闇鍋という名の短編集

悠木全(#zen)

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死なせない死神

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 彩子あやこは腕に抱えた乳飲み子をあやしながら、途方にくれていた。昔から優しかった彼が、結婚した途端、豹変した。殴る蹴るなどはしないが、いつも冷たい目をして、何も言わずに会社に行ってしまう。会話もほとんどなく、仕事から帰ると彩子を家政婦のように扱った。

 あまりにも寂しい日々に嫌気がさす中、子供が生まれた。これで彼が変わってくれると思っていたが、そうでもなかった。子供に対しても冷たい眼差しは変わらない。まるで、本当に自分の子かと、疑われているような顔をしていた。不貞を働くなんて、そんなはずもないのに。好きだった仕事を辞めて子育てに専念するようになって、日々の辛さが増した。だが相談する家族も友達もいない彩子には、救いなどなかった。
 誰もいないところに行きたいと思った。ただいなくなりたいと思った。夫にいないものとして扱われている時点で、自分が無価値に思えて、生きる意味がないように思えた。離婚という選択肢もあったが、どうしてかそれができなかった。
 彩子が生きるか死ぬかを考えて、ぼんやりと公園の滑り台を見つめていると、ふいに知らない老人がやってきた。
 彩子の隣に座った老人は、裕福さを象徴するような白い背広を着ていた。なんとなく居た堪れなくなった彩子は立ち去るか悩むが、そんな気力もないことに気づく。すると、老人は彩子に話しかけた。
 
「あなたは迷っているのですか?」

 ドキリとした。老人の言葉が何を指しているのかはわからなかったが、まるで彩子の心を見透かされたような気がした。
 なんと返して良いのかわからない彩子が黙っていると、そのうち老人は静かに続けた。

「あなたの気持ちはあなたにしかわからないものです。一度、声に出してみてはいかがでしょうか?」

「どういう意味ですか?」

 声を出すこと自体が久しぶりだった彩子は、自分の張りのない声に驚きながらも、それ以上言葉にすることはできず。次の言葉を待っていると、老人はかすかに笑った。

「あなたの世界は今、辛いことばかりかもしれませんが、外には幸せもありますよ。こんなことを言うのは反則なのですが、あなたを幸せできるのはあなただけなのですから」

「よく、わかりません。私は私を幸せにする自信がありません」

「まあ、どうしてもと言うのなら、私が連れていっても良いのですが、あなたにはまだ可能性がある。好きな仕事もあり、大切な子供がいる。だったら、幸せを導くのは意外と簡単なのかもしれません」

「どうしてあなたは……そんなことを知っているのですか?」

「ああ、申し遅れました。私はこういう者で」

 老人は立ち上がると、彩子に向かって一枚の名刺を差し出した。そこには、死神・フクロウと書かれていた。

「死神……? なんの冗談ですか?」

「冗談ならよかったんですけどね。私は本当に死神なんですよ。あなたが死を選んだとき、私が連れていくように言われているんです」

「私が死を……」

「ですが、私も若い人を連れて行くのはあまり好きではないんですよ」

「どうしてですか? 辛いなら、若さなんて関係ないでしょう?」

「若い人の可能性を、潰したくはないのです」

「私にそんな可能性なんてありません」

「いいえ。そんなことはありませんよ。楽しく仕事ができる可能性、大人になった子供と幸せになる可能性。一人で心が弾むような旅をする可能性。これが今のあなたにある可能性なのです。捨ててしまうには、少々勿体無いように思えます」

「でも、私は今苦しいんです」

「だったら、逃げておやりなさい。全てから。それができないのなら、いつでも私は待っています」

 そう言って老人は消えた。本当に死神だったのかはわからなかったが、彩子には、その老人が死神だろうとなんだろうと、どうでもよかった。
 ただ、話を聞いてくれた。それだけで心が救われた。
 たとえ死神でも、見守ってくれている人がいたと思うと涙が出た。

 それから彩子は夫を同居する他人と割り切って、子育てを楽しむことにした。辛いことも多かったが、仕事を再開すると多忙で悲しいどころではなくなった。時間がないと辛いことも忘れられるものである。ひたすら忙殺されることの、どこに幸せがあるのかはわからないが、自分が活き活きしていることはわかった。老人の言葉が刺さったわけではないし、死神を今になって怖いとさえ思った。だがきっかけにはなった。
 それから数年が経って、彩子は離婚を決意する。別れたところで、夫が変わることはなかったが、彩子の生活に変化はあった。誰かの顔色をうかがう生活ではなくなった。それだけで、彩子の中の何かが変わった。
 そして結局、死神が本物かどうかは、寿命を終えるまでわからなかった。
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