一人夜行 ~お人好しぬらりひょんの妖魔奇譚~

稲葉りん

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第三話 忘れられた優しさ

(一)

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【五月某日 昼休み 第三図書室】

昼休みにも関わらず人の気配のない図書棟の、普段は誰も使わない倉庫代わりの部屋の中、八雲と澪の二人は無言のまま昼食をとっていた。はやくも習慣になっていたそのランチタイムには、普段とは異なり竜次の姿がなかった。早朝に雨が降っていたためにできなかった飼育小屋の掃除をしに行くと言って、遅れる予定だったのだ。

「……。」

「……。」

竜次を抜きにすれば一緒に昼食をとるなど考えられない二人は、気まずい空気の中で話さなくてもいい理由を作るため、黙々と食を進めていた。

「……ねぇ、ひとつ聞きたいことがあるんだけど。」

しかし澪の豪華な弁当と比べると極めて質素なサンドウィッチを食べ終えてしまった八雲は、無言に耐え切れずに堰を切った。

「なんだ?」

「ぬらりひょんの能力、あれって何なの?」

「そういうことはお前の方が詳しいはずだろう。そこにいても不思議に思われず、しかしそれが誰であるのか知るものはいないという有名な話通りの能力だ。なぜそんな当たり前の子をを聞く?」

澪はあきれ顔で眉をひそめる。

「そっちじゃなくて、あのトンネルで使ったほうの話よ。あの夜、本家のぬらりひょんも式神を払いのけるのに使った、あの爆発みたいなやつ。」

澪はさらに深く眉をひそめた。

「なぜ私が若のそのような重大な秘密をお前などに漏らすと考えているんだ?」

八雲のこめかみでピキッと音が鳴った。

「このまえ押川さんの家でやるべきことも忘れて、ただたらふくご飯食ったあげく最後の最後まで寝過ごしてた阿呆の鬼さんはどこのどいつだったけ?」

「ぐっ」

「あげくの果てにその大切な大切な若様にまで迷惑かけちゃって、腹切るーって泣きながら叫んでたのは誰だったけなぁ、ちょっと思い出せないなぁ?」

八雲はねっとりとした目で澪を撫でまわした。耐えかねた澪は「やはりあのとき若に止められる前にお前を殺しておけば良かった。」と小声で呟いた後、観念したかのように箸をおいた。

「……まぁいいだろう、どっちにしろ私はあの力については何も知らない。」

「はぁ?ぬらりひょんとは何百年って付き合いがあるのじゃないの?」

「いや、実際のところ明治のはじめ、我々が人成りとなるとき初めて同じ場所に居合わせたくらいだ。その時には大変失礼ながら、ぬらりひょん殿がその場にいることすら知らなかった。それから今に至るまで、ぬらりひょん殿とは数えられるくらいしかお会いしたことはない。」

八雲は明治という歴史的な言葉が経験談の中で現れることに舌を巻いた。

(明治、人成り、儀式……知らないことが多すぎる。)

神出鬼没な斑鳩とはトンネル以来、音信不通になっていたため、八雲はそれから独自に資料をあさってみたものの、人成りに関する目ぼしい記述はほとんど見当たらなかった。

「じゃあぬらりひょ……竜次とはいつ会ったの?どうしてあんたはあいつと一緒にこの学校にいるわけ?」

「おい質問は一つじゃないのか?」

「さっきのは答えられなったからノーカンよ。それになんであんたがここにいるかは、会った時の話を聞けば大体わかるでしょ?それでこの前の件はチャラにしてあげる。」

「……ちっ」

苦虫をかみつぶしたような顔で舌打ちをした後、澪は語り始めた。

◆ ◇ ◇

夏の暑さがほとばしりを抑え始めた、そんなある日の午後。四方を背の丈より高い塀に囲まれた広大な日本家屋の門前に、場違いとしか言いようのないほど庶民的な一組の親子の姿があった。

「お父さん、お友達のおうちってここ?」

「う、うん、そうだよ。言われた住所で間違ってないから、間違ってないよね、これ?」

父親はポロシャツの胸ポケットから雑におられた紙を取り出しては、落ち着きなく何度も紙に書かれた住所と目の前にそびえたつ、およそ民家のものとは言い難い巨大な門を目で行き来していた。

そうこうしていると、目の前の門が音を立てて内側から開かれた。「わっ」と声に出して驚いた父親とは対照的に、息子の方は中の光景に目を丸くした。

門前からまっすぐと石畳が敷かれていて、その導く先には一切の無駄を排した、簡素でありながら荘厳な平屋の日本家屋が構えていた。そして何よりも、その石畳の両端には黒服の男たちが均等に並んで、親子に向かって敬礼をしていたのだった。

「お待ちしておりました。どうぞこちらへ。」

門を開けたと思われる黒服の一人が慇懃な礼をした後、親子を館の方へと促した。言われるがまま親子は離れまいと後に続いたが、父親の方は黒服の人数よりも明らかに多く、ぺこぺこと礼を返していた。

土間から縁側、いくつかの座敷を経て、ようやく目的地と思われる奥座敷の襖が開かれた。

部屋の中央には胡坐をかいていながらも、座高だけですでに委縮している父親より大きいのではないかと思われる大男が待ち構えていた。そしてその横には美しい黒髪を一つに結った優美な少女が凜と正座をしていた。

「こっ、この度はお招きいただき、まことに……」

父親が例のごとくあわただしい口調で言いなれない挨拶をしようとしたとき、大男は無言のまま右手の平を挙げて、言葉を制した。なにか下手なことを言ってしまったのではないかと、父親は恐怖のあまり口を押さえる。

大男はおもむろに片膝をつき、それからゆっくりと立ち上がると、その身の丈はおよそ常人の規格を外れており、三メートルはゆうにあろうかという屋敷の天井をもってしても、少し窮屈に見えるほどだった。その巨体を揺らし、ゆっくりと親子の前まで動かすと、大男は無言のまま静止した。

肌には深くしわが刻まれ、白髪を交えた立派なひげを蓄え、その彫りの深い眼が恐怖で完全に縮こまった父親を見降ろしている。唾を飲み込む音すら許されないほど、空気が張り詰めた。

そして次の瞬間、そこにいた全員が目を疑った。

大男が父親の前にひざまずいて、あろうことか床に頭を付けたのだった。

「この度はわざわざご足労いただき、誠にありがとうございます。」

地の底からなるような重々しい低音で男は丁寧に礼を述べた。

「おっ、親方様!一体なにをされているのですか?」

先ほどの澄ました表情とは打って変わって、傍らに座っていた少女は動転した様子で尋ねた。すると、大男は家が揺るがんばかりの大声で盛大に笑い始めると、頭をあげた。

「そう狼狽えるでないわ、荊木よ。この御方はな毎度会うたびにこの調子であるから、こうでもして揶揄いたくなってしまうのだ。ほれ、みてみい。」

かの父親は、男の声などまるで聞こえない様子で、目の前で土下座をされたことに未だにわたわたと、せわしなく慌てつづけている。その横で、息子の方はまるで動物園の象を間近に見ているようなキラキラした目で一部始終を見ていた。
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