7 / 37
1
7
しおりを挟む
「HEY! 優! 元気にしてたか?」
「…………」
シンプルに必要最低限のものだけが備えられた無機質な病室に、黒い肌に太い金縁のサングラスをし、キャップを斜めに被った男が現れた。日本ではあまり見られない高身長に筋肉が乗り切った太い体格。白いTシャツに金色のネックレス。指にごつい指輪をはめた手に持つ、淡い色の花束はミスマッチ過ぎた。
……やっぱり個室で良かった。リョータは目立つから。
「心配したよ! 優! なかなか返事くれないから!」
「……うん」
それどころじゃなかったからね。久しぶりにリョータに会えて、泣きそうになったがこらえた。なぜなら久保田もここにいるからだ。
「元気ないな! ちゃんとご飯食べてるか?」
食べてないよ。薬は聞いているもののわずかな頭痛が続いてるし、またお腹も痛くなってきて食べられなかったんだ。食べてないから力が入らないんだよ。しかしそれを説明することもできなかった。
「どうした? 顔色が悪いじゃないか!」
うん。入院中だからね。
リョータにそう答えてやりたかったが、あまりのテンションの違いに口が開かなかった。
リョータは俺の寝るベッドの右側に立っていて、久保田はその向かい、つまり俺を挟む形で左側に立っている。久保田は眉間に皺を寄せて瞳孔が開いたように目を見開きながら、リョータの顔をまっすぐ見ていて、すごく怖い。
すごく怖いよ。
「優? もう大丈夫なんだろ? だったら元気出しなよ!」
そんな久保田の緊張感に気が付いていないリョータは、花束を持ったまま両腕を広げ、肩をすくめた。なかなか生粋の日本育ちにはできない仕草だ。
「うん。ありがとう」
久しぶりに会ったリョータは何一つ変わっていなかった。リョータのノリに頑張って合わせようとしていた過去を思い出して、思わず苦笑いが出た。それも今となってはいい思い出になっていた。うん。思い出だ。
「そうだ」
リョータは俺のお腹の上に花束を置くと、ポケットから黒い塊を出した。よく見るとベルトが黒い革の腕時計だ。前にしてたやつ。懐かしい。
「これ優のだろ? なぜか俺の家にあったんだ。返そうと思ってさ」
「そっか。わざわざありがとう」
だから連絡をくれたのかな。
久しぶりに時計を腕にはめてみたが、針は数字を指したまま動かなかった。
「退院したら店にまた来てくれよ。優のことは親友だと思ってるからさ!」
リョータはそう言ってウィンクをした。
「うん」
「優、この前誕生日だっただろ?」
「うん」
頷くとリョータはハッピーバースデーを歌い始めた。声が大きすぎてつくづく個室で良かったと思う。リョータが手拍子とともに歌うハッピーバースデイは、久保田の呪いのようなのとは違って、みんなをハッピーにするような明るくて華やかなものだった。
歌い終わると、リョータは俺と握手をし、眉間に皺を寄せ瞳孔が開いたままの久保田とも朗らかに握手をすると、大きな手を振り、高々とアメージンググレースを歌いながら病室を出て行った。
すると病室は祭が終わったあとのように静まり返った。
「…………」
久保田が無言で俺の手首から時計を取り上げた。
「壊れてますね」
俺はリョータを真似て軽く肩をすくめ、なるべく明るい声で返した。
「引っ越しの時に壊れたのかな?」
「二年以上前のものを今さら届けに来ます?」
「忘れてたのかな?」
「二年以上会っていない元恋人が親友ですか」
「リョータはあんまり細かいこと気にしないから。あれはただの口癖だから」
リョータの知り合いはほとんど親友だ。
「田村リョータ。日本名ですがアメリカと日本のハーフで日本生まれで小学校から高校までアメリカ育ちでしたっけ」
さすが久保田はリョータのこともよく知らべ上げている。
「中身はほとんどアメリカ人だよ」
アメリカ人だからってみんながああとは限らないけど、他のアメリカ人知らないし。
「彼の店で知り合ったんですか?」
「うん」
「輸入雑貨の店長兼ラッパーですよね?」
「うん」
聞かなくてもよく知ってるくせに。
「何か得体の知れないガラクタばかりが置いてある店に見えましたが」
「行ったの?」
「前を通りがかっただけです」
「…………」
久保田のことだから間違いなく、偶然前を通りがかったわけではないだろう。
「あんなのと付き合ってたんですね」
久保田のその言い方にむっとした。
「……あんなのって。リョータはいい奴だよ。優しいし、裏表ないし」
どれだけリョータの明るさに救われたことか。
「あなたを捨てたんですよね?」
「俺が悪かったんだよ」
俺がリョータの明るさに頼り過ぎてしまった。むしろリョータの楽しい人生に水を差してしまったことの方が辛いぐらいだ。
「一年だけ一緒に住んであなたを見限ったんですね」
「そうだよ」
俺にとっては貴重な一年だった。
こんなに毎日楽しく生きている人がいるんだと知ることができたから。リョータといれば嫌な仕事も明るく楽しく乗り切れるんじゃないかと思った。そんなことはなかったけど。
「パートナーなら相手が苦しんでいたら心配して一緒に悩んであげるものでしょう」
久保田の言葉に思わず笑ってしまった。
「結婚するわけじゃあるまいし」
「僕はそういう刹那的な生き方は理解できません。僕はあなたに何かあったら必ず助けますよ。逃げ出したりはしません」
「…………」
表情を隠すため、布団を鼻まで上げた。
「なんですか?」
「……重い」
だって興信所を使うとかやっぱりおかしいし。人のスマホ勝手に見るし、元カレ調べ上げてるし、やっぱり頭おかしい。
「…………」
久保田が眉間に皺を寄せたまま、目を閉じ、顔を上げた。
「僕はあなたに好きな人ができたらちゃんと身を引くつもりですよ。あなたの幸せを一番に考えていますから」
「嘘だ」
にわかには信じがたい。そんな奴は人に好きと言っておきながら脅したりはしないと思うからだ。
久保田は眼鏡の中央に指を起き、まるで自分が脅されているかのように、わざとらしく顔をしかめながらため息をついた。
「……そうですね。心ではそう思ってますが、自分でも信じられません。あなたに優しくしたい気持ちと、あなたを思い通りにしたい気持ちがせめぎ合って苦しくなる時があります。理性を保つことがこんなに辛いとは思いませんでした。こんなことは初めてです」
「…………」
「人を好きになるって自分より大切なものができるってことなんですね」
そう言って久保田はもう一度、本当に苦しそうにため息をついた。
「…………」
その年でやっとそれに気がつくって、今までどんな付き合い方してきたんだ? こいつは。
恋人を大事にしたことがないのか?
やっぱり久保田はヤバい。ヤバい奴だ。早く逃げ出さなければ俺は本当に久保田の思い通りにされてしまうだろうと思った。
やっと頭痛もおさまって食事も普通に取れるようになり、明日退院という日に、村上と森田が見舞いにやって来た。
村上は穏やかそうな笑みを浮かべ、果物が入った籠を持っていた。猫目の森田は相変らず嫌そうな顔だ。そんな目で見るのに、なんで来たんだろう?
「野坂さーん。早く戻ってきてくださいよー。野坂さんがいないと職場が殺伐として辛いんですよー」
「殺伐?」
昼間はほとんど人がいないはずなのに。
「散らかり放題だし、観葉植物は枯れかけてるし、コーヒーも飲めないし。ほら、野坂さんがいないと男しかいない職場になっちゃうから」
俺も男ですけど?
「殺伐とさせてんのは久保田さんだけだろ」
森田がつっけんどんな口調で言った。村上はその口調に気づいていないかのように、俺を見て頷いた。
「たしかに。久保田さんが野坂さんの代わりをしてるんですけど、なんか久保田さんには頼みづらいんですよ。あの人いろいろ分かってる分、あら探しとかしてくるんですよ。言い方もきついし。みんな早く野坂さんに戻って来て欲しいって言ってるんですよ」
「…………」
そっか。それでなくても久保田は自分の仕事で忙しいのに、俺の仕事までさせているのか。だから職場でイライラしているのかもしれない。
村上が俺の両手を握り込んだ。
「俺、野坂さんがいないと会社辞めてしまうかもしれません。お願いです。必ず戻ってきてくださいね!」
「は、はい」
言われなくても明日には退院して来週には戻るのに。村上は森田に止められるまで俺の手を離さなかった。
「誰か来ました?」
仕事帰りでスーツ姿の久保田が、目ざとくテーブルに置かれた村上の果物の籠に気が付いた。
「村上くんと森田くん」
「…………」
久保田は籠を持ち上げると、すぐに興味なさそうに戻した。
「暇だと思っていろいろ買って来ました」
久保田は雑誌が入っているビニール袋を俺に渡した。
「明日退院だからいいのに」
男性向けファッション誌が何冊か。表紙が黒人ラッパーの外国の雑誌もある。どうやら好きな男のタイプとして誤解を与えているようだった。
「あの」
久保田に声をかけると、久保田は椅子をベッドの横に置いて座った。
もうすぐ面会の終わる時間だ。明日は午前中には退院になるから久保田には会えないだろう。だから今言っておこう。
「仕事増やしちゃったみたいですみません。来週から仕事に戻ってちゃんと働きます。それと入院費は、少しずつですが、必ず返しますから……」
ベッドに座ったままだったが、丁重に深く、頭を下げた。
「……野坂さん。こんな惨めなことは言いたくないのですが」
「…………」
なんだ? 今まで奢らせた分も全部返せって? そりゃそうだよな。俺でもそう思う。散々今まで甘えたんだから。
ためらいがちに頭を上げると、久保田と目が合った。
「キスだけさせてもらえません?」
「はっ⁉」
「お礼も謝罪もいりません。キスだけでいいんです。そうすれば僕はあなたに何を言われても許せる気がするんです」
「……許すって」
「あなたをここに入院させると決めたのは僕なのであなたが払う必要はありません。僕をそんな情けない人間だと思ったんですか? とても許せません」
「…………」
徐々に久保田の顔が近づく。俺は反射的に頭を後ろに下げた。
「あなたが甘えてくれれば僕はなんだってするんです」
「…………」
やめてくれ。
「大丈夫です。僕は逃げたりしませんから」
「…………」
なんで俺みたいな人間にそんなこと言うんだよ。
「大丈夫です。もう心配いりません」
「…………」
なにが? こわいよ。
「あ、そうだ。昨日野坂さんのお母さんと話しました」
「え?」
久保田が顔を突き出したまま、突然話を変えた。
「お母さん、職場を変えたこと知らなかったんですね。丁寧に説明して上司として挨拶をして、ちゃんとご理解を頂きました。もちろん、入院のことは言ってませんよ? 今度そちらにお邪魔したいとは言いましたが」
「…………」
呆然としている隙を突いて久保田にキスをされた。
「…………」
あまりのことに俺はさらに呆然とした。
……こいつ、勝手に人の親と話したのか?
しかも今、隙を突いてキスまでした?
……信じられない。
俺はいつも行動に移すのが遅くて、失敗をするんだ。だから、早く、こいつから逃げ出さなきゃ。
「…………」
シンプルに必要最低限のものだけが備えられた無機質な病室に、黒い肌に太い金縁のサングラスをし、キャップを斜めに被った男が現れた。日本ではあまり見られない高身長に筋肉が乗り切った太い体格。白いTシャツに金色のネックレス。指にごつい指輪をはめた手に持つ、淡い色の花束はミスマッチ過ぎた。
……やっぱり個室で良かった。リョータは目立つから。
「心配したよ! 優! なかなか返事くれないから!」
「……うん」
それどころじゃなかったからね。久しぶりにリョータに会えて、泣きそうになったがこらえた。なぜなら久保田もここにいるからだ。
「元気ないな! ちゃんとご飯食べてるか?」
食べてないよ。薬は聞いているもののわずかな頭痛が続いてるし、またお腹も痛くなってきて食べられなかったんだ。食べてないから力が入らないんだよ。しかしそれを説明することもできなかった。
「どうした? 顔色が悪いじゃないか!」
うん。入院中だからね。
リョータにそう答えてやりたかったが、あまりのテンションの違いに口が開かなかった。
リョータは俺の寝るベッドの右側に立っていて、久保田はその向かい、つまり俺を挟む形で左側に立っている。久保田は眉間に皺を寄せて瞳孔が開いたように目を見開きながら、リョータの顔をまっすぐ見ていて、すごく怖い。
すごく怖いよ。
「優? もう大丈夫なんだろ? だったら元気出しなよ!」
そんな久保田の緊張感に気が付いていないリョータは、花束を持ったまま両腕を広げ、肩をすくめた。なかなか生粋の日本育ちにはできない仕草だ。
「うん。ありがとう」
久しぶりに会ったリョータは何一つ変わっていなかった。リョータのノリに頑張って合わせようとしていた過去を思い出して、思わず苦笑いが出た。それも今となってはいい思い出になっていた。うん。思い出だ。
「そうだ」
リョータは俺のお腹の上に花束を置くと、ポケットから黒い塊を出した。よく見るとベルトが黒い革の腕時計だ。前にしてたやつ。懐かしい。
「これ優のだろ? なぜか俺の家にあったんだ。返そうと思ってさ」
「そっか。わざわざありがとう」
だから連絡をくれたのかな。
久しぶりに時計を腕にはめてみたが、針は数字を指したまま動かなかった。
「退院したら店にまた来てくれよ。優のことは親友だと思ってるからさ!」
リョータはそう言ってウィンクをした。
「うん」
「優、この前誕生日だっただろ?」
「うん」
頷くとリョータはハッピーバースデーを歌い始めた。声が大きすぎてつくづく個室で良かったと思う。リョータが手拍子とともに歌うハッピーバースデイは、久保田の呪いのようなのとは違って、みんなをハッピーにするような明るくて華やかなものだった。
歌い終わると、リョータは俺と握手をし、眉間に皺を寄せ瞳孔が開いたままの久保田とも朗らかに握手をすると、大きな手を振り、高々とアメージンググレースを歌いながら病室を出て行った。
すると病室は祭が終わったあとのように静まり返った。
「…………」
久保田が無言で俺の手首から時計を取り上げた。
「壊れてますね」
俺はリョータを真似て軽く肩をすくめ、なるべく明るい声で返した。
「引っ越しの時に壊れたのかな?」
「二年以上前のものを今さら届けに来ます?」
「忘れてたのかな?」
「二年以上会っていない元恋人が親友ですか」
「リョータはあんまり細かいこと気にしないから。あれはただの口癖だから」
リョータの知り合いはほとんど親友だ。
「田村リョータ。日本名ですがアメリカと日本のハーフで日本生まれで小学校から高校までアメリカ育ちでしたっけ」
さすが久保田はリョータのこともよく知らべ上げている。
「中身はほとんどアメリカ人だよ」
アメリカ人だからってみんながああとは限らないけど、他のアメリカ人知らないし。
「彼の店で知り合ったんですか?」
「うん」
「輸入雑貨の店長兼ラッパーですよね?」
「うん」
聞かなくてもよく知ってるくせに。
「何か得体の知れないガラクタばかりが置いてある店に見えましたが」
「行ったの?」
「前を通りがかっただけです」
「…………」
久保田のことだから間違いなく、偶然前を通りがかったわけではないだろう。
「あんなのと付き合ってたんですね」
久保田のその言い方にむっとした。
「……あんなのって。リョータはいい奴だよ。優しいし、裏表ないし」
どれだけリョータの明るさに救われたことか。
「あなたを捨てたんですよね?」
「俺が悪かったんだよ」
俺がリョータの明るさに頼り過ぎてしまった。むしろリョータの楽しい人生に水を差してしまったことの方が辛いぐらいだ。
「一年だけ一緒に住んであなたを見限ったんですね」
「そうだよ」
俺にとっては貴重な一年だった。
こんなに毎日楽しく生きている人がいるんだと知ることができたから。リョータといれば嫌な仕事も明るく楽しく乗り切れるんじゃないかと思った。そんなことはなかったけど。
「パートナーなら相手が苦しんでいたら心配して一緒に悩んであげるものでしょう」
久保田の言葉に思わず笑ってしまった。
「結婚するわけじゃあるまいし」
「僕はそういう刹那的な生き方は理解できません。僕はあなたに何かあったら必ず助けますよ。逃げ出したりはしません」
「…………」
表情を隠すため、布団を鼻まで上げた。
「なんですか?」
「……重い」
だって興信所を使うとかやっぱりおかしいし。人のスマホ勝手に見るし、元カレ調べ上げてるし、やっぱり頭おかしい。
「…………」
久保田が眉間に皺を寄せたまま、目を閉じ、顔を上げた。
「僕はあなたに好きな人ができたらちゃんと身を引くつもりですよ。あなたの幸せを一番に考えていますから」
「嘘だ」
にわかには信じがたい。そんな奴は人に好きと言っておきながら脅したりはしないと思うからだ。
久保田は眼鏡の中央に指を起き、まるで自分が脅されているかのように、わざとらしく顔をしかめながらため息をついた。
「……そうですね。心ではそう思ってますが、自分でも信じられません。あなたに優しくしたい気持ちと、あなたを思い通りにしたい気持ちがせめぎ合って苦しくなる時があります。理性を保つことがこんなに辛いとは思いませんでした。こんなことは初めてです」
「…………」
「人を好きになるって自分より大切なものができるってことなんですね」
そう言って久保田はもう一度、本当に苦しそうにため息をついた。
「…………」
その年でやっとそれに気がつくって、今までどんな付き合い方してきたんだ? こいつは。
恋人を大事にしたことがないのか?
やっぱり久保田はヤバい。ヤバい奴だ。早く逃げ出さなければ俺は本当に久保田の思い通りにされてしまうだろうと思った。
やっと頭痛もおさまって食事も普通に取れるようになり、明日退院という日に、村上と森田が見舞いにやって来た。
村上は穏やかそうな笑みを浮かべ、果物が入った籠を持っていた。猫目の森田は相変らず嫌そうな顔だ。そんな目で見るのに、なんで来たんだろう?
「野坂さーん。早く戻ってきてくださいよー。野坂さんがいないと職場が殺伐として辛いんですよー」
「殺伐?」
昼間はほとんど人がいないはずなのに。
「散らかり放題だし、観葉植物は枯れかけてるし、コーヒーも飲めないし。ほら、野坂さんがいないと男しかいない職場になっちゃうから」
俺も男ですけど?
「殺伐とさせてんのは久保田さんだけだろ」
森田がつっけんどんな口調で言った。村上はその口調に気づいていないかのように、俺を見て頷いた。
「たしかに。久保田さんが野坂さんの代わりをしてるんですけど、なんか久保田さんには頼みづらいんですよ。あの人いろいろ分かってる分、あら探しとかしてくるんですよ。言い方もきついし。みんな早く野坂さんに戻って来て欲しいって言ってるんですよ」
「…………」
そっか。それでなくても久保田は自分の仕事で忙しいのに、俺の仕事までさせているのか。だから職場でイライラしているのかもしれない。
村上が俺の両手を握り込んだ。
「俺、野坂さんがいないと会社辞めてしまうかもしれません。お願いです。必ず戻ってきてくださいね!」
「は、はい」
言われなくても明日には退院して来週には戻るのに。村上は森田に止められるまで俺の手を離さなかった。
「誰か来ました?」
仕事帰りでスーツ姿の久保田が、目ざとくテーブルに置かれた村上の果物の籠に気が付いた。
「村上くんと森田くん」
「…………」
久保田は籠を持ち上げると、すぐに興味なさそうに戻した。
「暇だと思っていろいろ買って来ました」
久保田は雑誌が入っているビニール袋を俺に渡した。
「明日退院だからいいのに」
男性向けファッション誌が何冊か。表紙が黒人ラッパーの外国の雑誌もある。どうやら好きな男のタイプとして誤解を与えているようだった。
「あの」
久保田に声をかけると、久保田は椅子をベッドの横に置いて座った。
もうすぐ面会の終わる時間だ。明日は午前中には退院になるから久保田には会えないだろう。だから今言っておこう。
「仕事増やしちゃったみたいですみません。来週から仕事に戻ってちゃんと働きます。それと入院費は、少しずつですが、必ず返しますから……」
ベッドに座ったままだったが、丁重に深く、頭を下げた。
「……野坂さん。こんな惨めなことは言いたくないのですが」
「…………」
なんだ? 今まで奢らせた分も全部返せって? そりゃそうだよな。俺でもそう思う。散々今まで甘えたんだから。
ためらいがちに頭を上げると、久保田と目が合った。
「キスだけさせてもらえません?」
「はっ⁉」
「お礼も謝罪もいりません。キスだけでいいんです。そうすれば僕はあなたに何を言われても許せる気がするんです」
「……許すって」
「あなたをここに入院させると決めたのは僕なのであなたが払う必要はありません。僕をそんな情けない人間だと思ったんですか? とても許せません」
「…………」
徐々に久保田の顔が近づく。俺は反射的に頭を後ろに下げた。
「あなたが甘えてくれれば僕はなんだってするんです」
「…………」
やめてくれ。
「大丈夫です。僕は逃げたりしませんから」
「…………」
なんで俺みたいな人間にそんなこと言うんだよ。
「大丈夫です。もう心配いりません」
「…………」
なにが? こわいよ。
「あ、そうだ。昨日野坂さんのお母さんと話しました」
「え?」
久保田が顔を突き出したまま、突然話を変えた。
「お母さん、職場を変えたこと知らなかったんですね。丁寧に説明して上司として挨拶をして、ちゃんとご理解を頂きました。もちろん、入院のことは言ってませんよ? 今度そちらにお邪魔したいとは言いましたが」
「…………」
呆然としている隙を突いて久保田にキスをされた。
「…………」
あまりのことに俺はさらに呆然とした。
……こいつ、勝手に人の親と話したのか?
しかも今、隙を突いてキスまでした?
……信じられない。
俺はいつも行動に移すのが遅くて、失敗をするんだ。だから、早く、こいつから逃げ出さなきゃ。
10
あなたにおすすめの小説
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
男同士で番だなんてあってたまるかよ
だいたい石田
BL
石堂徹は、大学の授業中に居眠りをしていた。目覚めたら見知らぬ場所で、隣に寝ていた男にキスをされる。茫然とする徹に男は告げる。「お前は俺の番だ。」と。
――男同士で番だなんてあってたまるかよ!!!
※R描写がメインのお話となります。
この作品は、ムーンライト、ピクシブにて別HNにて投稿しています。
毎日21時に更新されます。8話で完結します。
2019年12月18日追記
カテゴリを「恋愛」から「BL」に変更いたしました。
カテゴリを間違えてすみませんでした。
ご指摘ありがとうございました。
ビジネス婚は甘い、甘い、甘い!
ユーリ
BL
幼馴染のモデル兼俳優にビジネス婚を申し込まれた湊は承諾するけれど、結婚生活は思ったより甘くて…しかもなぜか同僚にも迫られて!?
「お前はいい加減俺に興味を持て」イケメン芸能人×ただの一般人「だって興味ないもん」ーー自分の旦那に全く興味のない湊に嫁としての自覚は芽生えるか??
刺されて始まる恋もある
神山おが屑
BL
ストーカーに困るイケメン大学生城田雪人に恋人のフリを頼まれた大学生黒川月兎、そんな雪人とデートの振りして食事に行っていたらストーカーに刺されて病院送り罪悪感からか毎日お見舞いに来る雪人、罪悪感からか毎日大学でも心配してくる雪人、罪悪感からかやたら世話をしてくる雪人、まるで本当の恋人のような距離感に戸惑う月兎そんなふたりの刺されて始まる恋の話。
【完結】勇者パーティーハーレム!…の荷物番の俺の話
バナナ男さん
BL
突然異世界に召喚された普通の平凡アラサーおじさん<山野 石郎>改め【イシ】
世界を救う勇者とそれを支えし美少女戦士達の勇者パーティーの中……俺の能力、ゼロ!あるのは訳の分からない<覗く>という能力だけ。
これは、ちょっとしたおじさんイジメを受けながらもマイペースに旅に同行する荷物番のおじさんと、世界最強の力を持った勇者様のお話。
無気力、性格破綻勇者様 ✕ 平凡荷物番のおじさんのBLです。
不憫受けが書きたくて書いてみたのですが、少々意地悪な場面がありますので、どうかそういった表現が苦手なお方はご注意ください_○/|_ 土下座!
この俺が正ヒロインとして殿方に求愛されるわけがない!
ゆずまめ鯉
BL
五歳の頃の授業中、頭に衝撃を受けたことから、自分が、前世の妹が遊んでいた乙女ゲームの世界にいることに気づいてしまったニエル・ガルフィオン。
ニエルの外見はどこからどう見ても金髪碧眼の美少年。しかもヒロインとはくっつかないモブキャラだったので、伯爵家次男として悠々自適に暮らそうとしていた。
これなら異性にもモテると信じて疑わなかった。
ところが、正ヒロインであるイリーナと結ばれるはずのチート級メインキャラであるユージン・アイアンズが熱心に構うのは、モブで攻略対象外のニエルで……!?
ユージン・アイアンズ(19)×ニエル・ガルフィオン(19)
公爵家嫡男と伯爵家次男の同い年BLです。
【完結】弟を幸せにする唯一のルートを探すため、兄は何度も『やり直す』
バナナ男さん
BL
優秀な騎士の家系である伯爵家の【クレパス家】に生まれた<グレイ>は、容姿、実力、共に恵まれず、常に平均以上が取れない事から両親に冷たく扱われて育った。 そんなある日、父が気まぐれに手を出した娼婦が生んだ子供、腹違いの弟<ルーカス>が家にやってくる。 その生まれから弟は自分以上に両親にも使用人達にも冷たく扱われ、グレイは初めて『褒められる』という行為を知る。 それに恐怖を感じつつ、グレイはルーカスに接触を試みるも「金に困った事がないお坊ちゃんが!」と手酷く拒絶されてしまい……。 最初ツンツン、のちヤンデレ執着に変化する美形の弟✕平凡な兄です。兄弟、ヤンデレなので、地雷の方はご注意下さいm(__)m
ハイスペックストーカーに追われています
たかつきよしき
BL
祐樹は美少女顔負けの美貌で、朝の通勤ラッシュアワーを、女性専用車両に乗ることで回避していた。しかし、そんなことをしたバチなのか、ハイスペック男子の昌磨に一目惚れされて求愛をうける。男に告白されるなんて、冗談じゃねぇ!!と思ったが、この昌磨という男なかなかのハイスペック。利用できる!と、判断して、近づいたのが失敗の始まり。とある切っ掛けで、男だとバラしても昌磨の愛は諦めることを知らず、ハイスペックぶりをフルに活用して迫ってくる!!
と言うタイトル通りの内容。前半は笑ってもらえたらなぁと言う気持ちで、後半はシリアスにBLらしく萌えると感じて頂けるように書きました。
完結しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる