薔薇は暁に香る

蒲公英

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 ムケカシの父親がムケカシを伴って訪れたのは、翌々日のことだった。空気の乾いた日で、サウビは絹や毛織を庭に広げて風を通していた。ノキエは作業中だから取次ぎができないと断ろうとすると、ムケカシの父親はサウビを押し退けて作業場の扉を開けた。前の部屋に姿が見えないのを確認すると、次の扉を開けようとする。
「いけません! そこは作業のための大切な場所です!」
 内側から閂がかけてあるらしく、ムケカシの父親はしばらく扉をガタガタ言わせてから、部屋の中を見回した。棚の上に無造作に並べられているガラスや、これから出番を待つ石膏の型を見ている。はじめは恐る恐る父親の後ろにいたムケカシが、いつの間にか棚の上に置いてある、花を象った首飾りを手に取った。
「私、これが欲しいわ!」
「もらえばいい。そんなに小さなものなら、いくらでも作れるだろう」
 サウビは慌てて止めようとする。
「ああ、これも素敵ね」
「全部おまえの物になるよ」
 ムケカシの父親は手に持っていたランプを、棚の位置も確認せずにゴトンと置いた。
「止めてください。触らないで」
 そういうサウビを一瞥し、親子は蔑んだ表情を見せる。

「ほら。使用人の分際で、客に指図がましいことを言うのよ」
「よほど甘やかしているんだろう。大丈夫だ、おまえの嫁入り前には追い出してやる」
「もっと早くよ。うちの台所のお婆さんと交換したらいいわ。そうしたら、きっと母さんが躾けてくれる」
 躾という言葉に、怯えが出る。
「それは良い考えだが、逃げたそうな小作がいるから、嫁をあてがおうかと考えているんだ」
「それがいいわ! 夫に追い出された女にはピッタリよ!」
 小作が逃げたがるような地主なのは、マウニに教えられた気がする。また手近なランプを手に取ったムケカシの父親は、それを光に翳してから作業台の上に移動させた。
「そろそろ寝室の調度を替えたいと思っていたところだ」
 それは金属とガラスが複雑に組み合わされている、凝った作りのものだった。

 ガタンと音がして扉が開き、汗でシャツを身体に張り付かせたノキエが出てきた。
「誰の許しでここに入った?」
 ムケカシ親子を睨みつけながら、前へ進む。サウビにはゾッとするような眼差しなのに、ムケカシも父親も臍を曲げた程度にしか見えないらしい。
「ねえノキエ、とても素敵なものが沢山あるのね。マウニは教えてくれなかったわ」
 ムケカシの言葉を黙殺し、作業台の上にランプを見つけたノキエが棚に戻す。
「それは俺が買ってやろう。いくらだ?」
 ノキエの視線は刺すようだが、それを危ないと思っているのは、この場ではサウビだけだ。
「何をしに来た」
 唸るような声で質問したノキエに、ムケカシの父親は若年者に言い聞かせるように言う。
「縁談をいつまでも嫌がっているからだ。男は嫁を取り、家を盛り立てなくてはいけない。この家の小作は従順でよく働くから、もっと広い農地で働かせれば金になる。俺の家には余るほどの土地があるが、質の悪い小作ばかりが居ついて話にならん。おまえとムケカシが結婚すれば、俺の農地でおまえの小作を働かせることができる。そうすれば、両家共に豊かに――」
「断る。何度も断っている」
 ノキエは声を被せたが、ムケカシの父親はまだ言葉を続けたがった。
「俺は、おまえが父親の足を折って歩けなくしたことを、知っているんだぞ」

 金属が歪み、ガラスの割れた音がする。ノキエの顔が赤い。その時になってやっと、ムケカシはノキエが本当に怒っているのだと、気がついたらしい。父親の袖を引くが、言い負かしたい父親は、後ろに動かない。
「痛い痛いと叫ぶ父親を、ロバの荷台で運んだろう。僧院が知ったら、どうなることか」
 今度はもっと重い音がした。足元に砕けた石膏が散らばる。
「それを見ていたのは、娼館の買付人と手引きした者だけだ。何故知っている?」
「いや、聞いただけ――」
 手にガラスの水差しを持ち、ノキエはムケカシの父親の顔を見た。父親の腕を引っ張る娘と危機を感じて硬直する父親に向かい、肩を動かそうとする。

「ノキエ! ダメ!」
 サウビはノキエに飛びつき、水差しを取り上げようとした。手で払いのけられ、今度は身体に抱きつく。
「そんなものを振り上げてはいけない! 美しいもので人を傷つけないで!」
 サウビが必死で止めている隙を突いて、ムケカシ親子は作業場から走り出ていく。追おうとするノキエに引き摺られたサウビの足を、ガラスの破片が引っ掻いた。
「止めて、お願いよ」
 外に通じる扉まで移動してから、ノキエはやっと我に返る。扉の外にどさりと腰を落とし、呆然とした顔をしている。
 泣きながら作業場を掃くサウビは、それでもノキエが人を傷つけなかったことに安堵していた。
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