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五十一歳
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電車の中の読書は、何故こうも捗るのだろうか。東京駅から乗った特急の中で、持参した文庫本は読み終えてしまった。到着した駅から電車をふたつ乗り継ぎ、車窓の見慣れない景色を楽しんだが、やはり次は高速バスか車で来ようと思う。女の荷物は多くて、基礎化粧品やくつろぐためのゆったりした服を入れると、ひとりで部屋を取れる仕事の出張よりも大きなバッグになる。先に送ってしまえば良かったなと思いながら、観光より前にオガサーラの店に行き、荷物を預かってもらおうと決める。軽い用足し用の自転車が置いてあるはずだから、差し支えなければそれを借りてしまおう。
午後の早い時間でも、店には複数の客がいた。
「おう、早いな」
笑顔のオガサーラがカウンターの中から手招きすると、一斉に視線が私に向いた。
「何、マスターの彼女?」
「やっと嫁を貰う気になった?」
面白そうなからかい口調で、このひとたちが常連客であるとわかる。
「いやいや、このひとは長いつきあいの友達。ほら、去年の夏にセンセイの家に住み込んでた大学生がいたでしょ? あの子のおかあさん」
「色白のヒョロヒョロした子だっけ? あんな大きい子供がいるように見えないねえ」
カウンターの空いた席に腰掛けながら、ありがとうごさいますと返事した。オガサーラは私のオーダーも聞かずに、もう豆を挽いている。
「こんな綺麗なひとがただの友達なんて、信じられないなあ。マスター、これからでもひと花咲かせられるよ」
この店では、オガサーラが同性愛者であることは知られていないらしい。
「ダメ、ダメ。このひとの亡くなった旦那さんは、俺の親友だったんだ。化けて出られちゃう」
オガサーラは笑いながら、それでも眼だけは真剣に口の細いケトルから落ちる熱湯の量を見ている。ずいぶん軽口が利けるようになったんだな。前の店のときより、客との距離が近い。それとも客層のせいかしら。楽しそうな会話に安心するのは、リタさんから滅入り気味だと聞いているせいもあるけれど、やはり彼の臆病さと繊細さを知っているからだ。どうせ会うのならば、元気な顔に会いたい。
どこから来たのかとか仕事をしているのかとか、一通りの身上調査をされたけれど、悪気なく訊いてくるのがわかるので、こちらも返事をすることは楽だ。そうして話を聞いていると、全員漁師さんらしい。
「そろそろ波乗りのガキどもが来るから、俺らは帰る。うるせえからな、あいつら」
日焼けの染みついた男たちが店を出ていくと、店の中は静かになった。
「さて、ちょっと休憩」
オガサーラはカウンターの中で丸椅子に座り、サンドウィッチを小さくちぎりながら口に運んだ。
「シーズンインの週末は、メシ食いに出られない」
「大変だねえ」
「稼ぎ時だもん。シーズンオフばっかりじゃ食ってけないしな」
スマートフォンをチェックし、メッセージを打ちこんでいる。
「キッチンカーは、そろそろ終わりにしようかと思って。もう二店舗やる気力がないわ」
「売り上げはあるんでしょ? もったいないね」
「アルバイトを募集しても、なかなか来ないんだよ。入れたら入れたで育てなきゃならないから」
若い子を育てなくちゃならない立場は知っているので、それに消耗するのは理解できる。私は個人事業主ではないから、育つ過程も所得のうちだけれど、すべて自分に跳ね返るオガサーラは大変だろう。
「なんかこう、生きるパワーみたいなのが落ちてる気がするんだよ」
「更年期じゃない? 男にもあるらしいね」
私自身が身に覚えのあることなので、こんな言葉がすぐに出てくる。年齢は身体には容赦ない。そこで目を合わせたら、お互いにおかしくなった。
「いやだねえ、おじさんとおばさんがカウンター越しに更年期の話なんて」
「あと十年も経ったら、今度は病気自慢がはじまるかも知れない」
ひとしきり笑っているところで、新しい客が入ってきた。やはりよく日に焼けているけれども、生活感の薄いイメージだ。忙しくなりそうな場所で長居するのも申し訳ないので、荷物だけ置かせてもらって外に出ることにする。
ジーンズで来たのは正解だった。海を眺めながら自転車を走らせ、見慣れない風景を楽しむ。海水浴場の賑わいを横目で見て、岩場に腰を下ろして海を眺めた。日除けパーカーの下のシャツがぐっしょりと濡れ、こんなに汗をかいたのは何年振りだろうと思う。目的地を持たない散歩を楽しんだのは、まだチヒロと手を繋いでいたころしか記憶にない。最近はひとりで出掛けるにしても、美術館や百貨店と行き場所が決まっている。
足の向くままに変わっていく景色が楽しくて、ずいぶん進んだとスマートフォンで現在地を調べると、十キロ以上移動していた。道理で尻と太腿がだるいはずだ。
戻らなくてはと帰路につき、走っているうちにペダルがふっと抜けたような感触があり、そのあとおかしな音を立てて自転車が止まった。スタンドを下げて覗き込むと、チェーンが絡んでいる。引っ張ったら抜けるかと思ったが、きつく絡んでしまっているらしく、タイヤもまったく動かない。店まではまだ遠く、海沿いの道に自転車店などあるはずもなく、途方に暮れて道の端に座った。
中年女がいい気になって、気分で動こうとするからだ。そんな嘲りが、頭の上のほうで聞こえる。結果のわかっていることだけしてりゃいいのにさ、なんて。そのとき、ポケットの中のスマートフォンが振動した。
「おまえ、どこまで行ってんだ。もう日が暮れるぞ」
子供を叱るようなオガサーラの声がした。
「え、そんな時間? まだ明るいのに」
「六時半になろうってとこだ。で、いまどこ?」
「わからないけど、海沿いまっすぐ。自転車のチェーンが絡んじゃって、動けなくなってる」
こちらはこちらで、叱られたような声が出てしまった。ふっと息を吐く音が聞こえる。
「七時で閉店だから、店閉めたら迎えに行くわ。GPSの画像だけ送っといて」
店内でまだ、音楽の音が聞こえる。まだ客が残っているのだろう。にっちもさっちも行けない私は、オガサーラの言いつけ通り待っているしかない。
午後の早い時間でも、店には複数の客がいた。
「おう、早いな」
笑顔のオガサーラがカウンターの中から手招きすると、一斉に視線が私に向いた。
「何、マスターの彼女?」
「やっと嫁を貰う気になった?」
面白そうなからかい口調で、このひとたちが常連客であるとわかる。
「いやいや、このひとは長いつきあいの友達。ほら、去年の夏にセンセイの家に住み込んでた大学生がいたでしょ? あの子のおかあさん」
「色白のヒョロヒョロした子だっけ? あんな大きい子供がいるように見えないねえ」
カウンターの空いた席に腰掛けながら、ありがとうごさいますと返事した。オガサーラは私のオーダーも聞かずに、もう豆を挽いている。
「こんな綺麗なひとがただの友達なんて、信じられないなあ。マスター、これからでもひと花咲かせられるよ」
この店では、オガサーラが同性愛者であることは知られていないらしい。
「ダメ、ダメ。このひとの亡くなった旦那さんは、俺の親友だったんだ。化けて出られちゃう」
オガサーラは笑いながら、それでも眼だけは真剣に口の細いケトルから落ちる熱湯の量を見ている。ずいぶん軽口が利けるようになったんだな。前の店のときより、客との距離が近い。それとも客層のせいかしら。楽しそうな会話に安心するのは、リタさんから滅入り気味だと聞いているせいもあるけれど、やはり彼の臆病さと繊細さを知っているからだ。どうせ会うのならば、元気な顔に会いたい。
どこから来たのかとか仕事をしているのかとか、一通りの身上調査をされたけれど、悪気なく訊いてくるのがわかるので、こちらも返事をすることは楽だ。そうして話を聞いていると、全員漁師さんらしい。
「そろそろ波乗りのガキどもが来るから、俺らは帰る。うるせえからな、あいつら」
日焼けの染みついた男たちが店を出ていくと、店の中は静かになった。
「さて、ちょっと休憩」
オガサーラはカウンターの中で丸椅子に座り、サンドウィッチを小さくちぎりながら口に運んだ。
「シーズンインの週末は、メシ食いに出られない」
「大変だねえ」
「稼ぎ時だもん。シーズンオフばっかりじゃ食ってけないしな」
スマートフォンをチェックし、メッセージを打ちこんでいる。
「キッチンカーは、そろそろ終わりにしようかと思って。もう二店舗やる気力がないわ」
「売り上げはあるんでしょ? もったいないね」
「アルバイトを募集しても、なかなか来ないんだよ。入れたら入れたで育てなきゃならないから」
若い子を育てなくちゃならない立場は知っているので、それに消耗するのは理解できる。私は個人事業主ではないから、育つ過程も所得のうちだけれど、すべて自分に跳ね返るオガサーラは大変だろう。
「なんかこう、生きるパワーみたいなのが落ちてる気がするんだよ」
「更年期じゃない? 男にもあるらしいね」
私自身が身に覚えのあることなので、こんな言葉がすぐに出てくる。年齢は身体には容赦ない。そこで目を合わせたら、お互いにおかしくなった。
「いやだねえ、おじさんとおばさんがカウンター越しに更年期の話なんて」
「あと十年も経ったら、今度は病気自慢がはじまるかも知れない」
ひとしきり笑っているところで、新しい客が入ってきた。やはりよく日に焼けているけれども、生活感の薄いイメージだ。忙しくなりそうな場所で長居するのも申し訳ないので、荷物だけ置かせてもらって外に出ることにする。
ジーンズで来たのは正解だった。海を眺めながら自転車を走らせ、見慣れない風景を楽しむ。海水浴場の賑わいを横目で見て、岩場に腰を下ろして海を眺めた。日除けパーカーの下のシャツがぐっしょりと濡れ、こんなに汗をかいたのは何年振りだろうと思う。目的地を持たない散歩を楽しんだのは、まだチヒロと手を繋いでいたころしか記憶にない。最近はひとりで出掛けるにしても、美術館や百貨店と行き場所が決まっている。
足の向くままに変わっていく景色が楽しくて、ずいぶん進んだとスマートフォンで現在地を調べると、十キロ以上移動していた。道理で尻と太腿がだるいはずだ。
戻らなくてはと帰路につき、走っているうちにペダルがふっと抜けたような感触があり、そのあとおかしな音を立てて自転車が止まった。スタンドを下げて覗き込むと、チェーンが絡んでいる。引っ張ったら抜けるかと思ったが、きつく絡んでしまっているらしく、タイヤもまったく動かない。店まではまだ遠く、海沿いの道に自転車店などあるはずもなく、途方に暮れて道の端に座った。
中年女がいい気になって、気分で動こうとするからだ。そんな嘲りが、頭の上のほうで聞こえる。結果のわかっていることだけしてりゃいいのにさ、なんて。そのとき、ポケットの中のスマートフォンが振動した。
「おまえ、どこまで行ってんだ。もう日が暮れるぞ」
子供を叱るようなオガサーラの声がした。
「え、そんな時間? まだ明るいのに」
「六時半になろうってとこだ。で、いまどこ?」
「わからないけど、海沿いまっすぐ。自転車のチェーンが絡んじゃって、動けなくなってる」
こちらはこちらで、叱られたような声が出てしまった。ふっと息を吐く音が聞こえる。
「七時で閉店だから、店閉めたら迎えに行くわ。GPSの画像だけ送っといて」
店内でまだ、音楽の音が聞こえる。まだ客が残っているのだろう。にっちもさっちも行けない私は、オガサーラの言いつけ通り待っているしかない。
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