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五十二歳
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週末のキッチンカーを取りまわしていたアルバイトのうち、メインで働いていてくれていた子が辞めることになり、サブで入っている子たちに任せるには頼りないので畳んでしまおうと思っていたところに、他の地域から移住してきた若い主婦が名乗りを上げてくれた。いつか自分でカフェを開きたいから勉強させてくれという。
「勉強ったって、挽いてある豆でコーヒーを淹れるのと、ベーグルに具材を挟むだけですよ」
「まったくの素人ですから、そこから教えてください」
雇ってみれば勘の良いひとで、サンドウィッチの具材の組み合わせを考えて増やしてくれたり、おとなのコーヒーと一緒に甘いミルクコーヒーを売ってくれたりする。人材に恵まれたものだと安心して、信頼するのが早すぎたのかも知れない。
クリームチーズやスモークサーモンみたいな、少し値の張る具材が残材として出なくなった。パッケージを開けてしまったものは確かに欲しいひとに持って帰ってもらっていたのだが、それは俺が確認して承知の上でのことだ。そうこうしているうちに、十個ひとパックのベーグルがまるまる売り上げから落ちた。失敗することはあるから廃棄だってあるけれど、ゴミは当然持ち帰っているわけだし、レジを締めた明細はある。大きな金額でないと言えばそこまでだが、生憎と零細企業だ。利益が多いわけでもなく、客が少ない雨の日だったりすれば赤字になってしまう。
それとない注意で改めてくれれば良いなと思いながら、残材と売り上げが合わないと言ってみた。確かにその日はちゃんと帳尻が合ったが、週の半ばに辞めるから最後の給金は振り込んでくれとメールだけが来た。それ以降、彼女は電話に出なかった。
間が悪いことに、ゴールデンウィーク直前だ。食材は発注してしまっているし、場所だって借りている。コアな時間に手伝ってくれるアルバイトはいても、開店準備からレジを締めるまで通せる者がいない。つまり流れが見通せないのだ。
弱ったなと思っていたところへ、不意にチヒロからメールが来た。週末に千葉の真ん中まで行くから、ついでに寄るという。あいつがいたな、ダメで元々で頼んでみるかと電話すると、意外な返事があった。
「時間はどうにかなるけど、ウチのハハと同じ部屋に寝たくないよ」
「ユーキが来るなんて、聞いてないぞ」
「だってここのところ、月に一回くらいのペースで行ってない?」
「俺のところには来てないぞ」
「房総に行ってくるって出てくよ。俺も家にあんまりいないから、平日がどうなってるのか知らないけど」
咄嗟に男だと思った。今まで恋愛らしきものをしたことがない、と言っていたが、そんな気になる相手ができたのか。
「最近、仕事も忙しいみたいだから、俺的には何か気晴らしして欲しいから、いいんだけどさ」
成績は良くとも具体案を作ることが苦手だったユーキが、大きな会社で部下を育てているなんて、今でも想像できない。俺と違って、ちゃんと社会向けの顔が作れたのだろう。もう知らない相手にニコリともしないユーキなんてどこにもいないのに、まだ何かのイメージを抱いてしまう。
「まあ、奴さんには奴さんの都合があるんだろ。とりあえず、週末は待ってるよ」
そう言って電話を切ったあと、何か腹の中に小さい渦が巻いた気がした。
その日のうちに、ユーキから電話があった。
「チヒロにバレちゃったから、告白しまーす」
不貞腐れたような物言いで、ユーキのきまり悪そうな顔が見えるようだ。
「なんだ、他人に知られちゃまずいことか」
「まずくはないけど、チヒロには呆れられた。実はさ、サーフィン教室に通ってるんだ」
頭を掠りもしなかった答えが返ってきた。
「おまえの運動神経で、しかもこの年になってから」
「だから言いたくなかったんでしょうが! 小学生に混じってレッスン受けて、立てるようになるまで倍の時間かかったよ。でも、やりたかったの!」
ああ、こんな喋り方は高校生のときのまんまだ。
「去年オガサーラの家に行ったときに、今井さんに送ってもらって海に行ったんだよね。サーファーが何人か波待ちしてて、少し大きい波が来たなって思った瞬間、みんな一斉にパドリングはじめたの。成功したのはひとりだけで、それがやけに羨ましくて。いいなあって言ったら、やればいいじゃないですかって今井さんが言うのよ。普段なら流しちゃうような返事なのに、家に帰ってから中年でもできるかって調べちゃったの」
「まあ、中年のサーファーはいるけどなあ」
確かに客の中には中高年のサーファーはいるけれど、それは若いころから続けてきたひと達だと思う。
「思い切って教室にメールしたら、還暦過ぎてからはじめるひともいるって返事が返ってきて、それなら私もできるんじゃないかなって」
「楽しいか」
「楽しいよ。沖から陸を見てみたかったんだ」
小さく息を吐いた。ユーキの声が明るくなっている。
「楽しいんなら結構だ。年寄りの冷や水にならないように、そろそろと楽しんでくれ」
「余計なお世話!」
こちらも明るい気分になって電話を切り、ベッドに転がった。イライラしがちだった最近、コウヘイさんとの時間が減っている。
従業員の件もあったが、コウヘイさんの親族の話がある。弟さんに俺を養子にしていると話したとき、後にトラブルにならないようにと、俺は遺産を受け取らないと一筆書いているのだが、法的には生前の放棄はできない。じわじわとコウヘイさんの筋力が落ちて歩けなくなってきたことで、将来的に誰がどんなふうにコウヘイさんの日常生活をサポートするのかと、コウヘイさん抜きで話をしようと持ち掛けられている。
「カッチャンが母屋に寝泊まりしてくれれば、兄貴も安心するんじゃないかなあ」
「俺は四時前に作業場に入るんです。コウヘイさんは神経質だから、ドアの音で起きちゃう」
生活時間帯の違う者同士では、同居は難しい。それは俺がコウヘイさんを追ってこっちへ来たときに、身に染みて理解した。だから工房のほうで生活できるようにしているのだ。
コウヘイさんの近くにいたくて、勝手に追いかけてきた。けれど感情だけで生きられるほど、人間の営みは単純じゃない。
「それになあ、カッチャン。俺たちはあんたの身元も知らないんだ。あんたに何かあったとき、兄貴が動けなかったら俺たちはどうしたらいい? そろそろそういう相談もしておいたほうがいいんじゃないのかな」
これには理由があって、ここのところ浜の何人かが立て続けに、病気になったり働けない状態になったりしている。俺より少しは上だが、まだ孫が結婚するような年齢のひとたちじゃない。
弟さんと話をする前に、ある程度俺の方向性をまとめておかなくてはならず、今すぐにではないにせよ、最終的にはコウヘイさんの意志ともすり合わせていかなくてはならない。
おい、大変だぞ。俺たちはもう、老後について考えなくちゃいけない年齢に差し掛かってきたみたいだ。
そんな言葉を伝える相手がいない。コウヘイさんを追ってきてからはじめて、俺は孤独を感じた。弱音を吐ける相手すら持たない中年は、大きく溜息を吐く。
マッシモ。おまえがいないから、俺はひとりで抱えなくちゃいけないじゃないか。話を聞いてくれよ。そして昔みたいに、進んだ先のシミュレートしてみせてくれよ。なあ、マッシモ。
「勉強ったって、挽いてある豆でコーヒーを淹れるのと、ベーグルに具材を挟むだけですよ」
「まったくの素人ですから、そこから教えてください」
雇ってみれば勘の良いひとで、サンドウィッチの具材の組み合わせを考えて増やしてくれたり、おとなのコーヒーと一緒に甘いミルクコーヒーを売ってくれたりする。人材に恵まれたものだと安心して、信頼するのが早すぎたのかも知れない。
クリームチーズやスモークサーモンみたいな、少し値の張る具材が残材として出なくなった。パッケージを開けてしまったものは確かに欲しいひとに持って帰ってもらっていたのだが、それは俺が確認して承知の上でのことだ。そうこうしているうちに、十個ひとパックのベーグルがまるまる売り上げから落ちた。失敗することはあるから廃棄だってあるけれど、ゴミは当然持ち帰っているわけだし、レジを締めた明細はある。大きな金額でないと言えばそこまでだが、生憎と零細企業だ。利益が多いわけでもなく、客が少ない雨の日だったりすれば赤字になってしまう。
それとない注意で改めてくれれば良いなと思いながら、残材と売り上げが合わないと言ってみた。確かにその日はちゃんと帳尻が合ったが、週の半ばに辞めるから最後の給金は振り込んでくれとメールだけが来た。それ以降、彼女は電話に出なかった。
間が悪いことに、ゴールデンウィーク直前だ。食材は発注してしまっているし、場所だって借りている。コアな時間に手伝ってくれるアルバイトはいても、開店準備からレジを締めるまで通せる者がいない。つまり流れが見通せないのだ。
弱ったなと思っていたところへ、不意にチヒロからメールが来た。週末に千葉の真ん中まで行くから、ついでに寄るという。あいつがいたな、ダメで元々で頼んでみるかと電話すると、意外な返事があった。
「時間はどうにかなるけど、ウチのハハと同じ部屋に寝たくないよ」
「ユーキが来るなんて、聞いてないぞ」
「だってここのところ、月に一回くらいのペースで行ってない?」
「俺のところには来てないぞ」
「房総に行ってくるって出てくよ。俺も家にあんまりいないから、平日がどうなってるのか知らないけど」
咄嗟に男だと思った。今まで恋愛らしきものをしたことがない、と言っていたが、そんな気になる相手ができたのか。
「最近、仕事も忙しいみたいだから、俺的には何か気晴らしして欲しいから、いいんだけどさ」
成績は良くとも具体案を作ることが苦手だったユーキが、大きな会社で部下を育てているなんて、今でも想像できない。俺と違って、ちゃんと社会向けの顔が作れたのだろう。もう知らない相手にニコリともしないユーキなんてどこにもいないのに、まだ何かのイメージを抱いてしまう。
「まあ、奴さんには奴さんの都合があるんだろ。とりあえず、週末は待ってるよ」
そう言って電話を切ったあと、何か腹の中に小さい渦が巻いた気がした。
その日のうちに、ユーキから電話があった。
「チヒロにバレちゃったから、告白しまーす」
不貞腐れたような物言いで、ユーキのきまり悪そうな顔が見えるようだ。
「なんだ、他人に知られちゃまずいことか」
「まずくはないけど、チヒロには呆れられた。実はさ、サーフィン教室に通ってるんだ」
頭を掠りもしなかった答えが返ってきた。
「おまえの運動神経で、しかもこの年になってから」
「だから言いたくなかったんでしょうが! 小学生に混じってレッスン受けて、立てるようになるまで倍の時間かかったよ。でも、やりたかったの!」
ああ、こんな喋り方は高校生のときのまんまだ。
「去年オガサーラの家に行ったときに、今井さんに送ってもらって海に行ったんだよね。サーファーが何人か波待ちしてて、少し大きい波が来たなって思った瞬間、みんな一斉にパドリングはじめたの。成功したのはひとりだけで、それがやけに羨ましくて。いいなあって言ったら、やればいいじゃないですかって今井さんが言うのよ。普段なら流しちゃうような返事なのに、家に帰ってから中年でもできるかって調べちゃったの」
「まあ、中年のサーファーはいるけどなあ」
確かに客の中には中高年のサーファーはいるけれど、それは若いころから続けてきたひと達だと思う。
「思い切って教室にメールしたら、還暦過ぎてからはじめるひともいるって返事が返ってきて、それなら私もできるんじゃないかなって」
「楽しいか」
「楽しいよ。沖から陸を見てみたかったんだ」
小さく息を吐いた。ユーキの声が明るくなっている。
「楽しいんなら結構だ。年寄りの冷や水にならないように、そろそろと楽しんでくれ」
「余計なお世話!」
こちらも明るい気分になって電話を切り、ベッドに転がった。イライラしがちだった最近、コウヘイさんとの時間が減っている。
従業員の件もあったが、コウヘイさんの親族の話がある。弟さんに俺を養子にしていると話したとき、後にトラブルにならないようにと、俺は遺産を受け取らないと一筆書いているのだが、法的には生前の放棄はできない。じわじわとコウヘイさんの筋力が落ちて歩けなくなってきたことで、将来的に誰がどんなふうにコウヘイさんの日常生活をサポートするのかと、コウヘイさん抜きで話をしようと持ち掛けられている。
「カッチャンが母屋に寝泊まりしてくれれば、兄貴も安心するんじゃないかなあ」
「俺は四時前に作業場に入るんです。コウヘイさんは神経質だから、ドアの音で起きちゃう」
生活時間帯の違う者同士では、同居は難しい。それは俺がコウヘイさんを追ってこっちへ来たときに、身に染みて理解した。だから工房のほうで生活できるようにしているのだ。
コウヘイさんの近くにいたくて、勝手に追いかけてきた。けれど感情だけで生きられるほど、人間の営みは単純じゃない。
「それになあ、カッチャン。俺たちはあんたの身元も知らないんだ。あんたに何かあったとき、兄貴が動けなかったら俺たちはどうしたらいい? そろそろそういう相談もしておいたほうがいいんじゃないのかな」
これには理由があって、ここのところ浜の何人かが立て続けに、病気になったり働けない状態になったりしている。俺より少しは上だが、まだ孫が結婚するような年齢のひとたちじゃない。
弟さんと話をする前に、ある程度俺の方向性をまとめておかなくてはならず、今すぐにではないにせよ、最終的にはコウヘイさんの意志ともすり合わせていかなくてはならない。
おい、大変だぞ。俺たちはもう、老後について考えなくちゃいけない年齢に差し掛かってきたみたいだ。
そんな言葉を伝える相手がいない。コウヘイさんを追ってきてからはじめて、俺は孤独を感じた。弱音を吐ける相手すら持たない中年は、大きく溜息を吐く。
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