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逃げそこなった
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はじめて入った本社の会議室は、綺麗だった。頑張って掃除しても翌日には汚れている、中学校の廊下と大違いだ。Pタイルは光っているし、パイプ椅子にサビはなく、パーテーションの枠にはホコリひとつない。これは副社長の方針で、来客があったときに、清掃を請け負う会社は隅々まで行き届いていると、納得させるためらしい。
事務の女の人が持って来てくれたお茶をすすっていると、副社長が顔を出した。
「和香ちゃん、お疲れ。悪いね、わざわざ来てもらって」
来たくて来たんじゃないやい。失業したくないだけだい。
用務員って仕事は、案外とハードだけれど和香に向いていた。自分のペースで自分の順番で、仕様で決められていることをこなせば良いし、自分だけの力でできないことは、数人で協力すればなんとかなるレベルの仕事しかない。チームに不満はあっても、そこはお互いさまだから仕方ない。自分だけが若くて身体が動く分、他の人の倍くらい仕事をしている気はするが、座って暇にしているよりも良かった。時給は自治体の最低賃金分で、賞与はお小遣い程度で、昇給は時給三円アップとかで、それでも実家から大人しく通っている分には何の問題もない。生活は、まったく困らん。
「私、用務員がいいんですけど」
「そう言ってくれるのは有難いんだけどね、他の作業員さんとバランスが悪いし、何よりも会社的にもったいない」
「他の小学校にも、三十代の用務員さん、いますよね」
「彼女は短時間勤務でしょ。和香ちゃんは若いうえに、よく働く。和香ちゃんが入ってから、舘岡中にトクソウの依頼がなくなったんだから、それはハッキリしてる。だからそのバイタリティーを、もっと広範囲で使って欲しいの」
「でも私、特技ないですっ!」
日常清掃――拭き掃き、除草、洗濯、オプション的に花壇の手入れ――正に日常的に行われる作業は、家庭で行われる清掃とよく似ている。けれど住宅と違って範囲は広いし、設備管理の一環として蛍光灯の交換や故障個所の簡易修理(トイレのペーパーホルダーが取れたとか)が含まれるので、用務員の仕事はいろいろと多岐である。現場がマンションであれば収集車が来る前にゴミの仕分けをするとか、建物外周を掃くとか、企業に入っているのなら郵便の仕分けなんていうのも業務に入る。そうすると家庭も同様のことではあるが、やり残したことが溜まることがある。ただし、家庭とは違って時間と範囲に制限がある。週に何度かでも管理が入るようなマンションなら、エントランスだけで一般家庭のリビング以上の大きさだろう。日常作業員が時間内に処理できなかったあれこれは、管理さんたちによって本社に報告される。そしてそれを解決してゆく部署がある。
特別清掃部、略称トクソウである。間違っても特別捜査ではない。念のために申し上げておくが、特殊清掃とも別だ。
「特技は、バイタリティーとチャレンジ精神です。期待してます」
何を言ってもゴリ押しされそうな迫力に怯み、四月からの雇用契約書にサインした。毎日挨拶を交わす教師たちや、多少なりとも仲良くなった生徒たち、低予算の中工夫して花を植えた花壇が、いっぺんに恋しくなる。あとひと月で、あれとお別れしなくちゃならないのか。
「どっちにしろ誰かが休んだら応援で入ってもらうんだし、縁がなくなるんじゃないんだから。それより、ステップアップしようよ」
まだ三十二歳の副社長は子供が生まれたばかりなので、張り切っているのだろうか、会社の業績を上げようって意思を強く感じる。パワーのある人に反論するのは、それ相応にパワーが必要だ。当然のように、和香にはそれがない。
「……ガンバリマス」
棒読みで返事をして、契約書を渡す。あとは野となれ。
しばらく待っていろと会議室にひとり残されて、長テーブルの上に突っ伏す。清掃業を続けたいわけでもないのに、他に何かできることがあるのかと問われれば、首を傾げるような立場だ。ビジネス系の専門学校を出て最初の職場はそれなりに大きな企業だったが、昼休みとロッカールームが苦痛だった。会話に入っていけずにいるうちに、話が続かない人だと誰も相手にしてくれなくなって、一年後にはトイレの個室に籠って弁当を食べるようになっていた。転職しても同じことで、若い女の子の多い職場はダメなんだと個人企業に入社すると、身内ばりに詮索と介入が怖かった。それではと製造業の流れ作業に派遣社員で行けば、請負先からのパワーハラスメント。偽装請負なんのその、セクシュアルハラスメントまで加わって、人権どこ行った状態。それでも続いている人がいるのは自分が弱かったからなのか、それとも自分だけが攻撃されていたのか。
やっと続けていけそうな場所があったと思った。数少ない友人たちが恋人と誕生日を過ごしたり、趣味のサークルで活躍しているのは羨ましいけれど、和香がそこに行きつくのは、百万光年くらい先な気がする。居場所があるだけで、満足しなくては。
尤も苦手なのは実際に人に会うことであり、SNSなどではそれなりに楽しく交流できるので、外地蔵ネット弁慶ってやつかも知れない。
来てくれと呼ばれた小部屋には、たくさんの清掃用具が置かれていた。ストック用もいくつもあるらしく、ビニールがかかっていたりもする。室内のひとりは、前に応援で一緒に仕事をしてくれたことがある。他には男ばかり三人おり、いかにもむさくるしい。
「女の子もひとりいるけど、今日は応援で一日出ちゃってるから」
三十代ひとり、五十代後半ひとり、六十代半ばがふたり。これが四月から一緒に作業するチームらしい。
「グループリーダーは竹田。俺のバスケ部の後輩だったんだわ。前職は内装屋」
茶髪で色の黒い男が、軽く頭を下げた。
「庭作業のエキスパートの植田さん。片岡さんと菊池さんは自衛隊にいた人たちだから、いろんなことしてくれるよ」
次々と紹介され、順番に頭を下げる。
「今日はいないけど、由美さんって三十代の女の子がいる。それでトクソウは全部です。気のいい連中だから、大丈夫だよ」
早口に紹介を終えると副社長は出ていき、小部屋が閉まった。
事務の女の人が持って来てくれたお茶をすすっていると、副社長が顔を出した。
「和香ちゃん、お疲れ。悪いね、わざわざ来てもらって」
来たくて来たんじゃないやい。失業したくないだけだい。
用務員って仕事は、案外とハードだけれど和香に向いていた。自分のペースで自分の順番で、仕様で決められていることをこなせば良いし、自分だけの力でできないことは、数人で協力すればなんとかなるレベルの仕事しかない。チームに不満はあっても、そこはお互いさまだから仕方ない。自分だけが若くて身体が動く分、他の人の倍くらい仕事をしている気はするが、座って暇にしているよりも良かった。時給は自治体の最低賃金分で、賞与はお小遣い程度で、昇給は時給三円アップとかで、それでも実家から大人しく通っている分には何の問題もない。生活は、まったく困らん。
「私、用務員がいいんですけど」
「そう言ってくれるのは有難いんだけどね、他の作業員さんとバランスが悪いし、何よりも会社的にもったいない」
「他の小学校にも、三十代の用務員さん、いますよね」
「彼女は短時間勤務でしょ。和香ちゃんは若いうえに、よく働く。和香ちゃんが入ってから、舘岡中にトクソウの依頼がなくなったんだから、それはハッキリしてる。だからそのバイタリティーを、もっと広範囲で使って欲しいの」
「でも私、特技ないですっ!」
日常清掃――拭き掃き、除草、洗濯、オプション的に花壇の手入れ――正に日常的に行われる作業は、家庭で行われる清掃とよく似ている。けれど住宅と違って範囲は広いし、設備管理の一環として蛍光灯の交換や故障個所の簡易修理(トイレのペーパーホルダーが取れたとか)が含まれるので、用務員の仕事はいろいろと多岐である。現場がマンションであれば収集車が来る前にゴミの仕分けをするとか、建物外周を掃くとか、企業に入っているのなら郵便の仕分けなんていうのも業務に入る。そうすると家庭も同様のことではあるが、やり残したことが溜まることがある。ただし、家庭とは違って時間と範囲に制限がある。週に何度かでも管理が入るようなマンションなら、エントランスだけで一般家庭のリビング以上の大きさだろう。日常作業員が時間内に処理できなかったあれこれは、管理さんたちによって本社に報告される。そしてそれを解決してゆく部署がある。
特別清掃部、略称トクソウである。間違っても特別捜査ではない。念のために申し上げておくが、特殊清掃とも別だ。
「特技は、バイタリティーとチャレンジ精神です。期待してます」
何を言ってもゴリ押しされそうな迫力に怯み、四月からの雇用契約書にサインした。毎日挨拶を交わす教師たちや、多少なりとも仲良くなった生徒たち、低予算の中工夫して花を植えた花壇が、いっぺんに恋しくなる。あとひと月で、あれとお別れしなくちゃならないのか。
「どっちにしろ誰かが休んだら応援で入ってもらうんだし、縁がなくなるんじゃないんだから。それより、ステップアップしようよ」
まだ三十二歳の副社長は子供が生まれたばかりなので、張り切っているのだろうか、会社の業績を上げようって意思を強く感じる。パワーのある人に反論するのは、それ相応にパワーが必要だ。当然のように、和香にはそれがない。
「……ガンバリマス」
棒読みで返事をして、契約書を渡す。あとは野となれ。
しばらく待っていろと会議室にひとり残されて、長テーブルの上に突っ伏す。清掃業を続けたいわけでもないのに、他に何かできることがあるのかと問われれば、首を傾げるような立場だ。ビジネス系の専門学校を出て最初の職場はそれなりに大きな企業だったが、昼休みとロッカールームが苦痛だった。会話に入っていけずにいるうちに、話が続かない人だと誰も相手にしてくれなくなって、一年後にはトイレの個室に籠って弁当を食べるようになっていた。転職しても同じことで、若い女の子の多い職場はダメなんだと個人企業に入社すると、身内ばりに詮索と介入が怖かった。それではと製造業の流れ作業に派遣社員で行けば、請負先からのパワーハラスメント。偽装請負なんのその、セクシュアルハラスメントまで加わって、人権どこ行った状態。それでも続いている人がいるのは自分が弱かったからなのか、それとも自分だけが攻撃されていたのか。
やっと続けていけそうな場所があったと思った。数少ない友人たちが恋人と誕生日を過ごしたり、趣味のサークルで活躍しているのは羨ましいけれど、和香がそこに行きつくのは、百万光年くらい先な気がする。居場所があるだけで、満足しなくては。
尤も苦手なのは実際に人に会うことであり、SNSなどではそれなりに楽しく交流できるので、外地蔵ネット弁慶ってやつかも知れない。
来てくれと呼ばれた小部屋には、たくさんの清掃用具が置かれていた。ストック用もいくつもあるらしく、ビニールがかかっていたりもする。室内のひとりは、前に応援で一緒に仕事をしてくれたことがある。他には男ばかり三人おり、いかにもむさくるしい。
「女の子もひとりいるけど、今日は応援で一日出ちゃってるから」
三十代ひとり、五十代後半ひとり、六十代半ばがふたり。これが四月から一緒に作業するチームらしい。
「グループリーダーは竹田。俺のバスケ部の後輩だったんだわ。前職は内装屋」
茶髪で色の黒い男が、軽く頭を下げた。
「庭作業のエキスパートの植田さん。片岡さんと菊池さんは自衛隊にいた人たちだから、いろんなことしてくれるよ」
次々と紹介され、順番に頭を下げる。
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