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五十歳
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翌日、俺は昼に母親と会う約束をしていて、実家にこそ顔を出さないが、最寄りの駅まで行くことになっていた。免許返納をしてしまった母親がこっそりと外出するためには、公共の交通機関か家族に送迎してもらうしかなく、外出する機会が減っているようだった。尤も父親は免許返納に抵抗しており、車の傷を増やしながら運転しているらしい。これも母親から聞いたことだが、俺に意見なんてできるわけがない。
マッシモの妹さんと約束しているというユーキと一緒に、ホテルをチェックアウトした。お互いに少し時間が空いたねと言うと、ユーキが行く場所があると言う。
「テンテルダイジン。チヒロがここに来たとき、電話で風の音を聞かせてもらった」
広葉樹の葉が折り重なった鎮守の森の中、社の上にぽっかりと開いた空を思い出した。初夏の風は、神社の上に清々しく吹いているだろうか。
「俺も行きたい」
農地の中を通る道を歩くのは、高校卒業以来だ。
毎日自転車で、この道を走った。途中で誰かと会い、並走することも多かった。マッシモの銀色のロードマンが来ないかと、キョロキョロした曲り道。重い鞄を下げて、ひとりで歩くユーキの姿。陸上部が長距離の朝練で、息を切らしながら走ってくる。群れる制服の、中身のないお喋りと悪ふざけを、軽トラックのクラクションが散らしていく。きっと時間が時間ならば、今でも同じ風景があるだろう。
ツルを伸ばし始めたインゲンが支柱を登っていくさまや、ビニールハウスの前に置かれたコンテナの中のトマトは、日常の風景だった。畑のふちには、家の仏壇にあげられるだろう花が植えられている。腰に手ぬぐいを下げた男たち、目以外のすべてを蔽って日焼けを防ぐ女たち、あの中に若い日の両親もいた。
三十年あまり、ほとんど思い出しもしない風景だったのに、一度目にしてしまえばクチボソの泳ぐ用水路の場所まで覚えている。
鳥居の前で礼をして、小さく開けた神社に入った。神主の常駐していない神社なのに、三十年前と変わらぬ佇まいであることに驚く。綺麗に掃き清められ、雑草のひとつも見当たらない。社の塗りは剥げておらず、鈴の縄さえ綺麗に綯われている。氏子が定期的に、きちんと手入れしているのだ。
ユーキの隣を歩きながら、無意識に口許を押さえる。クソみたいな田舎だとしか表現できなかった場所は、記憶よりも穏やかに美しい。
「変わらないねえ」
ユーキはひとつ大きく呼吸して、空を見上げた。俺も空を見上げてから、賽銭箱の前に腰かけた。
「オガサーラの指定席だね、そこ。私は賽銭箱に寄りかかって、マッシモはここ」
そう言いながら、ユーキは俺の横にすとんと腰掛けた。
「木を抜ける風の涼しさも、外からの音が入ってこないとこも一緒だな」
言いながらユーキのほうを向いた瞬間、なんとも例えようのない感覚に襲われた。色の白い面長の、銀縁の眼鏡をかけた若い男が、隣に座っているような気がしたからだ。瞬きすればそれは俺と同じ年齢のユーキで、眼鏡なんかかけていないし、どこからどう見ても男ではないのに。
ぐらりと視界が揺れる。あれが夢だったとは考えたくない。このあとの数分だけ、俺とユーキの記憶はまったく食い違う。
「オガサーラが羨ましかった」
ユーキの声が副音声のように聞こえた。
「男らしい体格も、おおらかな人懐こさも、羨ましかった。村井先生の許可が下りて次の行動が決まれば、最短距離の段取りで動きだせる行動力が羨ましかった。何も悩みのなさそうなオガサーラが、ひどく追い詰められているのを知ってから今度は、おおらかさと明るさを装い続けることのできる強さが羨ましくなった。ねえオガサーラ。生涯最高の友達を、誇りに思っているんだよ」
目の前にあるのはユーキの顔なのに、その表情と言葉遣いはマッシモそのものだ。手が震え、喉が渇いた。ここにいるマッシモが消えないように、俺は手を伸ばしたけれど、抱き寄せたのはユーキの小さな身体でしかなかった。
ユーキが俺の腕の中で、小さな声で呟く。
「浩紀?」
俺と一緒のとき、マッシモとユーキは高校生のころと同じように呼び合っていた。だから下の名前を呼び合うのは、ふたりが夫婦の時間だ。
俺とユーキはふたり同時に夢から覚めたかのように見つめあい、それからゆっくりと離れた。俺は今しがたのユーキの表情と言葉を反芻し、記憶の姿と重ね合わせることに必死になった。だからしばらく、ユーキがどうしているかなんて考えもしなかった。
ユーキは静かに空を仰いでいた。何かを探すような何かを諦めたような表情で、眼差しに色があるとすれば、そのときのユーキの眼の色は透明だったのではないかと思う。
おそらくユーキはユーキで、俺とは別の言葉を聞いていたのだ。オカルトとか心霊とかを信じたことなんてないが、俺とユーキのふたりだけに通じるマッシモの喋り方のクセや息遣いを、間違えるなんて思えない。
長いこと隣り合わせて座っていたような気がするが、実は三十分にも満たない短い時間で、俺のスマートフォンのスケジューラがふたりを現実に戻した。
「母ちゃんが待ってるから、俺は駅に戻るよ」
俺が言えば、ユーキが答える。
「私はまだ少し座ってく。帰りの新幹線、一緒でいいよね、あとで連絡して」
「おう」
昔から少しせっかちな母が、もう駅で待っているのではないかと慌てて歩く。こんな時間に農道の向かい側から、銀色のロードバイクに跨った学生服が走ってくる。あれはマッシモじゃないのだ。
「じゃあな、マッシモ」
何故か口からこぼれた言葉を、もう一度頭の中で繰り返す。
じゃあな、マッシモ。
マッシモの妹さんと約束しているというユーキと一緒に、ホテルをチェックアウトした。お互いに少し時間が空いたねと言うと、ユーキが行く場所があると言う。
「テンテルダイジン。チヒロがここに来たとき、電話で風の音を聞かせてもらった」
広葉樹の葉が折り重なった鎮守の森の中、社の上にぽっかりと開いた空を思い出した。初夏の風は、神社の上に清々しく吹いているだろうか。
「俺も行きたい」
農地の中を通る道を歩くのは、高校卒業以来だ。
毎日自転車で、この道を走った。途中で誰かと会い、並走することも多かった。マッシモの銀色のロードマンが来ないかと、キョロキョロした曲り道。重い鞄を下げて、ひとりで歩くユーキの姿。陸上部が長距離の朝練で、息を切らしながら走ってくる。群れる制服の、中身のないお喋りと悪ふざけを、軽トラックのクラクションが散らしていく。きっと時間が時間ならば、今でも同じ風景があるだろう。
ツルを伸ばし始めたインゲンが支柱を登っていくさまや、ビニールハウスの前に置かれたコンテナの中のトマトは、日常の風景だった。畑のふちには、家の仏壇にあげられるだろう花が植えられている。腰に手ぬぐいを下げた男たち、目以外のすべてを蔽って日焼けを防ぐ女たち、あの中に若い日の両親もいた。
三十年あまり、ほとんど思い出しもしない風景だったのに、一度目にしてしまえばクチボソの泳ぐ用水路の場所まで覚えている。
鳥居の前で礼をして、小さく開けた神社に入った。神主の常駐していない神社なのに、三十年前と変わらぬ佇まいであることに驚く。綺麗に掃き清められ、雑草のひとつも見当たらない。社の塗りは剥げておらず、鈴の縄さえ綺麗に綯われている。氏子が定期的に、きちんと手入れしているのだ。
ユーキの隣を歩きながら、無意識に口許を押さえる。クソみたいな田舎だとしか表現できなかった場所は、記憶よりも穏やかに美しい。
「変わらないねえ」
ユーキはひとつ大きく呼吸して、空を見上げた。俺も空を見上げてから、賽銭箱の前に腰かけた。
「オガサーラの指定席だね、そこ。私は賽銭箱に寄りかかって、マッシモはここ」
そう言いながら、ユーキは俺の横にすとんと腰掛けた。
「木を抜ける風の涼しさも、外からの音が入ってこないとこも一緒だな」
言いながらユーキのほうを向いた瞬間、なんとも例えようのない感覚に襲われた。色の白い面長の、銀縁の眼鏡をかけた若い男が、隣に座っているような気がしたからだ。瞬きすればそれは俺と同じ年齢のユーキで、眼鏡なんかかけていないし、どこからどう見ても男ではないのに。
ぐらりと視界が揺れる。あれが夢だったとは考えたくない。このあとの数分だけ、俺とユーキの記憶はまったく食い違う。
「オガサーラが羨ましかった」
ユーキの声が副音声のように聞こえた。
「男らしい体格も、おおらかな人懐こさも、羨ましかった。村井先生の許可が下りて次の行動が決まれば、最短距離の段取りで動きだせる行動力が羨ましかった。何も悩みのなさそうなオガサーラが、ひどく追い詰められているのを知ってから今度は、おおらかさと明るさを装い続けることのできる強さが羨ましくなった。ねえオガサーラ。生涯最高の友達を、誇りに思っているんだよ」
目の前にあるのはユーキの顔なのに、その表情と言葉遣いはマッシモそのものだ。手が震え、喉が渇いた。ここにいるマッシモが消えないように、俺は手を伸ばしたけれど、抱き寄せたのはユーキの小さな身体でしかなかった。
ユーキが俺の腕の中で、小さな声で呟く。
「浩紀?」
俺と一緒のとき、マッシモとユーキは高校生のころと同じように呼び合っていた。だから下の名前を呼び合うのは、ふたりが夫婦の時間だ。
俺とユーキはふたり同時に夢から覚めたかのように見つめあい、それからゆっくりと離れた。俺は今しがたのユーキの表情と言葉を反芻し、記憶の姿と重ね合わせることに必死になった。だからしばらく、ユーキがどうしているかなんて考えもしなかった。
ユーキは静かに空を仰いでいた。何かを探すような何かを諦めたような表情で、眼差しに色があるとすれば、そのときのユーキの眼の色は透明だったのではないかと思う。
おそらくユーキはユーキで、俺とは別の言葉を聞いていたのだ。オカルトとか心霊とかを信じたことなんてないが、俺とユーキのふたりだけに通じるマッシモの喋り方のクセや息遣いを、間違えるなんて思えない。
長いこと隣り合わせて座っていたような気がするが、実は三十分にも満たない短い時間で、俺のスマートフォンのスケジューラがふたりを現実に戻した。
「母ちゃんが待ってるから、俺は駅に戻るよ」
俺が言えば、ユーキが答える。
「私はまだ少し座ってく。帰りの新幹線、一緒でいいよね、あとで連絡して」
「おう」
昔から少しせっかちな母が、もう駅で待っているのではないかと慌てて歩く。こんな時間に農道の向かい側から、銀色のロードバイクに跨った学生服が走ってくる。あれはマッシモじゃないのだ。
「じゃあな、マッシモ」
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じゃあな、マッシモ。
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