薔薇は暁に香る

蒲公英

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56.

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 座り込んだノキエが、作業場から出てきたサウビを見上げる。
「冷えてしまうわ。作業場の中か台所か、どちらかへ入ってください。汗が渇いていないから、着替えも必要でしょう」
 サウビの靴の中もガラスで傷つけた足からの出血で滑っており、ひどく疲れてもいた。まだぼんやりとした表情のノキエを立ち上がらせようと、肩に手を置くと、ノキエは身体を丸めて小さくなった。
「ここにいてはダメ。家に入りましょう」
 むずかるように身体を揺するノキエの腕を引く。やっと少しだけ見えた膝には、水の落ちた跡があった。それが見えないふりをして、ノキエを台所に押し込む。切れた足は少し痛むが、今はノキエのほうが大切だった。

 火の近くに座らせ、また丸くなったノキエの前に温めた牛乳を置いてから、やっとサウビは足の血を拭った。深くは切れていないらしく、もう傷は乾きはじめている。
 しばらく丸くなっていたノキエは、黙ったまま立ち上がって部屋に行ったかと思うと、着替えてマントを抱えて出てきた。そして何も言わずに、外へ出て行く。
「どちらへ?」
 サウビの問いに答えもせずに通り過ぎたノキエの顔に、表情はなかった。先刻までの怒りも、丸まって苦しんでいた様子も、何もない。視線は前を向いていたが、焦点がどこにあるのかわからない、不思議な目の色だ。
 追おうか追うまいか迷い、ショールを羽織っているうちにノキエの姿は見えなくなった。

 どこに行ってしまったのだろう。ノキエはムケカシ親子の無礼よりも、自分の怒りに傷ついているように見えた。膝に見えた水の痕は、目の当たっていた場所だ。
 苦しいのか。怒りの感情が、ノキエには苦しいのか。ツゲヌイの傷を甚振った自分は、苦しかった。自分が自分でないようで、けれど止めることができなくて。
  サウビが抑制できなかったのは、ツゲヌイに対してだけだった。けれどノキエは違う。怒りの感情がまるで抑制できていない。サウビがツゲヌイに攫われたときも、サウビが止めなければツゲヌイを殺してしまっていたかも知れない。ムケカシの父親にも、止めなければ水差しを投げつけるだけではおさまらず、殴りかかっていたろう。

 考え深く思いやりがありよく笑う雇い主が、その一点だけ常軌を逸している。そしてそれを、とても苦しんでいるらしい。
 サウビは台所の椅子に腰かけ、両手で顔を覆った。たとえば、たとえばの話だが、もしも何かのはずみでサウビがノキエを怒らせるようなことがあるとすれば、あの暴力はこちらを向くのか。そう考えると、体が震えそうになる。自分の雇い主が恐ろしく、その分だけ哀れに感じる。

 夕暮れが近くなり辺りが暗くなってきても、ノキエは帰宅しなかった。冷えて帰宅するのではと温かい食事を用意していたが、冷めてしまっても尚戻らず、すっかり夜になってしまった。
 ノキエが留守のことは、別に珍しくはない。けれども出て行ったノキエの様子を考えると、何かおかしなことがあっても不思議ではない。
 何度も玄関の扉を開けて、外を確認した。庭を抜けて道を見渡しても人は歩いておらず、落ち着かないまま夜が更けていく。夜通し火を焚いたまま不安な気持ちで待ち、永久に夜が明けないのではないかと思いはじめたころに、一番鶏が鳴いた。

 外が明るくなるのを待ってマウニの家の玄関を叩く。
「どうしたの、こんな早くに」
 驚くマウニにノキエが戻らないのだと言うと、ギヌクが顔を出した。
「おそらく親父の蜜蜂小屋にいる。放っておいてやってくれ」
「この寒い時期に、食事も摂らずに」
「今までずっとそうしてきたし、これからもそうだろう。あまりにひどくて自分を傷つけそうであれば、俺か親父を必ず呼ぶ約束になっている。もう何年も、そうしているんだよ」
 暗くて寒い蜜蜂小屋で、マントに包まって蹲るノキエの姿が、見えるような気がした。

 何か、できることはないのだろうか。自分を救ってくれた人の、何かの救いになれないだろうか。
 マウニの家から戻る道々、サウビは繰り返し自問した。
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