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5:二人きり

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 さて。
 ゴクリと唾を呑み込みます。

 もはや小説の続きが気になるのと同じほどの好奇心に満ちています。いえ、もしかするとそれ以上かもしれません。

 自らの関与する話というものは、作り話よりも遥かにずっと興味そそられてしまうものなのです。
 もしかすると今のわたしは、必死すぎて目が血走っているやもしれません。

「……そんなにいうなら」

 おずおずとエルム王子が手を差し出します。
 ふむ……、こちらを取れと……?
 良いものか悪いものか悩みます。まるで頭の中で天使と悪魔がせめぎ合っているかのよう。
 そして――

「――!」

 わたしの天使は容易く負けました。好奇心に負けました。

 ヒシと掴んだ手は、何とも滑らかで大きなものでした。そして、とても冷たい手なのでした。

「じゃあ、取り敢えず」

 バッと風にでも押されるようにバルコニーへの扉が独りでに開きます。

「……へ」

 間抜けな声をあげている間に、エルム王子は寝台より降りて立ち上がり、わたしの手を引いておりました。

「行こっか」

 瞬間、背より突風が吹き上げ、押し出されるようにバルコニーまで導かれました。
 爽やかに花のように笑んだエルム王子は、軽々とわたしを抱きかかえます。

「あ……あの! お身体に!」
「障らないよ」

 余裕綽綽な笑みと同時に、身体が浮き上がるのを感じました。
 温かくはありません。普通に寒いです。
 というか……。

「~~~~!」

 ものすっごく怖いです!

「あっ、見てみて! 君のいるセール教会ってあの辺じゃない?」

 まるで車窓を楽しむように、緩ーく話しかけられます。しかも、わたしが答えないものだからと、片手をするり離し……。
「ほら、あそこ。あの湖の……」
 わたしの背がかつてない開放感に晒されます。

「ちょ、ちょっと、す、すみませんが、勝手に、は、離さないでいただけますか⁉︎」

 ごめんなさい、ごめんなさい。と内心で猛謝罪します。本来であれば、もっと丁寧に淑女然として立ち振る舞うべきでしょう。
 しかし、皆を魔から救う聖女というものは、決して空を飛べる存在ではないのです。
 地に足つけて、闘う存在なのです!

「あー、ごめんごめん。高いとこ嫌いだった?」
「嫌いと言いますか……」

 これはという概念なのでしょうか……?
 空の上は、高いところ……?
 否、わたしにとって、この雲を下に見るような高度感は、別世界のように感じられるのです。

「き、嫌いではありませんがぁ……」
「そ、よかった」
「何故このような場所に……」

 問うた言葉にエルム王子はあっさり答えます。

「ほら、他の人に聞かれちゃ恥ずかしいし」
「恥ずかしさで人は飛べるのですね……」
「何それ、面白いこと言うね」

 いえ、分かってますよ。本来の仕掛けなど。これは魔術です。それもかなり高度な術なのでしょう。エルム王子の多才の中に、魔術も含まれていることなどは有名な話ですから。

「まぁ、何、君と僕の関係っていうのはさ」

 渋っていた割には、サラリと話し出したエルム王子を見上げます。雲上であまりに静かだからでしょうか、不思議とエルム王子の表情が切なく見えました。

「一目惚れだね」
「……」
「一目惚れ」

 言い聞かせるように、もう一度わたしに言います。

「あ……はい」
「覚えておいてね」
「それは……もう……」

 勉学と力の研鑽、そして任務に明け暮れたわたしのこの十六年。『一目惚れ』などと容姿を褒められたことがありません。ましてや、真っ直ぐに好意を向けられたことなどもありません。
 その初めてが一国の王子だとは……。
 忘れたくとも、そう忘れられることではないでしょう。

「あれ? もしかして両想い?」

 この方、正気でしょうか。
 一目惚れという割には、果てしなく軽い口調です。これが世に聞く……?

「……違います。ですが、ひとつお聞きしても?」
「いいよー、何でも。君の問いには、何でも答えるよ」

 いいながら、ゆっくりと雲の間を揺蕩います。

「殿下は、何故聖女わたしをお呼びになったのですか?」

 高官聖女大聖女ではなく、とまでは聞きません。何故なら答えは分かりきっていることなのです。
 答え――というより、どう答えるか。
 知り合って間もないエルム王子のことですが、わたしは凡そ想定できました。
 だって、それ以外の理由など、何処にも見当たらないのですから。

「君に会いたくてね」

 こうやって話したかったんだよね。
 そんなことを、エルム王子は微笑みながら続けます。
 理解はできます。立場がある故、自由な面会は限られるのでしょう。きっとご友人との交流なども限られるのでは……、などと推察します。
 しかし、納得はできません。
 看過もできません。

「殿下」

 この恐ろしい高度を忘れ、わたしはきつく目を尖らせ進言します。

「以後は、必ず、見合った方をお呼び立てください」

 軽ーく空なんか飛んでしまうくらいです。エルム王子に魔術に係る慧眼がないはずがありません。

「けれど、君は僕を救ってくれたね?」
「結果論です」
「んー……」
「もし、もしも……、万が一また凶悪な呪いや魔の物に侵される時があったとして、わたしなどをお呼びになった時は決して駆けつけません」

 えーー! とエルム王子は子供のように不服を露わにします。けれどころりと表情を替え、

「ま、いっか。もう二度とないだろうし」

 なんて楽観的なことを。
 本当に分かっているのでしょうか?
 念を押しておきましょうか。

「良いですか、命を守る選択をしてください。命あればまた会う機会などいくらでも作り出せるのですから」
「なら、君もだね」
「……?」

 クスと笑ったエルム王子は、一度天を仰ぎました。

「ま、そうだね」 

 これは身に染みていませんね……?
 問答を説きたい気分にもなりますが、流石にこの場では……。

 それに、こんな抜けた調子であってもエルム王子の才覚は、わたしを遥かに凌駕するもののはず。つらつら説き聞かせずとも分かってくださっている……はずなのです。

「じゃ、そろそろ行こっか。何処行きたい?」
「……何処、行きたい?」

 はて、とは?
 普通に考えれば、このまま先ほどの部屋へと戻るはずなのですが。

「んじゃ、適当にカラムマラン辺りで」
「えっ」

 カラムマランとは、エルム王子の座すガルディア王国の隣の隣の……そのまた隣の隣の国――フィズ共和国なんて遠い国の首都です。つまり、普通に旅です。海外旅行です。

「ちゃんと掴まってー」
「ちょ……待っ――あぁぁぁぁ!」

 こんなにも巨大で荒々しい転移魔法というものは、わたし史上初めての体験でした。
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