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1、鷹の青年

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 港へ行かなくちゃ。窓を開けて、薄暗い部屋に遅い朝の風を入れる。ああ、今日は晴れる。しかしそう思っても、ミカゼの気持ちは少しも明るくならなかった。

 顔を隠すように頭に布を巻き、売りものの縄を何本か取って、彼女は山の小さな家を出た。新聞は取らなくなったから、商売相手の船乗りたちがどのくらい港にいるかは分からない。新聞は、山に外界の様子を届けてくれる貴重なものだったが、近頃新聞に書いてあるのはミカゼにとって不愉快なことばかりなのだ。

 「国教が決まるって本当かしら」

 ミルクの入った大きな缶を抱えたふくよかな奥さんが、声を低めることもなくおおっぴらにお隣の奥さんに話しかけている。話しかけられた方の奥さんはきりきりに痩せていて、ふっくらおばさんに寄られて少し迷惑そうな顔をしていた。

 「どうかしらねえ……」

 痩せぎすの奥さんは返事をしかけたが、そのとき、ミカゼが近くにいることに気がついた。

 「そうねえ、国王陛下がそうお考えとか……。だけど、わたしたちがいつもお世話になっているのは〈ミセルマの子〉だから……ねえ、アンナ、わたしはそう思うわ……」
 「何を言っているの! 」

 アンナは声を大きくしてまくし立てた。

 「あんたいつも、気味の悪い連中だって言ってるじゃないの。それに、新聞に書いてあったじゃない……戦争のときのこと。町に布教に来てる人たちが、あれは悪魔の力だって……間違いだったら、公にあんなことを話せるわけないわ。おかしいと思ってたのよ……ただの人間なら、とてもできないことだもの。山の上のミカゼだって―――」
 「しッ」

 尖った肘が、アンナの脇を小突いた。

 「あら……」

 アンナはそこで初めて、坂を下りてくるミカゼに目を留めた。きまり悪そうに、ミルクの缶を抱え直す。リゼ、と傍らの相手に助けを求めたが、リゼはほらごらんなさいと言いたげにそっぽを向いただけだった。

 「おはようございます」

 ミカゼは聞こえていなかったふりをして挨拶した。奥さんたちはおろおろとしながらも笑顔を見せたが、アンナはミルクを足で後ろに押しやった。

 「おはよう、ミカゼ。今日は遅起きね。港かい? 」
 「ええ」

 頷いて別れたあと、小さくしているつもりらしいアンナの声が追ってきた。

 「ねえ、〈ミセルマの子〉が近づくとミルクが酸っぱくなるって聞いたのよ。本当かしら? 」

 リゼが答える声は聞こえなかった。

 ミルクを酸っぱくするとか、小麦に角を生やすとかいうのは、昔からまことしやかに囁かれていた噂ではあった。もともと特別な知恵を持つ人々だと見られてきたのがミカゼたち〈ミセルマの子〉だったから、アンナのように気味悪く思う人だって昔からいたのだろう。それでも、何とかうまくやってきたのに――。

 昔は布なんて、かぶらなくてもよかった。母さんの隣を、胸を張って歩けたのに――。

 「天なる父、ただおひとりだけが、我々をお救いくださるのです」

 街角で人を集めて声高に説教しているのは、隣国バーシュの布教師だ。昔から似たことをしている人はいたが、近頃とみに増えてきた。

 「人々のためにお祈りなさい。我々がそうしてきたように、あなたがたにも目覚めの幸運が今もたらされようとしているのです」

 布教師は縄を持ったミカゼがそばを通ったのを見咎めて、さらに大きな声で言った。彼らは最近になって、あからさまに〈ミセルマの子〉を悪しざまに言うようになっていた。

 「異端のわざに、心を惑わされてはならない。ただひとり、本物の神をのみ信ずるもののために、天の門は開かれるのです」

 それは明らかにミカゼに向けての言葉だったが、ミカゼは無視した。

 「あの娘の持っている、忌まわしい縄をごらんなさい」

 布教師は敵意を隠しもせずに言った。

 「彼女は、我らの神を信じない。そして、それがいかに不幸なことか、いかにみずからをあざむき、自身の目を閉ざすに等しい行いであるかということにも、気づいていない。彼女は、悪魔の与えた穢れた風をあの結び目に閉じ込め、ミゼルカ中の船乗りにばらまいているのです。実に恐ろしい――」
 「この世界を創ったのがあなたの神さまなら」

 黙っていようと思っていたのに、ミカゼの口は閉じていてくれなかった。

 「わたしの風を創ったのも、あなたの神さまだわ……でも、言うまでもないことね。だって、あなたの国の船に乗ってくる人だって、わたしの風を買ってくださるもの」

 布教師は怒りと屈辱で真っ赤になったが、聴衆の幾人かは思わずといったふうににやりとした。それに少し励まされて、ミカゼは胸を張った。

 「魔女め! 神の御言葉をさえ弄ぶとは……」

 布教師はぶつぶつ言いながら立ち去っていった。言葉を弄んでいるのは彼の方だと、ミカゼは思った。彼らは、自分たちに都合の悪いものを悪く言っているだけだ。バーシュの布教師にも立派な、気高い精神を持ち合わせた人はいる――今日は特別屈託のある人に行き会ってしまったんだわと、ミカゼは思った。

 この国、ミゼルカは、人々の信仰には常に寛容な政策を執ってきた国だ。だから、どんなに布教師が頑張っても、〈ミセルマの子〉は異端に押しやられることはなかったし、布教師たちだってそれを分かっていて、自分たちの教義を押しつけたりはしなかった――今までは。

 「お嬢さん、危ないですよ」

 はっとして、ミカゼは足を止めた。目の前に、軍服を着た男が立っている。ぼうっとして、彼にぶつかるところだったのだ。狭い路地裏で、彼はミカゼの肩に手を置いて、彼女を支えてくれていた。

 「まあ、ありがとうございました」

 相手は通してくれなかった。乱暴なことはしないが、道を開けてくれないし、肩の手もそのままだ。相手の胸がいつまでたっても目の前からどかないので、ミカゼは諦めて顔を上げた。

 相手はミカゼが思っていたよりずっと若い男だった。三十にも届かないだろう。青年だ。恐ろしいのはその若者が軍の高官を示す銀の飾りをつけ、背後に屈強な水兵を従えていることだった。

 「君に話があるのですよ」
 「お聞きしますわ。……手をどけていただけません? 」
 「これは失礼」

 青年将校はミカゼを離したが、ちっとも悪かったと思っているふうではなかった。

 「君も、なぜ呼び止められたのか分かっているのではないですか? 今しがた、布教を汚されたと訴えがありましてね……」
 「あんなことで捕まるくらいなら、もっと口汚く罵ってやればよかったわ」
 「おいおい」

 無骨な水兵の頬が緩んだ。ミカゼにとっては、かなり温かみのある笑顔だった。それを目で叱りつけつつ、青年将校は言った。

 「我々も暇ではないし、布教師の方々のあの態度には少なからず辟易しているのです。だから、職務を抜きにして、よくやりましたと言って差し上げたいところではあるのですが……」

 青年将校は組んでいた脚を気取った仕草でほどいた。

 「あまり、ご自分の身を危険にさらすようなことを口にしてはいけません。我々だとて、本音がどうあれ国策には従わねばならない。――先日逮捕された〈ミセルマの子〉がいるのをご存知ありませんか」
 「いいえ」

 ミカゼは驚いて青年将校を見返した。青年将校もじっとミカゼを見ていた。

 「あなたと同じように、このメーア港で風縄を売っていたフィエロという少年です。彼は布教師に口では勝てないと思ったのか……手を出してしまった。相手に貶められたというのが彼の主張でしたが、彼にとっては不利な証拠だけが残ってしまいました。暴行を受けたと言われれば、我々としても無視するわけにはいかなかった。そのうちに、正当な反論も罪にされてしまうかもしれません」

 ミカゼは売りものの縄を知らず知らず握りしめた。ミカゼが何も言わないので、青年将校は畳みかけてきた。

 「赤ん坊を取り上げ、星と風を読み、薬と毒の扱いに長け、死者を送る……古くから受け継がれてきた知恵とわざを持つ〈ミセルマの子ら〉は、人々の暮らしに深く結びついています。それを最近は、異端だなんだとうるさいですからね」
 「昔から、心から歓迎されたことはあまりなかったみたいですけど」
 「そう。人には気高さと同じくらいに、浅ましさがある。自分と違うものを恐れ、自分より優れたものを認めたがらない。そんなことは納得ずくで、みな〈ミセルマの子〉をやってきた。――けれど、邪なものに祭り上げられる筋合いはないでしょう? そう思いませんか? 」

 ミカゼは思わず相手の顔に見入った。彼の方こそ、かなり危険なことを口にしているではないか? だが、彼はあくまで毅然としているし、部下の水兵も何も言わない。ミカゼの言いたいことが分かったのか、青年将校は声を低くして言った。

 「実は、わたしもあなたと似た力を持っているのですよ。……自己紹介がまだでしたね。わたしはミゼルカ海軍提督秘書のパーミリオと申します」
 「嘘よ」

 ミカゼは後ずさった。軍人の中に〈ミセルマの子〉がいる? 何の冗談だろう?
 「じゃなきゃ、素性を隠すのがお上手なのね」
 「そうお思いになるのも仕方がありません。しかし、わたしは現に海軍の人間ですし、これからも素性を隠すつもりは一切ありません」

 パーミリオはいよいよ本題を持ち出した。

 「メーアのミカゼ。あなたも、我が軍にいらっしゃいませんか」

 ミカゼは目を背けた。返事もしなかった。あんまり失礼かしらと思ったが、とっさにそんなことをしてしまうくらいには、パーミリオの誘いは不愉快だったのだ。

 「フィエロは、頷いてくれたのですがね……」

 これほどはっきり拒絶されるとは思っていなかったのか、パーミリオの声にはわずかに動揺が感じられた。ミカゼはますますそっぽを向きたくなった。

 「はじめから、それが目的で……」
 「そうです。我々が身を守るのに、考えうる一番よい方法ですから。国防に携われば、特別な待遇が受けられます。そうすれば、肩身の狭い思いをしなくてもいい」
 「……そうかしら」
 「まあお聞きなさい。今のミゼルカの動きはおかしい。そう思いませんか? 古くからの友を捨て去り、それまで守り続けてきた寛大の精神を忘れ去ろうとしている。手を打つのなら、今しかありません。もし本当に国教が定まってしまったら、端から処刑されかねないのです。知っているでしょう、かつてあの布教師たちの国で、〈バーシュの子〉らがどんな目に遭わされたかを。あれは、対岸の火事などではない。明日我々の身に降りかかってくるかもしれない現実なのです。毎日毎晩、新聞で何と言っているか! 」

 パーミリオはいよいよ語気を強めた。

 「読むのをやめた? 賢明ですね。目に入れないことを選べるのなら、それが一番いい。特に、あなたはそうでしょう。あなたのご両親は……」
 「やめてください」

 ミカゼはパーミリオを睨んだ。だが、パーミリオは黙らなかった。

 「前の戦争でメーアから従軍して海戦に加わった〈ミセルマの子〉が、バーシュの民間人を何千と巻き込んだと、近頃その話で持ちきりですからね。それが、国教を定めるべきとするバーシュの主張を、ミゼルカがはねつけられない大きな理由です」
 「父と母を戦争に巻き込んだのは海軍でしょう」

 ミカゼは握りしめた手が怒りで震えるのを感じた。

 「あなたがたは、また戦争を起こそうというの! 」
 「そんなことは言っていません! 」

 ミカゼが頑ななのと同じくらい、パーミリオも譲らなかった。

 「我々は、すでに不名誉をこうむっているのです。生活に結びついてきた? 戦時中だったから? そんなことは、関係ない。世間の人々にとって、恐れていたことが現実になったというだけのことです。彼らにとって、我々はもはや同じ人間ではなくなりつつある――他に道などありません」

 ミカゼにできるのは、沈黙することだけだった。過去の戦争に〈ミセルマの子〉を駆り出した海軍のいうことになど、従うつもりはない。だが、パーミリオの言うことも本当だった。奥さんたちの噂話の種にされることなど、いい方だ。最近では、パンひとつ買うのにも嫌な顔をされることが増えた。馴染みの店も、次第に態度が変わっていったのだ。

 普通の人間が持たない力を持った〈ミセルマの子〉。普段は森の賢者などと呼ばれているが、その気になれば人を殺すことくらいわけないのだ、と。

 「戦争するだけが、おれたちの仕事じゃないんだぜ」

 黙って上司とミカゼのやり取りを聞いていた水兵が、人懐っこい笑顔でミカゼを覗きこんだ。なぜ彼がパーミリオと一緒に来たのか、ミカゼはこのとき初めて分かった。

 「嬢ちゃんに似合いの仕事だってあるさ。おれたちみたいな野郎ばかりが働いてるんじゃないしな」

 ミカゼが何も答えないので、ありゃあ、これは難しいぞ、と水兵は頭を掻いた。

 「アルバ。もっと言葉を……」

 品のなさを咎めようとしたパーミリオの声が途切れたのと、ミカゼの肩を叩こうとしたアルバが伸ばした指が弾かれたのとは、ほとんど同時だった。

 その一瞬で何が起こったのか、うつむいていたミカゼには何も分からなかった。しばらくしてふと我に返ったとき、彼女は片方の腕を誰かに引かれて恐ろしい速さで港を疾走していた。助けられた? さらわれたのだろうか? 少なくとも海軍の連中からは、鷹か大風が人間をさらっていったように思えただろう。背の高い、逞しい背は若く、麻のシャツから覗いている肌は赤銅色に焼けていた。

 「気をつけな」

 ミカゼがつまづいたのに気がついたのか、鷹の青年は足を止めて彼女を背負った。その仕草が思いがけず親切だったので、ミカゼは思い切って尋ねた。

 「あなたは? どこまで行くの? 」
 「黙ってろ。舌噛むぞ」

 青年は無愛想に忠告してから、やはり愛想のかけらもなく教えてくれた。

 「おれたちの船まで行くんだ。別に悪いようにしようっていうんじゃないから、暴れるなよ」
 「船? 」
 「おまえを助けてこいって言ったの、船長だから」

 青年が波止場の積み荷の間をすり抜ける。ぶつかられそうになったどこかの船の船員は、小麦粉の大きな袋を抱えて尻餅をついてしまった。

 「こら、危ないだろうが! 」

 青年はさすがに、立ち止まった。

 「すいません」
 「葡萄酒でなくてよかったよ」

 打った腰を痛そうにさすりながらぶつくさ言っている船員に、ミカゼは持っていた縄を一本差し出した。

 長い縄にはいくつか結び目がしてあって、そのひとつずつに風が結びとめられている。〈ミセルマの子〉に伝わる、古いわざだ。結び目を解けば、どこでも自由に風を呼ぶことができる。〈ミセルマ〉は海の神であり、航海の安全のために、船乗りにいい風を与えてくれると言われている。

 だから、ミセルマと同じように風を扱える力をもって生まれたもののことを、〈ミセルマの子〉と呼ぶのだ。

 「どうぞ」

 差し出された船員は、今度は小麦粉の粉を取り落した。船乗りにとっては、銀貨や金貨と引き換えても惜しくない代物だ――船乗りは嵐と同じくらい、無風を恐れているのだから。

 「……いいのかい? 」

 船員は恐る恐るといったふうに受け取った。縄の両端には、特別なほつれ止めの縫い取りがある。これが、〈ミセルマの子〉が結んだ本物という証だった。

 「ご安航を」
 「さすがに、ただでもらうわけにはいかないよ」

 船乗りは機嫌を直すのを通り越して、敬いに近いまなざしをミカゼに向けた。

 「持ってってくれ。最近は前ほどの価値はないが、上物の胡椒だ」

 そばの木箱から出した小さな袋をひとつミカゼに渡してくれながら、船乗りは青年に聞いた。

 「どこの船だ? 」
 「ベルマリー」

 青年が並んでいる船のひとつを尖った顎で指して答えた。ミゼルカの商船であることを示す空色の旗が掲げられ、その縁取りの糸の金色が、正午を過ぎた強い日差しに煌めいている。

 「船長さんによろしく伝えてくれ。〈ミセルマの子〉が乗り組む幸運な船の主に」

 彼は指で空中に何かの形を描いた。魔除けだ。

 「果報負けしないようにってな」

 青年に負われたまま、ミカゼはベルマリー号のタラップを上がった。甲板に下ろされたあとで船べりから波止場を見下ろすと、風縄を渡した船員がまだこちらを見ていて、ミカゼたちに向かって手を振っていた。

 「やっちまってよかったのか、その縄」

 青年がぼそりと言った。その顔が後ろ姿から受けた印象そのままだったので、ミカゼは妙に納得した。ただ、その黒い目だけは、ミカゼが思っていたよりずっと精悍で、透明なようでもあった。
 
 「いいのよ。わたしが持ってたって、しょうがないわ」

 ミカゼは手を振り返しながら言った。

 「それに、もうわたしたちに親切にしてくれるのなんて、船に乗っている人くらいだもの」

 あなたにも、とミカゼは青年に縄を渡した。青年は不思議そうな、見ようによっては不服そうにも見える顔で受け取った。

 「……おれは親切にした覚えはない。船まで連れてきただけだ」
 「でも、背負ってくれたわ」
 「あのまま走ってたら追いつかれてたろうからな……」

 青年は返そうかどうしようか、しばらく半端な位置で手を浮かせていたがやがて、使わせてもらう、と無口に呟いて縄をズボンのポケットに突っ込んだ。そして、ミカゼの方を見ないで言った。

 「おれが親切かどうかを決めるのはおれじゃない。おまえがよくしてもらったと思うのはおまえの勝手だけど、おれに期待はするな」

 青年はそばを離れていった。結局お互いに名乗り合いもしないままだったわと、ミカゼは彼の背を見送った――。

 「ようこそ」

 穏やかな声が割って入ってきて、ミカゼの物思いをふっつり断ち切った。船長のかぶるような帽子を頭に乗せた小柄な男性が、にこにこしながら後ろに立っている。マストの影からはベルマリーの船員たちがこちらを窺っていたが、ミカゼと目が合うと慌てて頭を引っ込めた。

 「出港ですよ。仕事をなさい」

 男性が気づいて、たしなめた。船員たちは頭をかきながら従ったが、船長というわりにはその態度はちょっと穏やかすぎるようだったし、頼りない体つきじゃないかしらとミカゼは思った。おまけに、何だか変わったにおいがまとわりついている――。

 「お医者さまですか? 」

 ミカゼが聞くと、彼はハシバミ色の目を優しく細めた。

 「そのとおり、ご明察です。わたしはこの船の船医の、ティムといいます。あなたにお会いするのは初めてではありませんよ、メーアのミカゼ」
 「ええ」

 握手しながら、ミカゼはほほえんだ。

 「いつも、風を買ってくださいますものね」
 「そうです、そうです」

 ティムは嬉しそうに頷いた。

 「本当にいつも、助かっています。あなたの風は、とても使い勝手がいい」
 「そうだね。あんたの風がなかったら、とっくの昔に死んでたかもしれない。そんなときも、少なからずあったからね」

 ティムの隣に悠々と歩いてきた金髪の女性が、晴れやかな笑顔で言った。背が高くて色が白く、美しい人だったが、大きな目の真ん中に輝く強い光は、彼女の麗しさを霞ませるくらいに迫力があった。船上の誰よりも優しげな姿をしているが、誰よりも肝の据わった人に違いない。

 「わたしはマリー・ヴィヴァン。マリーでいいよ。この船の船長さ」

 マリーはミカゼに手を差し出した。ミカゼは感謝を込めて握り返した。

 「マリーさん、ありがとうございました。助けてもらわなかったら、どうなっていたか……」
 「このところ、あちこちの港で海軍の連中が〈ミセルマの子〉に声をかけてるのをよく見るんだ。連れて行って、どうするのかは知らないけど……少なくとも、あんたは困ってたように見えたからね」

 マリーはふと甲板に誰かの姿を探した。

 「あんたをここまで引っ張ってきたのは、カツミ。航海士なんだけど……わたしを呼びに来たくせに、本人はどこに行ったんだろうねえ」
 「水路誌を見てましたよ」

 口元の髭をいじりながら、ティムが答えた。

 「次の港までは、難所続きですからね。慎重になるに越したことはありません」

 マリーは少し考え、ミカゼに聞いた。

 「次の港は、マッシリアだ。知ってるかい」
 「お隣の国の? 」
 「そう、マルテルの港。メーアから東へ進むと、一週間くらいで着く。この船はそのあと南へ下りながらマルテルの港へいくつか寄って、バーシュの港へも寄る――マルテルとバーシュは、陸続きだからね。それから、ミゼルカのデルテに戻る」

 バーシュと聞いたとき、ミカゼは頬の辺りが引きつるのを感じた。マリーはミカゼの顔が曇ったわけを知っているのだろう、元気を出せというように、明るくミカゼの肩を叩いた。

 「バーシュにも、いろんな人がいるさ。近頃訳の分からないことを言ってくるやつらも確かにいる。けど、ひとまとまりに考えるには括りが大きすぎるよ。見てみれば分かるさ。それにね、バーシュから来る布教師のほとんどは、バーシュに雇われてるだけでもとは違う国のやつらなんだから。――そこで相談なんだけど、あんたも一緒に来ないかい? 〈ミセルマの子〉がひとり乗っててくれると、本当に助かるんだけど」
 「わたしが――? 」

 ミカゼはうろたえた。ミカゼは、山の暮らししか知らない。だがその懐かしい山は、ミカゼの目の前からどうあってもなくなることはないだろうと信じて疑ったことのなかった山は、メーアの港から船が離れていくのと一緒に青くぼやけていきつつあった。

 マリーもティムも分かってる、と頷いてみせた。

 「もちろん無理は言わないさ。船なんて、慣れてないだろうしね。マッシリアに行く前にどこかの港へ寄って、下ろしてあげることもできるよ。あんたが決めていい」

 ミカゼは目の前に広がる海原を見渡した。ここには、ミカゼが親しんできたものはない。空だけが同じだったが、それすらどこか違って見える気がした。大地も薬草もなく、風にはわずかに潮の匂いが混じる。

 だが、これまでの暮らしにあってこの船の上にないものの中に、ミカゼが今必要としているものが一体どれだけあるというのだろう? このままメーアに戻ったとして、何が得られる? 人々の中傷と恐怖、それにパーミリオの待ち伏せ? ミカゼの力を必要としているマリーたちの誘いを断ってまで手に入れたいものがどれかひとつでもあるだろうか? ………

 決まったようだね、とマリーがミカゼの差し出した手を取った。ミカゼは〈ミセルマの子〉たちの間で古くから語られてきた言葉を思い出していた。

 新しい風が吹いたなら、逃してはならない。一度吹きはじめたら、二度と吹く前には戻らないのだから。
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