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ノークライ【SIDE: ヴァレンチン】
ジャスト・ア・ブランダー
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ドジを踏んだ。俺はやっぱり本調子じゃなかった。
肝心の場面で、反応がワンテンポ遅れた。
街外れにある廃墟みたいなボロアパートの一階。そこに「教授」が住んでいる。
いつもの手はず通り、ニジンスキーが表のドアをノックしている間、俺は裏の窓を見張っていた。
窓から、白髪を振り乱した、死体みたいに灰色の顔をした醜い男が飛び出してきた。「教授」だ。
俺が銃を抜くのにもたついた一瞬。
相手はいきなり撃ってきた。灼熱のような痛みが左半身に走り、俺は後ろへ吹き飛ばされた。
目を開けると、すぐ近くに、思いつめたような表情のマルクの顔が迫っていた。その背後に、見慣れた船室の薄汚れた天井が見える。
「おい! 顔が近い! 酸素が薄くなるからやめろって、いつも言ってるだろーがっ」
文句を言ってやったのに、マルクの端正な面立ちが、にへらっ、と笑みくずれた。
「よかった。気がついて。……このまま意識が戻らなかったら、どうしようかと思っていた」
その言葉に、苦々しい記憶がよみがえった。
俺は左腕と右脚を撃たれて地面に這い、走り去る「教授」を追うことができなかったのだ。いまいましい。
「教授」を逃がしたのは俺のミスだ。油断したつもりはなかったが、対応が十分ではなかった。
ニジンスキーの知り合いの闇医者に傷の手当てをしてもらってから、どうやって「家」まで帰り着いたのか記憶がない。麻酔の影響かもしれない。ともかく俺は、「家」とは名ばかりの廃船の、ベッド兼ソファとして使っているマットレスに転がっている。ゆるやかな波の上下が体に伝わってくる。
「まだ少し熱があるな。ゆっくり寝ていろ」
ひんやりと感じられるマルクの手が、俺の額に触れた。
寝ていていいのか? 俺は左手首のPDCを確認する。驚いたことに、いつの間にか日付が変わっていた。時刻は正午近い。俺は二十時間近く寝ていたことになる。
やばい、完全に遅刻だ。ニジンスキーからの着信履歴が画面にびっしり並んでる。
「仕事に行かなきゃ」
俺はあわててマットレスから体を起こそうとした。撃たれた箇所にひきつれるような感触があったが、この程度の痛みなら我慢できる。
マルクの巨体がのしかかってきた。
静かに、だが断固として、俺はマットレスに押し戻された。
「おい、何すんだよ、邪魔するな。遊んでる暇はねーんだ」
怒りをこめて睨みつけたが、こちらを見下ろすマルクのまなざしは揺らがない。
「そんな状態じゃ、まだ動くのは無理だ」
「大きなお世話だ。自分の体調ぐらい自分でわかる」
言い返してはみたものの――本当は、万全とはほど遠い。最悪な債務者たちを、いつもみたいに景気よく締め上げられる自信がない。
だが、そんなことを言ってられないのが仕事ってもんだ。
「銃で撃たれるようなところに、おまえを行かせるわけにはいかない」
と、マルクが重々しく宣言した。その声には最終的な響きがあった。
「前から訊こうと思ってたんだが。おまえ、この街で、いったい何の仕事をしてるんだ、ヴァレンチン? 堅気の暮らしをすると言っていなかったか?」
肩をつかまれて近い距離からみつめられるのは、大変な圧力だ。
さすがにもう、ごまかしきれない。二発も撃たれて包帯だらけの状態では、言い逃れは難しい。
「今は金融会社で働いてる。債務者から貸金を受け取る仕事だ。法律には違反していない。堅気だろ?」
「銃やナックルを持ち歩くような仕事が、堅気と言えるか?」
俺が眠ってる間に、マルクは俺の所持品を見たらしい。強い視線の圧に押され、俺の口調は弱々しくなった。
「あと少しだ。本当に、あと少しの間だけだ。今の会社であと一、二か月働けば、戸籍を買えるだけの金が貯まる。そうすれば今度こそまっとうな仕事に就ける……人を撃ったり殴ったりしなくてもいい仕事に」
「わかった。じゃあ、俺も一緒に働く。一人より二人でやった方が、金も早く貯まるだろう」
「だめだ! あんたはやらなくていい」
反射的に、俺は全身で叫んでいた。
こちらを見下ろすマルクの顔に、いぶかしげな表情が浮かんだ。
「なぜだめなんだ。俺は最強だぞ?」
そういう話をしてるんじゃねーんだよ、この脳筋野郎め。
空のように青い瞳に向かって、俺は懸命に訴えた。
「あんたの顔を、悪い意味で売りたくない。経歴に汚点を残しちゃだめなんだ。だって、戸籍さえ手に入れば……あんたはまたアスリートとして活躍できるだろう? 改名でもしたことにして、さ」
「バンパイア・ウィルスの感染者は公式競技には出場できない。そういう規則になっている。基本的な身体能力が非感染者と違いすぎて、公平な競争ができないからだ」
マルクは事実を告げる口調で、淡々と答えた。
いきなり、足元をすくわれたような気がした。その宣告は俺にとって、まったく思いがけないものだった。落胆のあまり目の前が暗くなる。
「そう……なのか? ……あんたはもう、記録を狙ったり……できないのか?」
我ながら、ひどく間抜けな声が出た。
マルクはうなずいた。そして指の背で、そっと俺の頬をなでた。
「罪作りだぞ、その顔は。わかってやっているのか?」
「何の話だよ」
「俺はバンパイアになって、アスリートへの道を失ったが……特に絶望はしていない。代わりに、俺のために悲しんでくれるおまえを手に入れたからな。俺はそれで十分に満たされている」
俺はマルクの手を払いのけた。
「今のセリフだけで、ツッコミどころが三つもあるぞ」
「そうなのか?」
まるっきり理解できない、という風で、マルクはこてんと頭を横に倒す。
この能天気大王め。俺はその鼻先で指を一本ずつ立てた。
「第一に、俺はあんたのものじゃない。第二に、俺はあんたのために悲しんだりしてない。それに……あんなに一生懸命努力してきた目標を失って、絶望しないなんておかしいだろ。ちったぁがっかりしろよ。あんたの脳みそは鳥並みかよ」
マルクは幸せそうに微笑み、何かを言いかけた。
だが言葉が形づくられるより早く、がんがんがん、と船の後方デッキに騒々しい足音が響きわたった。
「起きろ、ヴァレンチン。仕事だ」
聞き覚えのあり過ぎる、低く凄みのある声が響いた。
肝心の場面で、反応がワンテンポ遅れた。
街外れにある廃墟みたいなボロアパートの一階。そこに「教授」が住んでいる。
いつもの手はず通り、ニジンスキーが表のドアをノックしている間、俺は裏の窓を見張っていた。
窓から、白髪を振り乱した、死体みたいに灰色の顔をした醜い男が飛び出してきた。「教授」だ。
俺が銃を抜くのにもたついた一瞬。
相手はいきなり撃ってきた。灼熱のような痛みが左半身に走り、俺は後ろへ吹き飛ばされた。
目を開けると、すぐ近くに、思いつめたような表情のマルクの顔が迫っていた。その背後に、見慣れた船室の薄汚れた天井が見える。
「おい! 顔が近い! 酸素が薄くなるからやめろって、いつも言ってるだろーがっ」
文句を言ってやったのに、マルクの端正な面立ちが、にへらっ、と笑みくずれた。
「よかった。気がついて。……このまま意識が戻らなかったら、どうしようかと思っていた」
その言葉に、苦々しい記憶がよみがえった。
俺は左腕と右脚を撃たれて地面に這い、走り去る「教授」を追うことができなかったのだ。いまいましい。
「教授」を逃がしたのは俺のミスだ。油断したつもりはなかったが、対応が十分ではなかった。
ニジンスキーの知り合いの闇医者に傷の手当てをしてもらってから、どうやって「家」まで帰り着いたのか記憶がない。麻酔の影響かもしれない。ともかく俺は、「家」とは名ばかりの廃船の、ベッド兼ソファとして使っているマットレスに転がっている。ゆるやかな波の上下が体に伝わってくる。
「まだ少し熱があるな。ゆっくり寝ていろ」
ひんやりと感じられるマルクの手が、俺の額に触れた。
寝ていていいのか? 俺は左手首のPDCを確認する。驚いたことに、いつの間にか日付が変わっていた。時刻は正午近い。俺は二十時間近く寝ていたことになる。
やばい、完全に遅刻だ。ニジンスキーからの着信履歴が画面にびっしり並んでる。
「仕事に行かなきゃ」
俺はあわててマットレスから体を起こそうとした。撃たれた箇所にひきつれるような感触があったが、この程度の痛みなら我慢できる。
マルクの巨体がのしかかってきた。
静かに、だが断固として、俺はマットレスに押し戻された。
「おい、何すんだよ、邪魔するな。遊んでる暇はねーんだ」
怒りをこめて睨みつけたが、こちらを見下ろすマルクのまなざしは揺らがない。
「そんな状態じゃ、まだ動くのは無理だ」
「大きなお世話だ。自分の体調ぐらい自分でわかる」
言い返してはみたものの――本当は、万全とはほど遠い。最悪な債務者たちを、いつもみたいに景気よく締め上げられる自信がない。
だが、そんなことを言ってられないのが仕事ってもんだ。
「銃で撃たれるようなところに、おまえを行かせるわけにはいかない」
と、マルクが重々しく宣言した。その声には最終的な響きがあった。
「前から訊こうと思ってたんだが。おまえ、この街で、いったい何の仕事をしてるんだ、ヴァレンチン? 堅気の暮らしをすると言っていなかったか?」
肩をつかまれて近い距離からみつめられるのは、大変な圧力だ。
さすがにもう、ごまかしきれない。二発も撃たれて包帯だらけの状態では、言い逃れは難しい。
「今は金融会社で働いてる。債務者から貸金を受け取る仕事だ。法律には違反していない。堅気だろ?」
「銃やナックルを持ち歩くような仕事が、堅気と言えるか?」
俺が眠ってる間に、マルクは俺の所持品を見たらしい。強い視線の圧に押され、俺の口調は弱々しくなった。
「あと少しだ。本当に、あと少しの間だけだ。今の会社であと一、二か月働けば、戸籍を買えるだけの金が貯まる。そうすれば今度こそまっとうな仕事に就ける……人を撃ったり殴ったりしなくてもいい仕事に」
「わかった。じゃあ、俺も一緒に働く。一人より二人でやった方が、金も早く貯まるだろう」
「だめだ! あんたはやらなくていい」
反射的に、俺は全身で叫んでいた。
こちらを見下ろすマルクの顔に、いぶかしげな表情が浮かんだ。
「なぜだめなんだ。俺は最強だぞ?」
そういう話をしてるんじゃねーんだよ、この脳筋野郎め。
空のように青い瞳に向かって、俺は懸命に訴えた。
「あんたの顔を、悪い意味で売りたくない。経歴に汚点を残しちゃだめなんだ。だって、戸籍さえ手に入れば……あんたはまたアスリートとして活躍できるだろう? 改名でもしたことにして、さ」
「バンパイア・ウィルスの感染者は公式競技には出場できない。そういう規則になっている。基本的な身体能力が非感染者と違いすぎて、公平な競争ができないからだ」
マルクは事実を告げる口調で、淡々と答えた。
いきなり、足元をすくわれたような気がした。その宣告は俺にとって、まったく思いがけないものだった。落胆のあまり目の前が暗くなる。
「そう……なのか? ……あんたはもう、記録を狙ったり……できないのか?」
我ながら、ひどく間抜けな声が出た。
マルクはうなずいた。そして指の背で、そっと俺の頬をなでた。
「罪作りだぞ、その顔は。わかってやっているのか?」
「何の話だよ」
「俺はバンパイアになって、アスリートへの道を失ったが……特に絶望はしていない。代わりに、俺のために悲しんでくれるおまえを手に入れたからな。俺はそれで十分に満たされている」
俺はマルクの手を払いのけた。
「今のセリフだけで、ツッコミどころが三つもあるぞ」
「そうなのか?」
まるっきり理解できない、という風で、マルクはこてんと頭を横に倒す。
この能天気大王め。俺はその鼻先で指を一本ずつ立てた。
「第一に、俺はあんたのものじゃない。第二に、俺はあんたのために悲しんだりしてない。それに……あんなに一生懸命努力してきた目標を失って、絶望しないなんておかしいだろ。ちったぁがっかりしろよ。あんたの脳みそは鳥並みかよ」
マルクは幸せそうに微笑み、何かを言いかけた。
だが言葉が形づくられるより早く、がんがんがん、と船の後方デッキに騒々しい足音が響きわたった。
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