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2巻
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川島比奈は同じ会社の牧田を呼び出し、二人でカフェに来ていた。篠原壱哉とのことを、誰かに聞いてほしかったのだ。
ここは以前、彼とよく来ていた店。恋人だった頃の思い出がいっぱい詰まったこの場所には、壱哉がアメリカへ行ってからは牧田と来ることが多かった。
比奈は牧田に促され、ことのなりゆきをどうにか話した。
壱哉は幼馴染である健三の兄で、比奈が初めて心から好きになった男性。商社に勤める彼のアメリカ転勤が決まった時、遠距離恋愛をする自信がない、と比奈が言い出して、結局別れてしまった相手だ。渡米して間もなく、彼はアメリカ人の女性と結婚したと、健三から聞かされた。付き合っていた当時、別れを切り出したのは比奈だが、壱哉の結婚の事実を知った時は、身を切られるような思いだった。彼がすでに自分とは違う新しい道を歩み出しているという事実が辛かった。まだ恋に臆病になる気持ちはあるものの、やっと心の傷が癒えてきたと感じていた矢先――思いがけず再会してしまった。
牧田に誘われて行ったホテルで開かれたお見合いパーティー。そのホテルにたまたま仕事で来ていた彼と再会した。それがきっかけで壱哉に誘われ、翌日二人でディナーに出かけた。そこで比奈は壱哉に「ずっと忘れられなかった」と言われたのだ――
壱哉と食事に出かけたあの日から、二日が経っている。
牧田は比奈の話を聞き終えると、小さくつぶやく。
「会ったのね」
比奈は何も言えなかった。会うな、と牧田には言われていたのだ。けれど、比奈は会いたい気持ちに負けてしまった。
「それで?」
二人でディナーに出かけた日、比奈が奥さんのことを聞くと、壱哉は薬指の指輪を外して、半年前に離婚したのだと告げた。長く身に着けていた証に指輪の跡が残っていて、彼が他の女性と共に歩んできた月日の長さを感じさせられ、比奈は苦しかった。だが同時に、彼が指輪を外した瞬間、ふっと心が軽くもなった。
「壱哉さん、離婚してました」
「……そうなの?」
たいして驚いた様子もなく、牧田はコーヒーを飲んだ。
「何もされなかったの?」
「どうしてですか?」
「好きな女が目の前にいて、自分はすでに独り身。つまり、縛る鎖はないはずなのに、どうして何もしないのかな、と思って」
淡々と言う牧田の言葉に、比奈は少し赤くなる。
「壱哉さんは、そんな人じゃありません」
壱哉はそんな人じゃない。いきなり手を出したりするような人ではない。
比奈は短い付き合いをしただけだが、それはよく知っている。
恋人として付き合った期間は短くても、彼のことはよく知っているから。出会ったのは比奈が中学生のころだ。出会ってからを計算すると十年以上。
だからわかるのだ。壱哉はいくら以前付き合っていたからと言って、何かをするような人ではない、と。
「あらそう。でも私は篠原さんのこと、そんなに知らないから」
「目蓋に指で触れられただけです」
「本当にそれだけ?」
恋人同士だった時、壱哉は比奈の目蓋をよく撫でていた。そんな壱哉の手を、比奈は目蓋を震わせながら受け入れていた。そしてそのあとは、必ずキスをされた。
だから今回も、もしかしたらキスされるかも、と思わないわけではなかった。もしそうなったらどうしようと、期待と不安に心臓がうるさいほど高鳴っていた。
けれど壱哉は何もしなかった。目蓋に触れるだけで満足したように、笑顔を浮かべて言ったのだ。
「家まで送るよ」と。比奈は小さく息を吐き、彼に住所を教えた。
「それで、車で送ってもらった、と?」
「そうです。本当に他には何もされてないし、電話番号さえ聞かれなかった」
電話番号も聞かれなかったことで、比奈は内心がっかりしていた。
好きだと言ったくせに、壱哉はどうして行動を起こしてくれなかったのか。あのホテルのエレベーターの中での告白は、比奈の聞き違いか、それとも壱哉は過去形で話していたのか。
「もしかして、すでに他に好きな女性がいるのかも。離婚して半年だもの、もしそうだったとしても、早すぎるってことはないわ」
「……そうかもしれません」
やはり壱哉のあの言葉は過去形、あるいは嘘だったのだろうか。
期待してしまった自分が悲しい。
「どうしてそんな泣きそうな顔するのよ。自分で言っておいて」
「してませんよ」
「いーや。きっと店を出たら泣くわ」
牧田にそう断言されて、比奈は下を向く。
「……わかった。まだ好きなのね? いいんじゃないの? 独身になったんだから」
牧田の励ましの言葉に元気づけられ、比奈はやっと顔を上げられた。
「電話番号を聞かれなかったなら、どうして自分から聞き出さなかったの?」
「……そんなこと、できません」
「できるとかできないとか、そんなことばかり言うの、そろそろやめなさい。来年には三十歳になる大人の女でしょ? 電話番号を聞くくらいのことで、モジモジしてたらダメ」
比奈には、自分から電話番号を聞いた経験なんてない。たとえそれが好きな相手でも、聞かれなかったら仕方ない、と今までずっとあきらめてきた。
けれど今は、壱哉の気持ちを信じて、一歩踏み出してみたい思いもある。
『迷惑かも知れないと思ったけど、比奈さんが好きだから会いたかった』
あの日、壱哉から言われた言葉――。比奈の知っている彼は嘘をつかない。
だから、「好きだから会いたかった」と言われた時、嬉しかった。
この人は今も自分のことを思ってくれているかもしれないと思ったのだ。
比奈があれこれ思案していると、牧田はおもむろに携帯電話を取り出し、誰かにかけだした。
「もしもし、健三君? 篠原さんの電話番号が知りたいの。個人情報? しばくわよ」
あまりの行動の早さに、比奈は驚いて牧田を見た。
「私が電話するのよ。いけないの? うん、うん、わかった。じゃあ、またね。今度また飲みにでも行きましょ」
そう言って牧田は電話を切り、ナプキンに書いた番号をプッシュする。
「牧田さん、あの、何をしてるんですか?」
「篠原さんに電話するの」
「いいです、かけないで!」
「どうして? 好きなんでしょ? やり方が強引なのはわかってるし、こういうことしたくないけど。でもね、私はあなたが大切だし心配なの。前の彼氏が忘れられなくて、電話番号も聞けなくて泣きそうになってるところを、放っておけないから」
出ないわね、と言って牧田は終話ボタンを押し、テーブルの上に置く。そうして一度ため息をつき、比奈を見つめた。
「こういうことは本来、比奈ちゃんがするべきことだと思う。彼のことを本当に思っているなら、これくらい頑張ってほしいと思う。今の比奈ちゃんなら、きっと踏み出せる。以前ほど人見知りをしなくなった。笑顔も可愛くなった。篠原さんとつきあうようになってからだわ」
牧田はにこりと笑って、比奈の頭を撫でた。
「前に私、篠原さんに言ったの。『あなたは比奈ちゃんの人生に影響を与える人だ』って。比奈ちゃんが英語の先生になったのも、雰囲気が柔らかくなったのも、あの人がきっかけでしょ。あの人ときちんと恋愛をして、確かに別れは辛かったと思うけど、それもひとつの経験だと思う。既婚者を好きになるなんてダメ、って言ったけど、離婚したなら別にいいと思うわ。好きなら、頑張りなさい」
比奈の目から小さな涙がポロリと落ちた。
「これくらいで泣かないでよ。大丈夫、比奈ちゃんなら」
比奈は涙を拭き、笑顔でうなずいた。
牧田もうなずいて、比奈の手を握る。
そこで、牧田の携帯電話が鳴った。牧田はちらりと比奈を見ながら電話に出た。
「もしもし……牧田です」
比奈の心臓が高鳴る。きっと相手は壱哉だ。
「この前は久しぶりにお会いしたのに、ご挨拶もせず失礼しました。ええ、そうなんです、電話番号を健三君に聞いて。個人情報だぞってぬかしましたけど、強引に聞き出しました。ご迷惑でしたか?」
牧田が笑顔になって、比奈を見る。
「今、お仕事中ですか? そう、それならよかった」
牧田はうなずきながら、比奈のほうへ身を乗り出す。
「あ、ちょっと待って下さい」
牧田が電話を差し出す。比奈は一息のんで、電話を受け取り、耳に当てる。
『もしもし?』
壱哉の声が比奈の耳に直接響く。この前にこうやって電話で話をしたのはいつだっただろう。
『……比奈さん?』
「はい」
電話口で、少し笑う気配がした。
『どうした?』
「……いえ……別に」
牧田が「別にじゃないでしょ」と言って比奈を見ている。
「ま、牧田さんが、かけたんです。それで、私がそばにいたから……お仕事中、ですよね?」
『残業なんだ。別に電話は構わないよ。……牧田さんに代わってくれる?』
比奈は何も言わずに、電話を牧田に向けた。
牧田は不満そうな顔をして受け取ると、壱哉と二言三言話してから電話を切った。
「比奈ちゃん、あんたちゃんと話しなさいよ、まったくもう」
「……ごめんなさい」
「まぁ、いいわ。篠原さん、ここに来るって。私は帰るから、待ってなさいよ」
「え? あの、どうしてそういうことに」
「篠原さんが、場所を教えてって言うから教えたの。比奈ちゃん、きちんと自分の気持ちを伝えなさいね」
牧田はにこりと笑い、一人で先に帰った。
まもなく壱哉はここへ来るだろう。壱哉が来たら何を話そうか、と比奈は思いをめぐらす。
つきあっていた頃は、何を話すかなんて考えたことはなかった。しかし、いつも話題を提供するのは壱哉で、比奈から話しかけたのは、三度に一度あるかないかだった。
比奈は、今度こそ自分から話しかけようと思いつつ、「先日はごちそうさまでした」と切り出すか、それとも「牧田さんがいきなり電話してすみませんでした」とでも言おうか、と迷っていた。
あれこれ考えているうちに、壱哉が到着した。仕立てのよいスーツにきっちりと締めたネクタイ。手にはネイビーブルーの革のブリーフケース。今日はコンタクトなのだろう、メガネはしていない。
壱哉は比奈を見つけると軽く手を上げ、カフェの客の視線を一身に集めながらこちらに向かってくる。遠目にも壱哉はカッコ良かった。どこから見ても、上等な男そのものだった。
「比奈さん」
壱哉は微笑を浮かべる。
「お仕事はいいんですか?」
比奈は話しかけた。
「残りは明日で大丈夫。それより、比奈さんが何か話したそうだったから」
「電話番号、牧田さんが勝手に健三から聞き出してしまってすみません」
「ちょっと驚いたけど、別に構わないよ」
「牧田さんって、実はもう『牧田さん』じゃなくなったんですよ。……結婚して水沢さんになったんです。私は今も牧田さんって呼んでますけど」
「そうなんだ。時間の流れを感じるな」
「職場では今も牧田姓で通しています。名前を変えるの面倒だからって」
壱哉はうなずいてから、コーヒーを買ってくる、と席を立った。
その間に比奈は今の状況を頭の中でまとめた。
『好きなら、頑張りなさい』
牧田が言った言葉を反芻する。
その間に壱哉はコーヒーをたのみに行ったようで、トレイに載せて戻ってきた。彼は、砂糖とミルクは少量の苦めの味が好みだった。比奈はうんと甘いコーヒーが好きだけれど。
「何か言いたいこと、あったでしょ?」
「……はい」
そう言って比奈は壱哉の左手の薬指を見つめる。指輪を着けていた跡は、すっかり消えていた。その様子に、ホッとする。
「新しい……携帯の番号、聞かなかったのが気になっていて。聞けば良かったなって」
比奈は、やっとの思いでそう言った。壱哉はブリーフケースから携帯電話を取り出す。
「赤外線で送っていい?」
比奈はうなずく。『篠原壱哉』と設定してあるナンバーとメールアドレスが比奈の携帯に登録された。
「いたずら電話はしないように」
「したことないでしょ? っていうか、用事がなければ電話しないし」
そう言ってしまってから、比奈はまた可愛くない発言をしたことに気づく。でも壱哉は穏やかに笑っている。
「じゃあ、僕からもかけるから番号を教えてくれるかな」
比奈も赤外線で自分の番号を送った。
「ひな、って平仮名だけ?」
「牧田さんが設定してくれたままになっているんです。私、あまり携帯電話をいじったりしないから」
壱哉は携帯電話を操作し、そしてフリップを閉じる。
電話番号とメールアドレスの交換が終わると、もう話題がなくなってしまう。
「電話番号を聞きたかっただけ?」
「そうです……いや、あの……」
言いたいことがあるのに、どう話を切りだしていいかわからない。
「本当は、僕も聞こうと思ってたことがある。この前のディナーの帰り、比奈さんは車をさっさと降りて、早歩きで家に帰っちゃったから。送られるのが、よっぽど嫌だったのか聞きたかった」
「違います。……あの時は、緊張していて。それに、猫が待っていたし」
「猫? 飼ってるの?」
「はい。ミラっていう名前の三毛猫です。拾ったんです……だからマンションもペットが飼えるところに移ったんですよ」
「なるほどね。そうだったのか」
壱哉は、苦笑しながら言った。
「実はアメリカに行ってから、比奈さんに連絡を取ろうとしたことが三回あった。一度目はコールはしたが比奈さんは電話に出なかった。二度目は携帯電話が解約されていた。そして三度目に連絡を取ろうと思った時、健三に相談した。健三が言ってたよ。比奈さんは僕からの電話を待つのが辛くて携帯を解約した、って。君が住む場所を変えて、髪も切ったっていうことを健三から聞いた。健三に、どうしてもって言うなら連絡をとってやる、と言われて、諦めてしまったんだ」
比奈が携帯電話を解約した理由は、新機種への交換よりも新規買い替えのほうが安かったからである。壱哉からの電話を待つのが辛くて解約したわけではない。
比奈は、壱哉に新しい番号を伝えようと思ったのだけれど、壱哉のアメリカの連絡先を健三に聞くことはなぜかためらわれたのだった。
「君に辛い思いをさせて悪かったと思っていて、四度目のチャレンジはしなかった」
「壱哉さんが私に連絡をとろうとしていたなんて、全然知らなかった。私だって、結婚してしまった元恋人に、連絡なんかできない」
そうして比奈がうつむくと、壱哉が口を開く。
比奈は顔を上げて、壱哉を見た。どこか寂しいような笑みを浮かべる。
「そうだね。でも、結婚生活は思うようにいかなかった。最後の半年くらいは、別居だったな」
別居と言った時、壱哉は少しだけ目を伏せた。
「別居、ですか?」
「そうなんだ。せっかく好きな人と結婚したのに努力が足りなかったよ」
好きな人と結婚した、というそれに胸の痛みを覚える。壱哉は比奈以外の人を好きになって結婚した。それはしょうがないことだと思う。別れたのだから、結婚したって文句は言えない。
しかし本当に好きな人だったから。比奈にとっては心から好きになった、初めての人だから。だから胸が痛む。
胸の痛みはしょうがないことだけど。
「後悔してますか?」
比奈が聞くと壱哉は首を振った。
「遅かれ早かれこうなっていただろう。別れたこと自体は後悔してないんだ。お互い、これでよかったと思う。僕は君を忘れられなかったからね」
後悔はしていない、と言える壱哉は大人だ。比奈は壱哉と別れて後悔だらけだった。
壱哉と再会した日のお見合いパーティーでは、誰に声をかけられても、たいして話せなかったし、ブルーのスーツを着ていた壱哉を思い出すばかりだった。
愛に誘われて行った合コンパーティーでも、さんざんだった。会ったばかりの人に突然キスをされて、目に触れられて、不快な思いをした。
「比奈さんを忘れられなかったけど、彼女との生活は楽しかった。毎日、お帰りと言ってくれる人がいるのは、幸せだと思えた。ただ、自己主張が強いところもあってね。合わせるのは大変だったよ。その大変さを思うと、君への思いも思い出す時が多くなった。ある意味、彼女との結婚生活では学ぶことも多かったね」
「学ぶこと?」
「そう。感情的な喧嘩の仕方、とか。感情的になることはあまりなかったし。文化の違う異国の人との共同生活とか、他人に合わせるということの難しさ。こっちばかりが折れるのは、かえって悪いんだって思ったりしたしね。全寮制の学校に行っていたから協調性はあるほうだと思っていたけど、男と女では違うことも多いから」
「壱哉さんでも感情的になることあるんだ?」
比奈が言うと、壱哉が苦笑して「そうなんだ」と話を続けた。
「いい意味で、彼女から引き出された感情なんだ」
そう静かに言った壱哉の顔は、遠くアメリカへ思いを馳せているようにも見えた。
「別れる時はさすがに感情的になった。喧嘩になって頬を張られて、僕は君の写真を、ゴミ箱に捨ててしまった。その後も何度も話をしたけど、ダメだった。結果、アルバムがなくなっても、いつまでも比奈さんへの思いを忘れられない僕がいた」
壱哉と比奈はあまり写真を撮らなかった。その数少ない写真を、互いに大切にアルバムにおさめていたことを思い出す。けれど、それを渡米の時にまで持って行っていたなんて思わなかった。持って行ったとしても、結婚する時には捨ててしまうのがけじめなのではないだろうか。
「アルバム、持って行ったんですか?」
「写真は捨てられなくてね。でもそれが見つかってしまって。夫婦仲がぎくしゃくしていたところへ、喧嘩の種がまたひとつ増えたという感じだった。僕は、一度はゴミ箱に捨てたアルバムを、また拾って家を出た」
比奈には、壱哉が感情的に喧嘩をする姿など想像できなかった。比奈はいつも壱哉の掌の上で転がされているような感じで、喧嘩になりようがなかった。怒るのはいつも比奈のほう。壱哉も多少は気分を害しているような時はあったが、たいていは、冷静に比奈を操っていた。
「できれば、もっと……そう、彼女と向き合って、もっとよく話し合って、お互い歩み寄ればよかったと後悔する気持ちもある。先に家を出てしまった僕の我慢が足りなかったのかもしれない。でも、あの時はあの時で一生懸命だったし、そんな自分達が最善だと信じた結果だから、結婚も離婚も後悔していない。本当にこれでよかったんだ」
比奈と別れた頃よりも、壱哉はさらに柔軟な考え方になっている。
比奈とつきあっていた頃の壱哉は、こんなに穏やかに自分の悪いところをさらけ出すことはなかった気がする。比奈の前で、他の女の人の話をすることもなかった。
でも今、壱哉は正直に元妻のことを話している。感情が高ぶったり心が揺れているような様子もない。
比奈はそんな風に正直に話してくれている壱哉に、心が動いていた。彼の真摯な態度は、比奈に対する告白のようにも思えたからだ。
比奈に真実を話す壱哉は、誠実だと思えた。
つきあっていた当時、壱哉は喧嘩になりそうになると、比奈をベッドに誘った。比奈は、何だかセックスで誤魔化されているような気がしていたが、壱哉にこう言われたことがある。
『君には手をあげられないし、怒鳴るのも嫌だ。それだけ君を好きだから。喧嘩するくらいなら、身体で発散したほうがいい。そうすれば、どれだけ相手のことを思っているか確かめられる。もし嫌いだったら、僕の行為を受け入れられるはずがないでしょ。比奈さんはそういう人だから』
この言葉を聞いて、比奈は真っ赤になった。
面と向かってそんなことを言われれば、誰だって赤面するに決まっている。
だけど壱哉は臆面もなくそう言う。そんなストレートで情熱的な物言いに、この人の祖先には絶対ラテン系の人がいるはず、と想像を巡らせた。
そして今、比奈は改めてこう思うのだ。
この人が好きだ、と。
「君の好きな人は、どういう人?」
不意に聞かれて、比奈は焦る。
この前食事をした時に、好きな人がいる、と壱哉に言ったのだ。
「教えてほしいな」
「もったいないので、教えません」
「もったいつける意味がわからない」
「意味なんて、わからなくていいです」
「僕の知っている人?」
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