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2、月の夜と妙な嵐

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 船の上で自分にできることなど限られているだろうとミカゼは思っていたのだが、以外にも仕事を見つける機会はすぐにやってきた。

 ベルマリー号では、船医のティムが炊事も担当していた。夕方、ミカゼが船員のひとりに連れられて厨房を覗くと、ティムはちょうど大きな鍋で何か煮込んでいるところだった。

 「今日は具だくさんのスープです。生クリームを入れてみたんですよ」

 ティムは香草を千切って投げ入れつつ、上機嫌で言った。

 「パンかビスケット、好きな方を一緒に持っていってくださいね」

 食堂は、船中で一番大きな部屋だった。薄暗い部屋にはランプがいくつか吊り下げられ、大きな机と、それを囲む椅子が置かれている。どう見ても、船員の方が数が多い――見ていると、隅に置かれている樽や木箱に腰かけて、自由に食事をはじめるものもいるのだった。

 娯楽の少ない船の暮らしで、食事は楽しい時間のはずだ。だが、ベルマリーの食堂は話し声こそすれ、なぜか慎ましげな、しんみりとした雰囲気が満ちていた。

 「食べてみれば分かるわよ」

 帆縫い係セイルメイカーのアニーがミカゼに話しかけた。彼女はミカゼよりも少し年上で、前は大きなお屋敷でお針子をしていたらしい。髪も目もカラスのように真っ黒なミカゼとは違って、くすんだ赤毛に緑色の目が鮮やかだ。はつらつとした彼女だったが、今はその顔がとても渋い。

 「文句なんか言える立場じゃないのは分かってるけど、期待だってとてもできないのよ」

 アニーは自分で料理をひとさじすくって食べて、そのまま無言でパンをむしった。ミカゼも続いたが、じきに船員たちの態度の訳が知れた。

 ティムの料理は、やけに味が薄かった。さらに、具がやたらにたくさん入っていた………じゃがいも、にんじん、たまねぎ、鶏肉、豚肉、きのこがいくつか、ほうれん草、芽キャベツ、トマト、白身の魚、いか、貝、パセリ、セロリ、とうもろこし、麦などなど。形はないが、調味料もふんだんに使われているであろうことは、微妙な酸味やらオリーブの香りやらがすることで明らかだ。

 溢れんばかりの具材はよく煮込まれて、それぞれに旨味や食感を加えてはいたが、惜しむらくは互いに互いのよさを打ち消し合って変にごちゃごちゃした味に仕上がっていることだった。ティムは確かに具だくさんだと言ったが、どう見たって入れすぎだ。

 「素晴らしい味だろう」

 遅れて入ってきたマリーがミカゼとアニーのそばへ来て座った。自分の分をよそって来たティムに聞こえないように、ミカゼをつつく。

 「先生は船医としての腕は確かなんだけど、料理の方は何ともね」
 「健康を考えて、いろいろ入れてくれてるっていうのは分かるんだけどな」

 近くにいた船員がパイプをふかしながら話に加わった。

 「見てみな。カツミなんか俺より古株だから、慣れちまってるんだぜ。この味に……」

 ミカゼは言われた方を見ると、例の青年航海士が部屋の隅で平然とお椀をかきこんでいた。船員は肩をすくめた。

 「見てるだけで胸やけすらあな。若いからか知らんが、何食わされても腹を壊さないからな、あいつは」
 「決めた」

 味のきつさに骨を折りながらも、ミカゼはよく分からないスープを平らげた。アニーが称賛のまなざしで見つめる。彼女は具材を一度粉々にするという作戦をとっていて、手始めにじゃがいもを細かくしている最中だった。

 「わたし、お料理をやるわ。やらせてください」
 「できるのかい? 」

 マリーは期待を隠さずに聞いた。ミカゼは頷いた。

 「ミゼルカの家庭料理なら、心得はあります」
 「それなら、まず先生の助手ってことで厨房に入ってもらおうかな……先生も忙しいだろうから、きっと喜ぶよ。だけど、先生は料理するのが好きだから、追い出したりせずに何とかうまくやってくれるかい? 」
 「大丈夫です。ちょっといろいろ入れすぎているだけだと思うから、すぐにおいしくなるわ」
 「ほうれん草は抜きにして」

 アニーはとうとうスープを後回しにして、堅いビスケットを割った。

 「知ってる? 長いこと船旅をしてるとね、このビスケットに虫がわいてくるそうよ――コクゾウムシがね。ベルマリーの航路は港から港までそこまで長くないから、わたしはまだ見たことないけど」

 マリーは船員たちの間を回ってきた皿から果物を一切れとってミカゼとアニーにもすすめた。どうやら、オレンジの一種らしい。

 「短くなるように組んだ航路でも、普通は風向き次第で長くなったりするもんさ。だから、〈ミセルマの子〉はありがたいっていうんだ……」

 コーヒーを飲みすぎている(スープの味をごまかしながら食べているせいだ)船員を止めるティムを見るともなしに見ていると、彼ら越しにミカゼはカツミと目が合った。彼の目はしばらくこちらを見つめていたようだったが、かちあった途端にさりげなく逸れて、二度とミカゼの方を向かなかった。



 この時期になると、夜空が暗い。月だけは他の季節よりも綺麗に照るけれども、見入っていると心の内側を暴かれるようで恐ろしい。

 同じような、怖い目をした少女と、彼は知り合ったばかりだった。優しく聡明な光の灯されたあの瞳。だから目を背けたのだ。彼女が悪いのではない。

 船に不慣れなその足取りが少し心配ではあったが、どうやら仕事も見つけたようだし、自分の出る幕はいよいよないだろう。同じ船に乗っているのだから、話をするくらいなら別に大したことはない。彼女になら、親切に世話を焼いてやる人間はたくさんいるだろうし………。

 「こんばんは」

 船べりにもたれて油断していたところへ突然声をかけられて、カツミはぎょっとした。この時間に、甲板で当直以外の誰かに会うとは思ってもみなかった。

 それも、相手はよりにもよって――。

 「甲板に出ろって言われたのか? 」

 まさか人手が足りないとか何とか言われて、こんな夜中に当直まで言いつけられたのだろうか? カツミは思わず勢い込んで尋ねたが、当のミカゼは首を横に振った。

 「いいえ。もう休んでもいいって言われてるわ。あなたのことを聞いたら、アインマルトさんがここだって教えてくれたから」
 「………なんだよ」

 話をするくらいなら大したことはないと考えたばかりなのに、どうしてこんな冷たい言い方しかできないのだろうと思いながら、カツミは言った。アニーと話すときにどうしているか思い出そうとしたが、カツミがアニーに話しかけることも、アニーがカツミを話し相手に選ぶことも実はめったにないのだった。第一、アニーとミカゼでは雰囲気が違いすぎて参考にならない。船長は……もっと違う。

 ミカゼはカツミのそばまで姿勢よく歩いてきた。生乾きの髪がつやつやと光り、重たげに揺れている。色だけは同じだが、きっと麻と絹くらいに違うだろうと、カツミは自分の傷んだ髪のことを考えた。

 「あなたには、まだお礼を言ってなかったのよね」

 よく通る明るい声で、ミカゼは言った。

 「昼間は、どうもありがとう。困ってたのよ」
 「船長に言いな、そんなこと」
 「もちろん言ったわ。さっきもう一度ね」

 ミカゼはカツミと同じように船に寄りかかった。

 「そうしたら、マリーさんが言うより先に、あなたが助けてくるって言ったんですって」
 「……ずいぶん絡んでやがったから……」
 「そうね。ありがとう」

 しばらく、沈黙が下りた。ミカゼが船の中に戻ろうとしないので、何と言っていいか分からないままカツミはしびれを切らした。

 「……まだ何か用か」

 ミカゼは丸い月を見ながら肩をすくめた。

 「別に」
 「じゃあさっさと寝ろ。船酔いしてるんじゃなきゃな」

 ここは冷えるし、安全でもないから、というところまで言葉はできていたのだが、カツミは口から出さなかった。こいつもこいつだ、とひそかに毒づく――どうして、おれに構うんだ。こんなに冷たくしてるのに。

 「あなたって、優しいわよね」

 ミカゼはそう言って、続けた。

 「――あなたも〈ミセルマの子〉が嫌い? 」

 思いもかけないことを言われて、カツミは思わず、まともに彼女を見てしまった。しかし、すべてを見透かされそうなミカゼの目が暴いたのはむしろ、ミカゼの心の方だった。

 カツミは〈ミセルマの子〉を嫌ったことなどない。敬われ、恐れられることはあるかもしれないが、今バーシュの布教師がミゼルカでふれまわっているような邪で禍々しい魂を持つ人々だとは思っていない。ミカゼひとりを見ても、人から嫌われる心配をしなくてはならないようにはとても見えなかった。

 ただ、当の〈ミセルマの子〉がどう思っているのか、どう扱われてきたのかまでは、考えたことがなかった。

 カツミが答えないので、ミカゼは目を逸らした。

 「嫌いならいいわ。お礼を言いたかっただけよ」
 「ミカゼ」

 カツミはつい、呼びとめた。そして、あっと思ったときにはもう、口をついて言葉が飛び出ていた。

 「おまえは、おれが嫌じゃないのか? 」

 これが偽らざる本心からの問いであることに、カツミはしばらく自分でも気がつかなかった。だが、いろいろ考えてみても、ミカゼを避けようとした理由はこれしかない。

 カツミが人から避けられたり、奇異の目で見られたりするのは珍しいことではなかった。カツミは他人からのそうした扱いにはもう慣れてしまっていて、どんな目で見られようが無視できるのだが、ミカゼに同じまなざしを向けられるかもしれないと思うと、なぜか彼女を避けていた。ベルマリーに乗り組んでからしばらく忘れていた卑屈な気持ちを思い出して、カツミは苦い気分を味わった。

 ミカゼはくるりと表情を変え、かえってカツミに尋ねた。

 「なぜ? あなたに助けてもらったのに? 」
 「なぜって……」
 「もしかして、あなた――」

 ミカゼがカツミの素性を言い当てたので、カツミはぎょっとした。だが、ミカゼはカツミの恐れていたような反応はしなかった。

 「あなたみたいな人がいるって、聞いたことがあるわ。会うのは初めてよ」
 「自分から明かしたりしないからな……それに、言わなくたって勝手に気味悪がる連中もいるんだ」

 ミカゼは暗い水平線を眺めた。月明かりだけが、細い道のように浮かび上がっている。

 「これからは、〈ミセルマの子〉だって今までみたいにはいかないわ……素性を隠して生活しなきゃならないかもしれないもの。いいえ、今までだって、本当は……。昼間声をかけてきた海軍の人は、自分も同じだって言ってたわ。国教が決まる前に海軍に入れば、自分の身を守れるからって……」
 「……でも、おまえは入りたがってたようには見えなかったぜ」
 「そうね。入ったら、確かに安全なんだろうけど。誇りがあるとは言えないわ」
 「〈ミセルマの子〉の誇りか? 」
 「わたしとしての誇りよ」
 「おまえの……」

 ミカゼは船べりから離れて、船室に続く扉を開き、こちらにほほえみかけた。

 「おやすみなさい」

 カツミも、今度は黙って見送った。

 水面の月は、震えるように揺れていた。



 次の朝から、さっそくミカゼに仕事がやってきた。ティムと一緒に厨房に入り、朝食の準備を手伝う。メーアを出港したばかりのベルマリー号には新鮮な食材がたくさん積まれていて、どんなものでも作れそうだ。珍しい調味料も棚いっぱい揃っている。きっと航路にある港に着くたびに、ティムが買い集めているのだろう。

 ティムは料理の話ができる人間が船に増えたことを喜び、ミカゼを厨房で歓迎した。

 「なるべく、栄養の取れるような献立にしなくてはと思うのです。船の生活では、十分な食材が揃っているとは限らない――だんだんと野菜や果物のようなものは食べられなくなってしまうので、そうすると壊血病になったりするんですよ」

 ミカゼが均等に切り揃えた野菜を茹でながら、ティムは言った。

 「みなさんが、わたしの料理をどう思っているかは知っています。わたし自身も、決しておいしいとは思ってませんから――しかし、作っている間は、どうしてもいろんなものを入れたくなってしまうんです。栄養のためばかりでなく、新しく買った調味料を試したくなってしまって……かといって、あまり塩辛いものは体によくないし……」
 「みんなが健康で仕事ができるのは、ティムさんのごはんのおかげだわ」

 ミカゼは湿気を吸って丸く固まった塩を砕いて鍋に入れた。昨日もらった胡椒を荒く挽いて、これも入れる。香辛料だけは、買いこめるほど安くないのだ。

 「よい食事はどんな薬にも勝ると、母はよく言っていました」
 「素晴らしいお母さまですねえ。そういう心得を、東のある国では〈医術と食事の源は同じもの〉というふうに言うそうですよ」

 ティムは野菜のスープをミカゼに任せて、別の鍋で大きな魚の蒸し焼きを作りはじめた。そして、棚から塩を数種類と、乾燥した香草、色とりどりの香辛料の粉末などを山ほど取り出してミカゼに相談した。

 「この魚はあっさりした味付けの方がおいしく食べられるのですが、どうでしょう。わたしとしては、この新しい果実酢を使ってみたいのですが……あと、このシナモンと、にんじんと、トマトと……」
 「果実酢は、素敵だわ。でも、シナモンは風味があるから、お魚の味がなくなってしまうかも……。にんじんはこっちのスープに使っているから、トマトときのこを一緒に蒸してみたらどうかしら」
 「なるほど。それじゃあ、少し甘めのタレをあとからかけて食べてもらいましょう」
 「それ、クリームソースでもおいしそうね」

 アニーがやって来て、口を挟んだ。

 「すごくいい匂いがしてるわ。我慢できなくて見に来ちゃった」
 「もう少し待ってね。この魚、さっき釣ってもらったばかりだから、きっとおいしいわよ。パンをオーブンから出してくれる? 」

 そこへ、釣竿を持ってカツミが入ってきた。魚を手に提げている。蒸し焼きにしたのと同じ魚だったが、ずっと大きかった。

 「これで足りるか? 」
 「ええ、ありがとう。そっちはクリームのソースにするわ」
 「あいつら、もう待てないみたいだ」

 カツミがうしろを親指で指した。厨房の扉越しに、船員たちがにこにこ覗きこんでいた。

 その日は、実に天気がよかった。ティムが難所と言ったとおり、風の豊かなところの次に急にベタ凪(まったく風の吹かないときのことをそう言うのだと、ティムが教えてくれた)になったり、大きな渦潮がいくつも見えたりと、ミカゼは気が気でなかったが、船員たちは慣れたものだった。

 進めようと思えばいくらでも進められる、自然に動かないなら、たまにはのんびりしたっていいじゃないか、というのが船長以下全員の一致した意見だった。

 「この海には、百尋ある魚が棲んでんだ」

 甲板に座ってミカゼにロープの結び方をいろいろ教えながら、カツミが言った。

 「船が通ると底の方から上がってきて――違う、こっちに……そうそう――下からどんな人間がいるか見張ってんのさ」
 「あの渦潮がその魚の目ってわけ? ……これで合ってるかしら? 」
 「ああ、ちゃんとできてる。これはこま結びっていうんだ……」
 「昔は怪しい人に結ばせて、船に紛れ込んだ泥棒を探すのに使われていたんですよ」

 ハーブの植わった鉢を抱えて通りかかったティムが通り過ぎざま言った。

 「百尋の魚とは夢のある。その半分の魚なら、いますけどね。釣れればいい食材になります」
 「船医さんもたいがい冗談好きだよな。五十尋なんて、この船と同じくらいあるぜ」

 ティムに続いて大きな鉢を持ってきたアインマルトが、渋い顔でふたりに耳打ちした。

 「いくらなんだってそんなに食えないよな」
 「まあ」

 ミカゼはおかしくてたまらなかった。これまでに、こんなふうに軽口を叩きあえる友人はひとりもいなかった。

 「お魚もいいけど、お夕食はお肉にするわ。豚肉と、大豆をトマトで煮るの」
 「皮を残しておいてくれよ」

 ロープを巻いて片づけながら、カツミが脇から言った。

 「釣餌になるんだ」
 「そうなの――」

 船が引っくり返るようなのはやめてねと、のんびりと返そうとしたのだが、それは叶わなかった。

 風の動きが変わった。急にベルマリー号の中を吹き抜けていった風はやけに生ぬるく、船べりを叩く波音はやけに静かだった――鳥の声がしない。

 雲はない。だが、確かに遠くから風がやってくるのが分かった。重くて、すべてを食い破るような風が。

 「嵐が来るわ」

 ミカゼが呟くと、カツミは一瞬、晴れの夕空に目をやった。しかし、迷いはしなかった。

 「船長! 」
 「どうした? 」

 寡黙な青年で通っているカツミが珍しく大きな声を出したので、マリーだけでなく他の船員たちもこちらに注意を向けた。

 「嵐が来るみたいです」
 「嵐? 」

 マリーはカツミと同じように雨すら降らなそうな空を仰ぎ見たが、ミカゼに尋ねた。

 「いつ来る? 」
 「まだ遠い――」

 ミカゼは言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。恐ろしい予感に、鳥肌が立つ。

 なんて早い風だろう。まるで、ベルマリー号だけを狙いすましているようだ――もうすぐそこまで、とマリーに伝えるのさえ、間に合わなかった。

 足元が嫌な揺れ方をした。海面を滑るように迫ってきた凄まじい風が、張り渡された帆布を引き千切る勢いで煽る。

 「これを持って、座ってな。絶対に離すんじゃないよ」

 マリーは転びそうになったミカゼにマストから伸びている太いロープを持たせ、普段よりさらにはきはきと指示を飛ばした。

 「操舵手、向きを変えな、早く! すぐ行く。アニー、頭を出すんじゃない! 落ちたら承知しないよ、あんたたち! 」

 操舵手のアインマルトが、必死でベルマリー号の向きを変えようとしているのが見えた。今の向きのままでは船尾にまともに波を受け、舵を持っていかれてしまう。

 そうなったら、船の運命など決まったようなものだ。

 「ミカゼ! 」

 ロープにつかまりながら立とうとしたミカゼに、カツミが怒鳴った。彼もロープを掴んだきりなかなかその場から動けず、ミカゼを船べりから少しでも遠ざけようと頑張っている最中だった。

 「下手に動こうとするな! 」
 「この風、おかしいわ」

 ミカゼも怒鳴り返した。

 「普通の嵐じゃないわ! 」

 ミカゼはカツミの手から縄を一本ひったくった。何度も失敗しながら緩い結び目をひとつ作り、カツミが止めるのも構わずに立ち上がる。水平線の夕焼けは血のようだ。

 ミカゼは目に見えない風を睨んだ。一度だ。一度で決めなければ、この嵐を読みきることはできない。

 嵐は意思があるかのように一度ベルマリーから離れ、ミカゼに向かって突っ込んできた。ミカゼは吹き倒されそうになりながらも、縄の結び目をきつく締めた――今までのどの風よりも抵抗があったが、嵐はやがて大人しくなった。これがミカゼの〈ミセルマの子〉のわざだ。結び目をほどくまで、嵐は縄に留められているしかない。

 ベルマリーの船員たちは呆然として、ひとり残らずびしょ濡れだった。何が起きたのか、よく分かっていないに違いない――それは風をとらえたミカゼ自身もそうだった。ミカゼは安堵と混乱で、ぼんやりとその場に立ちすくんだ。それがよくなかった。

 嵐の名残ともいうべき、飢えた狼のような重い風が、揺り返しの収まりきらない波に傾いだ帆船からミカゼを突き落とした。黄昏の赤黒い海が、底なし穴のように彼女を待ち構えている――。

 ぱしゃんと儚い音を立てて、ミカゼのサンダルの片方が波間に消えた。

 「……下を見るなよ」

 船べりから乗り出して、カツミがミカゼの手を捕まえている。分かった途端に力が抜けそうになって、ミカゼはもう一方の手で彼の手を握り返した。

 「――カツミ……」
 「じっとしてな」

 カツミは片腕とは思えない力でミカゼを引っ張り上げると、彼女を抱き上げて甲板へ連れ戻した。固い木の甲板は波に洗われて、嵐のせいでめちゃくちゃだったが、海の底よりどんなにいいだろう。一瞬垣間見たあの波間の暗さに、今になって眩暈がするようだった。

 「大丈夫か! 」
 「怪我は? 」
 「それにしてもすげえもんを見たなあ……」

 船員たちは、嵐を鎮めたことへの称賛半分、海に呑まれそうになったことへの心配半分といった顔で集まってきた。

 「すごい嵐だったわね! 」

 アニーがミカゼの肩を抱いた。

 「どうやってやっつけたの? 」
 「……あれは嵐じゃないわ」

 ミカゼはようやくそう言った。唇は今まで感じたこともないくらい冷えていたが、話すにつれて怒りで熱を帯びてきた。

 「あれは、本物の嵐じゃない――あの風は、悪意を持っていたわ」
 「嵐の空って感じでもなかったしね。まったく、あんたがいなかったらどうなっていたことか」

 ともへ行っていたマリーとアインマルトが戻ってきた。嵐を収めたのはミカゼだが、このふたりの操舵と総員の操帆がなければ船はもたなかっただろう。ひとりの犠牲もなかったことが奇跡のように思えた。

 「悪意を持っていたということは、誰かが意思を持って吹かせたということですね」

 とティムが優しく言った。ミカゼは勇気を出した。

 「あれは、……〈ミセルマの子〉の吹かせた風だと思います」

 嫌な沈黙が下りた。〈ミセルマの子〉と船乗りたちが何百年もの間に築き上げてきた信頼はもろいものではないが、このときベルマリー号に乗り組んでいた全員が、同じことを考えたに違いなかった。

 〈ミセルマの子〉の風は、船乗りを助けるためのものと決まっている……なぜなら、女神ミセルマは、航海の安全を守る神だからだ。だが、それがもしそうでなかったら、彼らは果たして、ありがたいだけの存在なのだろうか。

 ミカゼは〈ミセルマの子〉が恐れられ、異端とされる理由を、目の前に突きつけられた気がした。

 「おまえさんじゃないんだよな? その、おまえさんの風じゃ? 」

 ある船乗りが、おずおずとミカゼに言った。ミカゼの気持ちを損なわないように、という気遣い――呪わないでくれと、彼の目が言っていた。

 船乗りは義理堅い。そして、同じくらい迷信深いのだ。

 「もちろん、分かってるさ……だが――」
 「誰を疑ってる」

 低い声で言ったのはカツミだった。

 「ミカゼはこの船の恩人だ。嵐を鎮めて、おれたち全員の命を救った。引き換えに死ぬような目に遭いながらな」
 「だから、そんなこと分かってんだよ! 分かってたって、おかしいじゃねえか。今まで、こんなこといっぺんだってなかった! それも、海の上でだと! 何の冗談だ? 」
 「僕、さっき船影を見ました」

 当直で甲板に立っていた見習いのアルベルトという少年が、おどおどと口を開いた。同じ当直班の航海士が、なんだと、と言ってぎろっとそちらを見た。それがその航海士のふつうの目つきだったのだが、生まれて初めて嵐に遭って死ぬほどの思いをした少年は、すっかり縮み上がった。

 「どうして何も言わなかったんだ」

 横合いからカツミが言った。カツミは、陽気に見えないだけでそれなりに温和で面倒見のいい青年なのだが、表情が致命的に乏しいばかりか固いので、気の毒な少年に与える威圧は黒ひげの航海士と大して変わらなかった。

 しかし、アルベルトは必死に意見を述べた。

 「すぐ見えなくなったんです。本当にすぐ……見間違いかと思って……。だから、その船に〈ミセルマの子〉が乗ってたのかもしれません。あのときの風向きだけで、あんなふうに船を動かすことはできないと思います」
 「こら、見張り役」

 黙って聞いていたマリーに声をかけられて、別の若いふたりが居ずまいを正した。

 「見習いにだけ責任を負わせるわけにはいかないからね。あんたたちは見てないのかい? 」
 「はっ、自分たちは拝見しておりません」

 船長に対してありったけの敬意を示そうとかえって妙な言葉の使い方をしながら、ふたりは言った。マリーはティムと顔を見合わせて腕を組んだ。

 「アルベルトはこの船の中で一番目がいい。それでも見間違いかと思ったくらいの逃げ足だ――こっちに気取られないようにしてたのかもしれないね。どっちにしても、この船に用があるならじきにまた何か仕掛けてくるだろう。……アルベルト、ここはもういいから、ランプに火を入れておいで」

 船の明かりの管理は、見習いの仕事だ。アルベルトは一礼して、ミカゼを気にしながら船尾に上がっていった。

 「ずいぶん流されたね。位置は? 」
 「エリス島のあたりだと思います。舳先が南を向いている」

 瞬きだした星を見上げて、カツミが言った。

 「あそこに陸が見えます」

 レーヌ・エリス島は、ミゼルカ領の島だ。古代の女王の名がつけられた美しい場所で、大きな港が開かれている。

 「マッシリアでいろいろ積んでいく約束だったんだけどね――」

 マリーは頭の中で算盤をはじき直しているらしい。彼女もひとりの商人なのだとミカゼは思った。

 「こんなありさまじゃあ、このままマッシリアまで行ってもね。積み荷はどうなってる? 」
 「下の船倉に水が入り込んで、小麦粉がだめになっちまいました」

 船の中の様子を見に行っていた船員が戻ってきて報告した。

 「織物はいくらか残ってるが、まあびしょびしょでさ。よく沈まなかったもんで」

 船員は海の女神に祈りを捧げるしぐさをした。

 「帆はぼろぼろ、甲板は穴だらけ、人間だけは無事、か。都合がいいね」

 ミカゼはマリーがやけっぱちの皮肉を言ったのだと思ったが、どうやらそうではなさそうだった。マリーはティムと二言三言相談すると、やがてぱちんと手を打った。

 「よし、今夜はとりあえず、エリスに上陸しよう。様子を見ないと分からないけど、このまま乗ってたら危ないかもしれないしね。話はそれから。総員、使える帆をしっかり張りな。早くね」
 「アイ、キャプテン」

 船員たちが甲板に散っていく。カツミがミカゼに縄をよこした。初めて会った日に、彼に渡した縄だ。

 「あの島に向かって船を押してくれ。岸まで行かなくてもいい。少し沖まで」
 「ちょうどいいところで合図してくれる? 」
 「ああ。頼んだぜ」

 カツミは特別何も言わなかったが、ミカゼには分かった。カツミは、わざとみんなの前でミカゼに縄を渡したのだ。

 「ありがとう」

 カツミは振り向いたが、黙って頷いてまたすぐそっぽを向いてしまった。



 小さなボートで上陸したのは、レーヌ・エリス島の〈裏側〉だった。人の気配はなく、目の前には森が広がっている。

 ベルマリー号は浅瀬の外に錨を下ろした。夜の暗がりで見るぼろぼろの帆船は、灯りが入っていないせいか、まるで幽霊船のようだった。

 「明日、港まで歩いていくしかないね。小さな島だから、そうかからないはずだ」

 船員たちが火を起こすのを見守りながらマリーが言うと、アニーがミカゼに向かって肩をすくめた。

 「帆もいくつか新調しないとだめね。繕って間に合えばいいけど、直しきれそうにないわ」
 「帆を縫うのって、大変? 」
 「そりゃあね。しょっちゅう傷むし、帆布は硬いし。専用の針を使って縫うのよ」

 アニーは鍋で煮込み料理を作るミカゼと、てかてか光るスープの金色の脂を眺めた。妙な嵐は、夕食用にとミカゼが出しておいた厨房のパンとビスケットをひと山だめにしていた。

 「あんたもすごいわね。ありあわせのものだけで、それだけおいしそうなものを作れるんだから」
 「何とか、今夜の分くらいは残ってくれて助かったわ」
 「本当ですねえ。かなりの幸運が重なっていると思わざるをえません」

 別の火で包帯を乾かしながらティムが言った。

 「最低限の薬と、手当の道具も何とか無事でした……もっとも、この薬は今まで一度も出番がありませんでしたが」
 「あら、何の? 」
 「船酔いですよ。みなさん見習いの頃に、荒療治を覚えてしまいますから――酔ったら、目いっぱい海水を飲むんです。胃の中のものを全部出せば、楽になります」

 マリーがお椀の塩豚をつつきながら苦い顔をした。

 「先生、食べてるときに出す話はやめておくれ! 」

 簡単な夕食が済むと、船員たちには各々の自由な時間が許された。いつもは当直で甲板にいなければならないものも、ヴァイオリンを持ち出してきて明るく歌いはじめる。
  
 見習い三人を合わせて十五人の船員たちが、声のいいのから順番に歌わされはじめ、酒は入っていないのにみな酔っぱらったようになってふざけだした。マリーはオールを台にして何か書きものをしているし、ティムはにこにこして調子を取っている。霜の降りたような夜の静けさが恋しくなったミカゼは、少し収まってから加わろうとそっと抜け出した。

 「ミカゼさん」

 離れた砂浜には、先客がいた。アルベルトとカツミが、兄弟みたいに並んで座っている。とはいえ、寡黙なカツミと一緒にいるのはなかなか気づまりらしく、アルベルトはミカゼを見つけてほっとした顔をした。

 「あなたたちは宴会に入らないの? 」
 「僕たち、歌わされるんです」

 アルベルトは目の前の細かな砂に指で絵を描きはじめた。

 「これ、僕のうちの猫です」

 カツミはミカゼを目で呼んで、そばへ来た彼女に桃色の小さな丸いものをふたつ渡した。

 「真珠だ」

 カツミはアルベルトの猫に長いひげを描き足しながら言った。アルベルトは真珠を見て歓声を上げた。

 「〈朝焼けの星〉だ! 」
 「〈朝焼けの星〉って? 」
 「桃色の真珠のことです。ミゼルカより東の、限られた国でしか採れないのですごく珍しいんです――人気があるから人工的に染めてあるやつがたくさん出回ってて、その場合はそう書かないと取引できない決まりなんです」
 「詳しいのね」
 「僕の家、宝石商なんです」

 商船に乗り組んで、商売というものがいかに大変かを見てこいと父に放り出されたのだとアルベルトは語った。こんな目に遭っている以上、その目論見は成功しているといってもいいだろう。

 「これは染めものじゃない」

 船長に無理を言って選り分けてもらったのだとカツミは言った。

 「ひとつ、海に投げてこい。死なずに済んだ礼と、おまえの魂の代わりだ」
 「女神ミセルマに」

 アルベルトが言った。

 ミセルマは、世界に満ちる命を生み、凪と嵐を同時に支配する慈悲深い女神であるとされる。海で死んだものは彼女の懐へ還す。死を免れたものは加護を感謝し、みずからの代わりになるものを収めるというのが、この国の船乗りたちの習わしだった。

 「もうひとつはどうすればいいの? 」
 「おまえが持ってればいい」

 カツミはなぜか、ミカゼの方を見なかった。

 「それは、ずっと持っていられるようにしろよ」

 ミカゼは真珠を暗い海に投げた。上っていく白い泡に紛れて小さな珠が沈んでいくのが、見えるような気がした。
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