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3巻
3-1
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藤崎改め、星奈万里緒になり、まだ一年も経っていない。
結婚により、姓が変わっても万里緒は万里緒で、何も変わらない日常を過ごしている。
夫の名前は星奈千歳。可愛い感じの名前だが、身長も高く、職業は素晴らしい腕を持つ外科医。それこそ、万里緒にはもったいないくらいの人で、大学病院の信頼も厚い、優秀な医師だ。
万里緒自身、消化器内科医という職業であり、同じ職場だからこそ、余計に夫の仕事ぶりがすごいのがわかる。
しかも、かなりの人格者で、怒ったところは見たことがない、というほど穏やかな人だ。だから、喧嘩になるのは、やっぱり万里緒が原因のような気がする。なのに、いつも彼の方から折れてくれて仲直り。自分も千歳のようになれたら、と毎回万里緒は反省するのだった。
そうはいっても、万里緒と千歳はなんだかんだでラブラブな新婚生活を送っている。
クリスマスには一緒に旅行へ行くことになっているし、エッチにも満足している。
ところが、つい先日、そんな千歳と甘い時間を過ごしたあと、衝撃の告白をされた。突然アメリカで医師免許の更新をしてくる、と言われたのだ。
ついでに、研修もこなしてくるから、二ヶ月はアメリカで過ごすことになる、と。
寝耳に水の発言に、万里緒はしばし呆然と固まるしかない。
当然、心の整理なんか、すぐにつけられるはずもなく。
こうして、万里緒はせっかくのクリスマス旅行を前に、優しくてイケメンで優秀な夫の千歳のことを考えて、悶々とした日々を過ごしていたのだった。
もちろん、旅行は楽しみでもあるのだけれど。
* * *
消化器外科の医師、星奈千歳は、十二月に入ってすぐに休みを申請した。
平日に三日間のリフレッシュ休暇。もっと一緒に色々なことがしたいという妻のために、クリスマスに旅行の予定を入れたのだ。同じ職場なので一緒にいる時間があるように見えるが、夫婦として過ごす時間は少ない。どこかに行こうと決めなければ、きっといつもと変わらず適当に寝て過ごすに違いないから。
「休みは大丈夫。三日間取らせるよ、星奈」
医局長室で話があると言われて何事かと思ったら、医局長の鈴村から直々にそう言われた。何か面倒なことでも言われるのだろうかと思っていたからホッとした。
「ありがとうございます」
千歳は軽く頭を下げた。
「星奈万里緒とどこかで過ごすつもりなのか?」
消化器外科と消化器内科は密接な関係にあるので交流も多い。そのため、結婚により星奈が二人になった今、万里緒は大概フルネームか旧姓の藤崎と呼ばれている。
「そうですね」
「ひそかに彼女を狙ってたやつも多かったんだぞ。既婚者の俺でも藤崎万里緒は目を引いてたからなぁ。朗らかで明るいし、何よりビキニ姿がそそる」
万里緒のビキニ姿の話は本当によく聞く話だ。
千歳も新婚旅行のときに初めて見たのだが、スタイル抜群のビキニ姿には瞬きを忘れて見入ってしまった。
あまり女の裸に興味のなかった千歳が、思わず動いてしまうくらいにそそられた。だが、万里緒は千歳の妻なのだ。他の男から、妻の身体を色目を使って見ていると言われて面白いはずがない。
「その辺も決め手です」
知らず声に不機嫌さがまじっていたのか、医局長が苦笑して言った。
「……悪かったよ。そう怒るな。とにかく、休暇は大丈夫だから」
「ありがとうございます。じゃあ、これからオペなので」
「例の食道がんか……」
「はい。大丈夫です、きちんと術後回復させて、症例の成功率を上げますから」
E大病院は食道がんの手術例は多いが、その内回復して社会復帰する率は七割程度。つまりそれだけ難しい症例なのだ。だからこそ、病院はその成功率を上げたいと思っている。
千歳が言うと医局長は腕を組んで笑う。
「星奈が言うと、本当にそうなりそうだな。美山教授がお前をこっちに来させたかったのもわかるよ。……ここを辞めたりしないよな? 藤崎は何か言っているのか?」
万里緒は、実はE大関連病院の院長の娘なのだ。彼女の叔母が、懇意にしている消化器外科の美山教授に姪の見合い相手を相談し、白羽の矢が立ったのが千歳だった。万里緒と見合いしたのは、そうしたしがらみがきっかけではあったが、あくまでもきっかけに過ぎない。
「彼女と結婚したから、この病院にいるわけではありません」
辞めたりしないか、という言葉には、なんとも答えられない。
「じゃあ、いつか、ここを出ることもあるのか?」
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「美山教授から言われてね。今の学部長の定年に伴って、次期学部長候補に美山教授の名も挙がってる。それに勝つためには、星奈の力が必要だそうだ」
美山教授が医学部長の候補に挙がっているのは知っていた。美山教授の率いる消化器外科の功績が良いのが主な候補理由。学部長になるからには、それだけの経営手腕や部下を率いる能力も必要とされる。つまり、教授の今後を左右するのは、消化器外科の功績次第と言うことだ。
そのためだけに千歳が呼び寄せられたとは思ってないが、この大学に引き留める意図はわかる。
「研修医の頃から、星奈は違っていた。度胸もあって、手技は確実に覚えて学習した。知識も豊富、選ばれてアメリカ留学も果たした。正直俺よりも、素晴らしい医師になったと思っている。わかっているか、星奈。お前が辞めたらうちの科は極端に傾く」
「……医局長、僕は辞めるとは言ってません」
辞めるとは言ってない。なのにどうしてそんなことを言われるのかわからない。
「藤崎と結婚した時点でお前が簡単に辞めるとは思ってないさ。だが、辞めるなよ星奈。お前がいてこその消化器外科だからな。他の誰も、お前の代わりにはならないんだから」
万里緒との結婚は、美山教授にとってそれだけ意味のあることだったのだろう。
「藤崎と結婚したのは、藤崎の実家も視野に入れてるからだろう? 見合いで、ただ好きだから結婚したなんてことは、ないと思っている」
病院から引き留められるのは、それだけ医師として頼りにされているからだ。医師としてそこまで来たのかと思うと、研修医時代の大変だった時期も報われる思いがする。
しかし、大切な家族となった万里緒のことまで、変な意味にとられるのは気分が悪かった。
「お前が休暇を申請すれば優先する。そうしろと言われているからな。むしろ俺もそうしたい。星奈を手放せないからな」
こんな病院だっただろうか、と千歳は思った。
自分が医師になったのは、ただ学校の成績が良かったからだった。そして、病気で亡くなった母のような人を助けられるなら、と消化器外科の医師になった。医師になって、功績を上げ、留学をさせてもらい、海外支援活動にも行かせてもらった。E大病院には、本当にたくさんの経験を積ませてもらった。それだけ医師を育てるということをしてくれる病院なのだと思っていた。
「……休暇の件、ありがとうございます」
「いや、いい。こっちこそすまなかったな、こんな話をして」
「いえ」
千歳はどうにか笑みを浮かべた。失礼します、と言って医局長室を出る。
部屋を出た瞬間、大きなため息が出た。なんとも言えない、気分の悪さを感じる。
「ただクリスマスを過ごすだけで、なんでこんなこと」
余計なことを言わないのは、千歳の大人としての処世術のようなもの。
万里緒のことを、まるで千歳を引き留めるための道具のように言われたのが、何とも腹立たしかった。確かに、美山教授から万里緒との見合いを打診されたとき、何か含みがあることはわかっていた。もしこのまま万里緒と結婚したら、ということを全く考えなかったわけではない。
けれど、そんなことが気にならないくらい、彼女のことを好きになってしまった。万里緒を煙草臭くしたくないという理由で、ずっと吸っていた煙草をやめようと考えるくらいには、大切だった。
それほど大切な万里緒との結婚を、打算的にとらえられているというのが、本当に気に食わない。もしかすると、医局長以外にも、自分たちの結婚はそう思われているかもしれない。それを万里緒が感じているのだとしたら……
そうだとしたら、あの千歳に遠慮してばかりの行動にもうなずける。
打算なんてない。ただ好きで結婚しただけ。
それなのに、周りの思惑はそうではないということを、今日改めて実感した。
千歳は深いため息とともに、万里緒を思った。同じ院内で働く妻は、何をしているのだろうか。今すぐ万里緒に会って、万里緒を抱きしめてキスをしたいと思った。
だが、仕事場でそんなことができるわけもなく、もう一度、ため息。
仕方なく千歳は、このイライラを静めるために喫煙所に向かった。
万里緒のためにせっかく禁煙しようと思っているのに、なかなか上手くいかないなと思いながら。
2
あと一週間と少しでクリスマスイブという年の暮れ。
「五年早いぜ、スーパー●リオ」
「何でですか」
星奈万里緒が医局に戻ってすぐ、同僚のベテラン医師の阿部から言われたのは休暇のこと。まだ申請しただけなのに、なんでもう知っているんだと聞きたい。
「後輩がいるからってな、まだ五年目のペーペーがクリスマスを休むなんて、早すぎる」
万里緒と夫の千歳はそろって、二十三日は仕事で日直をすることになっている。しかし、その翌日の二十四日から、夫婦水入らずで二泊三日の旅行を予定していた。場所は箱根のオーベルジュ。オーベルジュというのは、簡単に言えば、宿泊施設のついたレストランのことだ。
「それ、どういう根拠があるんですか? だいたい、私がクリスマスを休むって、なんで阿部先生が知ってるんですか?」
「医局長に聞いたからだよ。星奈と出かけんのかよ」
「そうですよ。出かけますよ、旦那さんですもん」
十年早いと言われたのは、きっとクリスマスを二十四、二十五と休むからだ。
「クリスマスに出かけて、何するんだよ? ヤルために行くのか?」
「ち、違いますよ! もう、セクハラです! 箱根へは、温泉につかりに行くんです!」
万里緒が赤くなって否定すると、阿部は鼻で笑った。
「星奈にも言ったけどさ」
「はぁっ!? 何て?」
「マリオはクリスマス休むらしいけど、二人でよろしくしてくるのか? って」
万里緒の顔が引きつった。あまりのことに返す言葉が出てこない。
どうしてそんなことを言うのだろう。この人が万里緒の先輩じゃなくて、ついでに腕も悪かったら、どついてやるのに。
「星奈笑ってたぜ。相変わらずストレートに言いますね、ってさ」
阿部は、はっ、と力なく笑って万里緒を見る。
「星奈って昔から、からかえねーんだよなぁ。何言っても穏やかに言い返すし。こっちがからかってるのわかってるから、まともに相手しないんだろうけどさ。お前、星奈が旦那で満足か?」
万里緒は眉を寄せる。
「満足ですよ」
「マジで?」
「だからなんで、そういうことばっかり言うんですか……やめてくださいよ」
「星奈がヤってるところ想像つかないんだよ。まぁ、あれだけイイ男だし童貞なわけないと思うけどさぁ。お前と結婚もしてるんだし」
もうやだ、と思ってため息をつくと、医局のドアを誰かが叩いた。
ん? と思って振り向くと、そこには多少呆れた顔をしている夫の千歳が立っていた。
片手にはカルテ。万里緒は思わず目を見開く。
さっきの話聞かれてた? なんてこったい!
「阿部先生に紹介された患者の詳しい情報を聞きに来たんですけど」
「おお、噂をすれば影?」
阿部が笑いながらそう言った。
けれど患者のことにはまじめな阿部は、医局の応接セットに千歳を座らせると、カルテを見ながら詳しく患者について説明し始めた。
ひとしきり話を聞くと、千歳はカルテを持って立ち上がる。
「ラウンドしてきます」
そんな千歳に、クールだねぇ、と阿部がすかさず言う。
「マリオがいるのに、スルーか?」
「仕事中にイチャついてもいいなら、そうしますけど」
千歳が万里緒を見てにこりと笑う。その笑顔、素敵すぎ。
「じゃあ、またね、万里緒」
そうして千歳は、あっさりと消化器内科の医局を出ていった。
マジでスマートすぎる、と思っていると、阿部が肩をすくめる。
「星奈とお前って、仲良いのか?」
「何でですか」
またか、と思いながら聞くと、だってさ、と言った。
「星奈とお前、見合いじゃん。お前と結婚したら、星奈はこの病院辞め辛いだろうし。辞められないと思うからさ」
「星奈先生は、この病院を辞めたいなんて、言ったことないです」
「違うって」
阿部は手を振って笑いながら、万里緒を見る。
「お前、藤崎病院の娘だろ。で、叔母さんは成瀬中央病院の院長夫人。ある意味、ここの附属病院的な病院の娘を振るなんてありえんだろ。で、結婚したからには、辞めようと思っても辞められないだろうな。お前のバックがデカすぎて」
確かに千歳が万里緒と見合いしたのは、そうしたしがらみがあったからだと聞いている。
だけど万里緒と結婚したせいで、この病院を辞めようと思っても、辞められなくなったなんて思ったこともなかった。
「そうでしょうか?」
「そうだろうよ。星奈、好きで結婚したのか怪しいよなぁ。あの通り、お前の前では淡白だし?」
周りから言われると途端に不安になってしまう。でもプライベートの千歳はそんなことない。万里緒だけが知っている千歳は、淡白じゃないと思う。
「ちゃんと、好きで結婚しましたよ。なんでそういうこと言うんですか? 信じられない」
「だって、お前いきなり星奈みたいなイイ男捕まえたからさ。まぁ、悪かったよ。そんなマジな顔すんな」
マジな顔しますよ、と思いながら少しだけ笑って見せた。
以前の万里緒だったら、あからさまに落ち込んでいたと思う。でも、今はそうじゃないことがわかっているから。
千歳は万里緒のことが好きだとわかっている。
ただ、いつも思うのは、千歳はE大の看板にもなっている優秀な医師で、万里緒はごく平凡な内科医であるということ。
スーパードクターの千歳の傍にいて引け目を感じてしまうのは当然。初めて仕事を一緒にしたときからそうだった。
お互いが好き合って結婚したのは間違いないが、万里緒が藤崎家の娘だったから千歳と会えたというのも確かだと思う。
千歳の隣にいる自分には、一体何があるのだろうかと思ってしまう。
もうすぐクリスマスというのに、少しだけ悲しくなった。
* * *
そんな思いを抱えながら家に帰ると、千歳が何故か荷造りをしていた。
明日は土曜日で、確か午前中のみの出勤だと言っていた。万里緒も同じだから覚えている。
「星奈先生、どこか……行くんですか?」
荷物のサイズから、来月のアメリカ行きの荷造りではないと思って聞いてみる。
「ストレス発散を兼ねて、北海道までスノボをしに行ってくる。日曜の夜遅くまで家を空けるから」
いきなりじゃないですか? という言葉をなんとか呑み込んで、万里緒はソファーに座り、スーツケースを閉める千歳の後ろ姿を見た。
「あの、ボードとかは?」
そういえば、趣味はスノボと登山と言っていたような気がする。しかし、一緒に住むこのマンションで、スノーボードの板を見たことはない。
「ボードは知也の実家に置いてもらってた。引き取りも兼ねて遊んでくる」
知也というのは、万里緒の大学時代からの友人である来生知也のことだ。実は千歳とも同じ病院で働いていたことがあり、仲がいいとあとから知った。
「早く言ってくれればいいのに。一日前に伝えるっていうのはだめだと思います」
万里緒が言うと千歳はスーツケースを立てながら、ごめん、と言った。
「昨日急に思い立ったんだ。万里緒は当直明けで寝てたし、今日は出勤したからね。言うのが遅くなってごめん」
気を遣ったような言い方をして、千歳は万里緒の頭を撫でた。頭を撫でてもらうなんて、この人以外にしてもらったことがない。でも、こういうときはズルい動作だと思う。
「私、お留守番ですか?」
「そうだね」
にこ、と笑って言うので、本当にズルいと思う。万里緒はその笑顔に弱いから。
「もし一緒に行っても万里緒は暇だと思う。僕と知也は上級コースで滑るし、知也の彼女はスキーだけど、やっぱり同じ上級者コースだから」
「千幸ちゃんも行くんですか?」
「うん。万里緒は滑れないでしょ? ウエアもないし」
ええ、もちろん滑れませんとも。だけど、万里緒は滑れないでしょ、ウエアもないし、と当然のように言われてちょっとだけカチンときた。滑れないからって、何も言わず、いきなり明日行ってくる、と一日前に言うのは、酷いんじゃないですか。
「お昼から行くんですか?」
「いや、朝から。休日出勤の代休が残ってて、早く取ってくれって言われたから、明日取ることにした。万里緒より早く出るから、起こしたらごめん」
半日勤務だと言っていたのに、わざわざ休みを取るほどスノボがしたかったのだろうか。ストレス発散も兼ねて、と言ったからきっとたくさん身体を動かしてぱーっと発散してきたいのだろう。
その間、万里緒は一人で留守番。
なんでいきなり決めてしまうのかな、と思う。確かにストレス発散は必要だけど、普通奥さんに何の相談もなく、勝手に決めるか? と心の中で愚痴った。
千歳にもきっとストレスを発散したくなるほどの何かがあったのだろうけれど。
一体何があったの、と聞ければ奥さんとして上等なのだろうが。
今の万里緒はどうしても感情が優先して、つい拗ねたように言ってしまう。
「そうですか。じゃあ、いってらっしゃい。私、今日は自分の部屋で寝ますので」
そうして立ち上がり、なるべく千歳の顔を見ないように自分の部屋へ行こうとすると、後ろから千歳に腕を引かれた。
「万里緒、急に決めて悪かったよ」
万里緒が不機嫌になったのを、千歳は察しているだろう。だけど、謝られたところで今の万里緒の気分が良くなるわけはない。
「別に、私ってば星奈先生の奥さんだけど、プライベートにまで口出ししたりしません。それに、私は星奈先生の趣味にはついて行けませんもの。来週はオーベルジュに連れて行ってくれるそうなので、それに期待します。じゃあ、おやすみなさい」
我ながら、こんなことでここまで拗ねることもないだろうと思うのだが。
でも、千歳はどうせ万里緒にはできないことだから、と勝手に決めつけて行ってしまうのだ。自由なところのある千歳だからしょうがないのかもしれないけれど。
ため息を吐いて、できるだけ優しく腕を振りほどくと、もう一度腕を引かれる。
「万里緒、ごめん」
「いいですよ、もう」
「いいですって顔じゃないよ」
「でも、いいんです! 行ってきてください。最近、確かに休みなく働いてるし、息抜きは必要ですもん」
眉を寄せていた千歳は、少し考えるように瞬きをしたあと、掴んでいた腕を放した。そのまま、万里緒の後頭部に手をやって引き寄せてくる。顔が近づいて、キスをされるのだとわかった。
でも、こんな気持ちでしたくなかったから、腕を突っ張って拒む。けれど、その腕ごと千歳に抱きしめられた。
「や……ん」
深いキスをされて、強く抱きしめられる。何度も角度を変えて目がくらむようなキスをされ、もう限界というときにようやく解放される。
「急に決めて悪かったよ。本当にごめん」
抱きしめられたまま言われて、万里緒は唇を噛む。
千歳にもいろいろあるのだろうから、ここは普通に送り出すべきだとわかっている。
千歳は家で仕事の話をしない。きっと万里緒以上にストレスのたまることも多いのだろう。千歳が仕事の話をしないのは、もしかすると万里緒に対する千歳なりの配慮なのかもしれない。
「いいんです、本当に。行ってきてください。ストレス発散でしょ?」
こんなことくらいで拗ねるなんて、本当に馬鹿だと再認識。
千歳の腕から出ると、万里緒は安心させるように笑みを浮かべる。そして千歳に、おやすみなさいと言ってから自分の部屋に行った。
ドアを閉めてベッドにダイブする。当直明けで仕事をしてきた身体は限界だった。
「明日から星奈先生いない。寂しい……」
素直にこう言えばよかったのかもしれない。さっきのやり取りは初めから喧嘩腰だった。
ただでさえ、万里緒は千歳と釣り合わないのでは、と思っていたときだっただけに、なんだか落ち込んでしまう。
千歳はいつだって優しい。なのに、万里緒は千歳に迷惑をかけて、些細なことで怒って、拗ねるだけ。
そんな万里緒をいつも許してくれているのだから、千歳が出かけたいときには、自由にどこへでも行かせてあげればいいのに。
本当に自分は心が狭いなと思いながら、万里緒は目を閉じた。
* * *
「万里緒、行ってきます」
自分のベッドで寝ていた万里緒は、千歳に頭を撫でられて、行ってきますと言われたところで目が覚めた。
「星奈先生?」
「明日帰ってくるから」
そう言って、千歳は万里緒の額にキスをした。それから頬に手をやって、唇を重ねる。
「……っん」
唇を挟み込むようなキスをされたあと、一度だけ舌が万里緒の舌に絡まって離れた。
朝にしては濃厚なキス。
「も、一回」
目を開けて千歳を見上げると、苦笑した顔。
「もう一回だけ」
「わかりました」
千歳が身を屈めて、二人の唇が重なる。万里緒から舌を絡ませて、千歳の背を撫でる。
唇を離し間近で見つめ合った。万里緒はそっと口を開く。
「昨日は、ごめんなさい……千歳」
「悪いのは僕の方でしょ? 急に決めてごめん」
万里緒の大好きな笑みを浮かべた千歳に頬を撫でられる。そうしてもう一度、濃厚にキスをされた。
すでに身体の中が疼くようになっていて、キスが気持ちよくて仕方ない。
「だめだな、離れがたくなる」
濡れた音を立てて唇が離れた。離れがたくなると言ってにこりと笑う唇が光っている。その唇を拭ってやって、万里緒は言った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
千歳は明日には帰ってくるのだから。
そう思いながら部屋のドアを閉める背中を見送る。
「馬鹿だなぁ、私ってば」
もうすぐクリスマス。その日は千歳と一日中一緒にいられるというのに。
時間は朝の六時半。
ちょうどいい時間だと思いながら、万里緒は身体を起こして、身支度を整えるために自分の部屋を出た。
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