょっと手の込んだショートケーキを買ってきてくれたりする。メロンを買って来てくれた時もあった。
我が家は変な父さんがいる限り賑やかだ。能天気で中年太りしている父さんがいる限り、俺の家は平和だ。
ポケットの奥底にあるグロスを気にかけながら、
「ただいま」
と言ってサンダルを適当に脱いで、レースのカーテンをくぐる。
ドアは開けっ放しにしておくと海から良い風が入ってくるので、俺の家は通常開けっ放しでだ。開ける必要も閉める必要もない。
家の居間にはテレビを見る父と、晩酌の片付けをする母。居間に酒臭さが充満している。酒を出せという父と、それに何も言わず命令通りに動く母との相性は息子の俺でも何とも言えない。俺は椅子に座り、ごろんと寝転がる親父を呆れた目でみつめる。
親父は毎日の労いか、夜も更けた8時に日本酒を嗜む。小さな升一杯、それが我が家の家計的にもストック的にも限度だ。
ただ他に、もうひとつ問題がある。あのことを思い出すと、途端に口が重くる。でも俺は親父に質問をツいた。
「親父、医者に酒は辞めとけって言われてなかったか」
「いいんだよー。だってさぁ、俺はもう年なんだぜー。死を待つのみの!」
「年だから健康に気遣う……という解釈はないのかよ」
ことん、と俺の前に夕御飯が置かれる。母さん特性のシャケの塩焼き。
定期健診を受けているものの、良い親父の顔をするのは医者の前だけである。テーブルの上にある、紙袋に入っている高血圧予防の薬。1日3回の約束だが、それも紙袋の日時と薬の量が矛盾しているので――守っていないらしい。
薬と親父を両方に目をやると、思わず椅子から崩れ落ちてしまいそうな程だ。呆れるというより、諦めるというより、残念というか……。
ごろごろしている親父に目を細めていると、夕食を用意してくれていた母がこそりと俺の耳元で言う。
「父さんね、あんなこと言ってるけど……、慶介がいないから今日は意地はらずにご飯が喰えるって、今日はちょっと控えめに食べてたのよ」
「ほーう……」
母さんはそう言ってたけど。
さっき……、なのに、
「酒は飲むなんて流石親父だな。“自称酒豪”の、おーやーじー!!」
「なにぃ!?」
父さんはむくりという効果音がつきそうな体勢で起き上がると、真っ赤な顔を隠さずに俺の所へ歩みを進めた。多分、そんな顔になっている自覚がないのだろう。
言ったな、というと俺に遠慮なく首絞めをする。俺はその腕を振りほどこうとぺちぺちと腕を叩いたり、引き剥がそうとしたが酔っ払っているので力加減が出来ていないようである。
俺は抵抗しながらも自然と腕が解けるのを待ち、父さんの笑い声を聞いていた。さほど父からは酒の臭いはしていない。この部屋の方が臭いくらいだ。一体どれくらい水割りしたものを飲んだのだろうか……。
親父は俺が降参と言った呟きを聞き逃さなかった。
「ガハハ、ざまあみろ!」
と決め台詞をするとやんわりと腕を解く。風呂に入ってくる、と言うとドスドス足音を響かせ奥の部屋の闇へと消えて行った。
母さんはそれを見届けると、またコソコソと俺の耳元に口を近づける。
「長生きしなきゃって。
まだ慶介に教えなきゃならない事が沢山あるって言ってたわよ」
心なしか母さんが嬉しそうに見えた。俺の背中をぽんと叩くと、母さんは風呂場へ行って湯を沸かしに行った。
「俺に教えること……ねぇ」
頬杖をついて、親父が俺に何を教えていないかを考えた。煙草の吸い方、女の口説き方、網に絡まった魚の取り方、取引先との交流の仕方。思えば、17歳の半ばで親父に教えてもらったことが――数えきれない程あった。
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