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第七十六話(籠鳥雲を恋う)

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何の日かは知らないが、今日は日付の赤い日でつまりは休日。三連休三日目の月曜日だ。
本来なら子供やその保護者達でごった返す賑やかで騒がしい園内は、不気味に感じるくらい閑散としていて、放し飼いにされているウサギ達だけが自由に、拘束されることなく、陽気にぴょんぴょん跳ね回っていた。
キリンやゾウやライオンといったメジャーで巨大で迫力のある生き物を間近で双眸に映した日影は、思わず自分の少年時代を追憶し心を踊らせる。
それこそ、昨日遭遇した謎の生物の存在を一時的に忘れられそうなくらいには……。

俺達に与えられた仕事内容は、合わせて四つだ。一つは園内のあちこちを徘徊するウサギの餌やり+園内の掃き掃除。二つ目は最近飼育員が退職して担当が不在となっているマレーバクの小屋の掃除。此処までは飼育員でもない素人にも可能な作業だと思ったが、問題は三つ目に課せられた内容だ。これを聞いた全員が気後れしたのは間違いない。
どうせならもっと人気のある動物の世話をしてみたかったものだが、他の動物は人の手が足りていて、任せられる仕事はそれくらいしかないらしい。

「カバの歯磨きとか……あのおばやん気は確かか?」

カバの歯磨きは噛まれる危険があるが故に、担当の飼育員が気後れし何年も放置された状態らしい。
ちなみに、ツクネに「おばやん」と命名されたのはおそらく還暦前後のおばさん飼育員。名を節子。お仲間のおっさん飼育員達からは親しみを込めて「せっちゃん」と呼ばれている。これまたおそらくという表現にはなるが、この職場のアイドル的存在なのだろう。見たところ紅一点で、若い職員は一人もいないみたいだし。いつの頃か、ルナと二人で行った老人ホームとどことなく雰囲気が似ている。

ーーとまあ、そんな何の得にも為にもならないプチ情報はさておいて。

誰が、噛まれたり、飲み込まれたり、食べらたり、様々な危険を覚悟して、カバの小屋へ向かうかだが……、善く善く考えてみりゃ「一番適任な奴が一名居たな」と自然にそいつに目が行った。

「ねぇ日影。カバに噛まれたら痛い?」

超能力使いであるツクネに熱い視線を送っている最中、無邪気な疑問を投げかけてきたテイルに俺は、

「痛いなんてもんじゃ済まないと思うぞ。腕を噛みちぎられるかもしれないし、下手をすれば命はないかもな」

別に、怖がらせるためにふざけて言った訳じゃない。どっちにしてもこの中で一番小柄で力の弱そうなテイルにカバの世話は荷が重いだろうな。本当なら男の俺が勇気を振り絞って挙手する場面ではあるのだが、如何せんちょっと、いや……かなり怖い。情けない話だが、アンドロイドみたいな身体の万か、念動力が生殺与奪に使えるツクネにお任せしたい気持ちで一杯だ。この際、ツクネの馬鹿をおだてまくってその気にさせてやろうか。

「なあ、ツクネさん。天才で頭の切れるお前なら超能力使ってカバの動きを止められるよな。俺が思うに四人の中じゃ一番お前さんが適任だし、怪我をすることなく作業を進められる気がするんだが、そこんとこどうよ?可能?無理?」

「ふ。ようやくお前もあたしの偉大さに気付いたようだな。この世にツクネちゃんに出来ないことなんか何一つ存在しない。正にその通りだ」

「じゃあ、お前がカバ担当な」

「でも、ただ単純にやりたくねぇな。だってさ、カバの口の中ってめちゃくちゃクセーじゃん。気絶するくらいクセーんだぜ。きっとゲロ吐いた時みたいな激臭がするんだ。兎にも角にも尾籠だし、想像したら余計に無理だわ」

「おいこら。カバを謗るのはよせ。ゲロとか汚いとか先入観で物を言うなよ。カバの口の中は多分あれだ…………き、きしりとーる。キシリトールだ。キシリトールの匂いがするに決まってんだろ…………俺の見立てではな」

「日影の言う通りだよ。僕もカバさんの悪口を言うのはよくないと思うな。それと、女の子が「ゲロ」とか言っちゃダメ」

カバの口の臭いなど嗅いだ経験が無いから分からんが、キシリトールは絶対にないな。自分で言っておいて何だが、仮に口臭を気にするようなしっかり者のカバだとしても、寝ても覚めても「出来るものなら働かずに暮らしたい」と公言する放縦なツクネさんはこんな面倒そうな仕事を進んで引き受けたりはしない。品行方正な万とは雲泥の差だな。 

ーー俺の交渉は無駄に終わった。


***********************


これは後に判明した仰天の事実なのだが、カバの担当者で歯磨きに気後れしていたのはあのおばさん飼育員「せっちゃん」だった。
せっちゃんはぐずぐずして中々自分の持ち場を決められない日影達に痺れを切らして、それぞれに無差別に仕事を割りあて始めた。
その結果、合計四頭のカバの待つ小屋へ直行することになったのは喜ばしいことに日影の願ったり叶ったりのルートになった。
ツクネの不服な表情+蹌蹌踉踉と洗車用ブラシを持って足を運ぶ姿が2時間経った今でも目に焼き付いて離れない。

「ふわぁ~。あったか~い……」

現在、日影はテイルと共に動物園内を適当に掃除しながら、そこら中を跳ね回るウサギ達に餌を与えて回っている。散策しながら種類豊富な動物を無料で眺められるとは、久しぶりに役得を感じた。
バクとカバという好き嫌いの見解が分かれそうな、マイナーな動物一頭限定で向き合わなければならない二人には悪いとは感じながらも、日影は愛らしいウサギとのふれあいを思う存分に満喫していた。
スティック状にカットした野菜をもしゃもしゃと頬張るウサギは人間慣れしている様子で、テイルに抱っこされる形になってもそこから逃げ出そうとする素振りはなく、とても大人しい。
そんな微笑ましい相棒の姿を、ベンチに腰掛けて見守る日影は、まるで我が子を寵愛する母親のようだ。

「……ほんと、何だったんだろうな。あいつ……」

休憩中に気を抜いたからだろう。
瞬間的に、脳裏にフラッシュバックしたのは忘れようと遠くに追い遣っていた昨日の記憶だ。

日影は三人に「もう一人のテイル」を目撃したとまだ話せていない。混乱や動揺や気持ち悪さが綯い交ぜになって、どう説明して良いのか纏まりがつかなかったからだ。相談していたとしても、獣耳や髪や目の色が赤っぽかったとか、一瞬目を放した途端に消えたとか、荒唐無稽に聞こえる彼の主張を三人は信じてくれるだろうか?

「日影、何か昨日から元気ないよね」

「ん……そうか?テイルにはそう見えてるんだな……」

「ウサギさん抱っこする?可愛いよ?」

テイルが浮かない顔をしている日影を気にかけて、胸に抱いていたウサギを手渡してくる。いつの間にか、二人の腰掛けるベンチの周りを数多のウサギ達が集まって囲繞していた。

「皆ね、日影が元気ないの心配してたんだよ。このウサギさんが特にね「あのにいちゃん元気ないなぁ。どないしたんやろ?具合でも悪いん?」って、思いやりのある優しい言葉をかけてくれたの。すごいよね、まだ今日あったばかりなのに……」

「このウサギが俺をそんなにも?……っていうか、どうして関西弁風?心配してくれるのは有難いけど、ちょっとばかり誇張し過ぎじゃ…………あ、あれ、ちょっと待てよ…………」

思わずゾッとする程に、テイルが具体的にウサギの発した言葉を捉えて俺に伝えている様な気がした。

ーー聞き間違いじゃないよな?

これじゃまるで、人と動物の間で話が罷り通っているようじゃないか。
何だろう。摩訶不思議だ。
テイルが俺の中で、突然に、唐突に、動物と人間の言葉を理解出来るバイリンガルと化している。
こういうのを破天荒っていうのかもな。少なくとも俺は動物と会話可能な人間を生で見たことは一度もない。

「……すげぇ。お前、動物の言語が理解出来るのか?一体いつから?生まれつきか?」

「……えっとね、多分この耳が生えてからかな?お魚とか虫の言葉も分かるよ」 

「魚と虫もか。そりゃ面白そうだ。そんな能力が俺に備わってたら虫を潰したり魚を捌いたりが一切出来なくなるかも知れないな。いくらこの世が弱肉強食で溢れ返っていてもさ「助けて」とか「見逃して」とか頼まれたら、殺す何て無理だろ?自分がやられて嫌なことは可能な限りしないってのが一番だよな」

「日影はほんとーに優しいよね。初めて会った時から今日までずっと何にも変わらない。テイルが普通の人と違う変な容姿をしてるって知ってからも、嫌な顔一つしないし何日も何十日も気兼ねなく家族と同じ様に接してくれた。一緒に居てくれて隣に居てくれた。世界中の人が皆日影みたいに寛容で親切だったら良いのにな。……そしたら……テイルは死刑にならずに済んだかも知れないのに」

ーーテイルが明確に弱音を吐いたのは今回が初めてだった。

いつもは明るく振る舞って死刑何てへっちゃらだと平然としていた彼女もやはり他の生き物と同様で、死ぬのは怖いんだ。初めて会った際に聞いた「別に。怖くない」何て台詞はただの強がりだ。死ぬには必ず何かしらの痛みを伴う。死ぬのが怖くない奴何ていない。俺だって嫌だ。俺はテイルに、どんな言葉を返してやればいい。こんな時に気の利いた言葉が中々みつからない。

ーーテイルが「死刑囚」であることを暫くぶりに思い出してしまった。

ーーあと、何日だ?記憶が曖昧だ。

ーー俺がテイルと過ごせる残された時間は何時間何分何秒だ?

「ずっと手錠に繋がれて、自由を奪われたままで、死刑執行のその時まで、一生檻の中で暮らすのかな」

「……だっ、大丈夫だよっ!そうならない為に俺はお前と今こうやって奉仕作業に精を出してるんじゃないか……あれからお前は十分過ぎるくらい社会に貢献した。誠意を示した。汗水垂らして懸命に頑張ってきた。きっと……、いや、絶対にテイルは死刑に何かならないって……」

ーーああは言ったものの、実際のところはどうなるのか分からない。

今にも縋り付いて来そうな泣き出してしまいそうなテイルから救いを求める様な本音を聞いて、自分にはどうしてやることも叶わない非力さを改めて思い知らされた。

奉仕作業に熱心に取り組めば、もしかしたら恩赦されて罪が軽くなるかもと身勝手な推測をした。死刑を免れて万と同じ様な「終身刑」やツクネと同じ「懲役刑」になれば、牢屋からは出られないとしても命を失うことはない。俺はそれを目指して今日まで一緒に頑張ってきたつもりだった。結局は他人事だ。冷たい仕打ちかも知れないが、あいつと同じ空間にいるだけで、こっちが胸の辺りが苦しくなった。ベンチから立ち上がり気付けばツクネに押し付ける位に嫌だったカバの小屋の方へと足を運んでいた。テイルと二人で最後まで終わらせる筈だった作業をほったらかしにして……。

ついさっきまで明るい話をしていたってのに急に暗い話にシフトさせてしまった。軽薄にあんな例え話をした俺のせいだ。

ーーあいつが処刑されずに済む平和的な方法って何だろう。

「いっそのこと、一緒に脱走でもするか?」

……何て、自分の身さえ危険に晒してしまいそうな爆弾発言を気楽に言ってやれるだけの度胸を木ノ下日影という男は持っていない。中途半端な勇気や優しさだけではテイルを刑務所から解放してやること何か出来ない。無駄に命を落とすだけだ。それでは元も子もない。

ーー俺達囚人は、片手に嵌められた「片手錠」によって厳重に監視され、行動の自由を堅く制限されている。

逃げ出そうとしたり人に危害を加えようとした者の手首は、輪っか状の刃物に変形した片手錠によって容赦なく切断される。
この恐ろしい道具が導入されてから、脱走を画策する愚かな犯罪者はめっきり減った。












































































































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