13 / 60
13.
しおりを挟む
茜が高遠にもう一度会ったのは、その週末だ。責めるようなメールの末尾に、とりあえず話をしたいと、時間と場所が指定されていた。高校生の頃には、「つきあって」「つきあえません」そんな言葉で済んでいた筈なのに、手順が違うような気がする。そして茜の根底には幾分、「私のせいじゃないもん」ってのが、無きにしも非ずである。高遠が勝手に思い込んで、話を進めようとしたのだ。結婚してるっていうのは想定外でも、彼氏の有無さえ聞かれたことはない。高校生時代のセオリーでは、「今、彼氏いる?」ってのが先に来たものである。そんなものは、思春期の恋愛ごっこでしかなかったのだと、悲しいことに茜は知らない。その後に茜が出会ったのは秀一であり、必死のアプローチの結果に受け入れられてしまったものだから、恋愛が始まる機微なんて覚える時間はなかったのだ。
茜の膝上数センチには、まだくっきりと歯形が残っている。見るたびに、自分が何か間違っていたらしいとか、いい気になってたなーとかの反省はある。
「来てくれたんだね」
「話があるんでしょう?」
「本当は、酒の席のほうが良かったんだけど」
「家事があるから」
家事と、はっきりそう言った。今日は週末で仕事が三時頃終わる秀一が、夕方の買出しにつきあってくれるのだ。
「この前は、夕食作るって言ったね。茜ちゃんの家って……」
「私、主婦だもん」
一瞬止まった高遠が、複雑な顔をする。
「もしかして、お母さんが早くに亡くなって、兄弟の食事の世話とか?」
普通の連想である。
ここで言わなければ、また続いてしまう。それくらいは、茜にもわかる。
「違うの。言わなくて、ごめんね。私、結婚してるの」
「はああぁ?」
呆れた顔の高遠は茜を凝視した後に、面白い冗談を聞いたとでもいうように、笑い出した。
「それが、つきあえないって答え? 言うに事欠いて、何それ。そんな嘘、誰が本気にする?」
そして真剣な顔で、カウンターの隣に座る茜の上腕を掴んだ。
「痛いよ」
「嘘吐いてまで、断ろうって言うの? 俺に何が足りない? 楽しそうだったじゃないか、ずっと」
「痛いって。離して」
腕を振り落とすと、他の客がこちらを見ている気がした。
目を惹く容姿、女の子の好きそうな話題を仕込んだ会話。泥臭くなくスマートな、都会らしくて若者らしい関係性を、高遠は持っている。今までにもきっと、こんな風にするりと女の子と仲良くなって、それについて自信を持っていたのかも知れない。
「嘘じゃないの。旧姓は三沢」
「証拠なんてないじゃないか。指輪もしてない」
茜は自分の左手を広げた。尤も、茜が左手の薬指に指輪をしていたところで、ファッションリングにしか見えないだろうが。
「K女のホームページでも、チェックして。私、学年代表で卒業文寄せてるから」
高遠はまだ疑わしそうに、茜をまじまじと見ていた。
「友達なら楽しいけど、つきあうっていうのは、無理。だって、結婚してるんだもん」
「本当に?」
「さっきから、嘘なんて吐いてない。主婦なの、私」
毒を吐かずに節度を保った高遠を、褒めてやって欲しい。
「せめて指輪くらいしてないと、リアリティないじゃないか。騙されるのは俺だけにして欲しいね」
そう言って店の前で別れ、茜は膝から力が抜けそうになった。言葉は鋭くなかったが、怖い顔してたなと思う。これが酒の席や人気のないところならば、逆上されていても不思議じゃなかったかも知れない。やっぱり、私はひどいことをしたんだ。
店を変え、しばらくひとりでぽつんと座っていた。自覚しなくちゃいけないのは、結婚してるんだって事実じゃなくて、私が既婚者に見えないってことだ。
気がつくと、秀一がそろそろ仕事を終える時間だ。出たついでだから、買い物を済ませてしまおうと携帯電話を呼ぶと、会社を出るところだと言う。隣の駅の駅前にいると言うと、そちらにまわると返事があった。
到着時間までの三十分ほどの間、エキナカ――ってほどでもない、駅とくっついた小さなビルだ――の中をウロウロしていると、小さな宝飾店が目についた。そういえば、ピアスのチラシがはいってたな、なんて見ていると、リングのケースが並んでいる。
せめて結婚指輪くらいしてないと。つい一時間ほど前の、高遠のせりふである。実際、「形から入る」ことを思えば当然なのだろう。茜が欲しかった印は秀一には気の進まないもののようだったし、話を振ってもノッて来ない秀一を説得する自信はなかった。
なんだ、そんなに高価なものでもないんだ。私の貯金でどうにかなるくらい。一瞬、買っちゃおうかなと思い、その後にふと考える。
結婚指輪ってのは片方だけがしていても、あんまり意味がないんである。揃いのリングに刻印してもらうからこそ、価値が生じるのだ。
到着したと携帯電話が鳴ったとき、駐車場に入れて出てきてくれと、茜は秀一に頼んだ。上半身はポロシャツに着替えているだろうが、多分作業着に履きつぶしたスニーカーの秀一と、ファッションビルの中で待ち合わせる。
でもね、秀さんの作業着姿は、かっこいいんだもん。無愛想な怖い顔と太い腕が、絶妙マッチ。
そう考えるのは、茜ひとりだということを、茜は知らない。そうでなければ、外で嬉しそうに腕を絡めたりできない。
結婚指輪、買ってもらうんだもん。秀さんが嫌がったって、ちゃんと証拠で提示できるものが欲しいって言わなくちゃ。
きらびやかな宝飾店で、やたらめったら嬉しそうな茜の隣に、眉間に皺を寄せた吽仁王が立っていたことは、後々に見かけたアルバイト仲間の語り草になるのだが、それはまた別の話である。
「傷になるから、普段はできねえぞ」
「そういうお客様は、他にもいらっしゃいます。首から下げられても良いのですよ。その場合、お客様は首が逞しくていらっしゃいますから、これくらいボリュームのあるチェーンが良いかと」
宝飾店のお姉さんは、もちろん販売のプロである。プロの営業の話術と、茜の懇願するような顔のダブルに、秀一が敵うはずがない。ああでもないこうでもないと迫られ、店員と茜が盛り上がってデザインを決めるのをよそに、秀一は所在無く立っていた。
サイズを測られて、刻印の確認をされ、受け取りを受け取ると、茜は大切そうにそれを財布に入れた。
「一生大事にする! 秀さんも大事にしてね!」
抱きつくように腕にすがる茜の顔を見下ろして、「ま、しょうがないか」と秀一も眉間の皺を解いた。
茜が結婚指輪を手に入れたのは、こんな経緯だった。
茜の膝上数センチには、まだくっきりと歯形が残っている。見るたびに、自分が何か間違っていたらしいとか、いい気になってたなーとかの反省はある。
「来てくれたんだね」
「話があるんでしょう?」
「本当は、酒の席のほうが良かったんだけど」
「家事があるから」
家事と、はっきりそう言った。今日は週末で仕事が三時頃終わる秀一が、夕方の買出しにつきあってくれるのだ。
「この前は、夕食作るって言ったね。茜ちゃんの家って……」
「私、主婦だもん」
一瞬止まった高遠が、複雑な顔をする。
「もしかして、お母さんが早くに亡くなって、兄弟の食事の世話とか?」
普通の連想である。
ここで言わなければ、また続いてしまう。それくらいは、茜にもわかる。
「違うの。言わなくて、ごめんね。私、結婚してるの」
「はああぁ?」
呆れた顔の高遠は茜を凝視した後に、面白い冗談を聞いたとでもいうように、笑い出した。
「それが、つきあえないって答え? 言うに事欠いて、何それ。そんな嘘、誰が本気にする?」
そして真剣な顔で、カウンターの隣に座る茜の上腕を掴んだ。
「痛いよ」
「嘘吐いてまで、断ろうって言うの? 俺に何が足りない? 楽しそうだったじゃないか、ずっと」
「痛いって。離して」
腕を振り落とすと、他の客がこちらを見ている気がした。
目を惹く容姿、女の子の好きそうな話題を仕込んだ会話。泥臭くなくスマートな、都会らしくて若者らしい関係性を、高遠は持っている。今までにもきっと、こんな風にするりと女の子と仲良くなって、それについて自信を持っていたのかも知れない。
「嘘じゃないの。旧姓は三沢」
「証拠なんてないじゃないか。指輪もしてない」
茜は自分の左手を広げた。尤も、茜が左手の薬指に指輪をしていたところで、ファッションリングにしか見えないだろうが。
「K女のホームページでも、チェックして。私、学年代表で卒業文寄せてるから」
高遠はまだ疑わしそうに、茜をまじまじと見ていた。
「友達なら楽しいけど、つきあうっていうのは、無理。だって、結婚してるんだもん」
「本当に?」
「さっきから、嘘なんて吐いてない。主婦なの、私」
毒を吐かずに節度を保った高遠を、褒めてやって欲しい。
「せめて指輪くらいしてないと、リアリティないじゃないか。騙されるのは俺だけにして欲しいね」
そう言って店の前で別れ、茜は膝から力が抜けそうになった。言葉は鋭くなかったが、怖い顔してたなと思う。これが酒の席や人気のないところならば、逆上されていても不思議じゃなかったかも知れない。やっぱり、私はひどいことをしたんだ。
店を変え、しばらくひとりでぽつんと座っていた。自覚しなくちゃいけないのは、結婚してるんだって事実じゃなくて、私が既婚者に見えないってことだ。
気がつくと、秀一がそろそろ仕事を終える時間だ。出たついでだから、買い物を済ませてしまおうと携帯電話を呼ぶと、会社を出るところだと言う。隣の駅の駅前にいると言うと、そちらにまわると返事があった。
到着時間までの三十分ほどの間、エキナカ――ってほどでもない、駅とくっついた小さなビルだ――の中をウロウロしていると、小さな宝飾店が目についた。そういえば、ピアスのチラシがはいってたな、なんて見ていると、リングのケースが並んでいる。
せめて結婚指輪くらいしてないと。つい一時間ほど前の、高遠のせりふである。実際、「形から入る」ことを思えば当然なのだろう。茜が欲しかった印は秀一には気の進まないもののようだったし、話を振ってもノッて来ない秀一を説得する自信はなかった。
なんだ、そんなに高価なものでもないんだ。私の貯金でどうにかなるくらい。一瞬、買っちゃおうかなと思い、その後にふと考える。
結婚指輪ってのは片方だけがしていても、あんまり意味がないんである。揃いのリングに刻印してもらうからこそ、価値が生じるのだ。
到着したと携帯電話が鳴ったとき、駐車場に入れて出てきてくれと、茜は秀一に頼んだ。上半身はポロシャツに着替えているだろうが、多分作業着に履きつぶしたスニーカーの秀一と、ファッションビルの中で待ち合わせる。
でもね、秀さんの作業着姿は、かっこいいんだもん。無愛想な怖い顔と太い腕が、絶妙マッチ。
そう考えるのは、茜ひとりだということを、茜は知らない。そうでなければ、外で嬉しそうに腕を絡めたりできない。
結婚指輪、買ってもらうんだもん。秀さんが嫌がったって、ちゃんと証拠で提示できるものが欲しいって言わなくちゃ。
きらびやかな宝飾店で、やたらめったら嬉しそうな茜の隣に、眉間に皺を寄せた吽仁王が立っていたことは、後々に見かけたアルバイト仲間の語り草になるのだが、それはまた別の話である。
「傷になるから、普段はできねえぞ」
「そういうお客様は、他にもいらっしゃいます。首から下げられても良いのですよ。その場合、お客様は首が逞しくていらっしゃいますから、これくらいボリュームのあるチェーンが良いかと」
宝飾店のお姉さんは、もちろん販売のプロである。プロの営業の話術と、茜の懇願するような顔のダブルに、秀一が敵うはずがない。ああでもないこうでもないと迫られ、店員と茜が盛り上がってデザインを決めるのをよそに、秀一は所在無く立っていた。
サイズを測られて、刻印の確認をされ、受け取りを受け取ると、茜は大切そうにそれを財布に入れた。
「一生大事にする! 秀さんも大事にしてね!」
抱きつくように腕にすがる茜の顔を見下ろして、「ま、しょうがないか」と秀一も眉間の皺を解いた。
茜が結婚指輪を手に入れたのは、こんな経緯だった。
1
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる