トクソウ最前線

蒲公英

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過去の自分を救う

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 区立文化センターでの化学ショーなんて、基本的には小中学生向きの化学への誘いだ。もちろんそれなりに構成に力を入れて、面白いには面白いが、パチパチと拍手をすれば終わってしまう。そして経谷中では捌けなかったチケットで舘岡中の科学部が全員来ているなんて、水木先生は予想もしていなかったらしい。
「あ、水木先生!」
 そんな言葉が聞こえて、和香は思わず先生から数歩離れた。あっという間に数人の中学生に囲まれた先生を、壁際に寄って見ていた。何事かを一斉に話す子供たちを見ると、それなりに慕われている先生なんだと思う。けれど、和香の斜め前に見知った顔がひとつある。出遅れてしまったように和の中に入りきれず、戸惑った顔をしている。
「先生、ジュース奢って!」
 そんな言葉でロビーを横切っていく水木先生は、和香の居場所なんか確認しない。つまり、和香のそばにいる佐藤さんにも気がつかないってことだ。自動販売機の前で小銭入れを出した先生と、それを離れた場所から見ている佐藤さんと、一緒に来たはずの佐藤さんがいないことに気がつかない子供たち。

 この風景、知ってる。私には気にかけてくれる人がいて、ときどき見回して名前を呼んでくれた。それがなければ、置いて行かれていたに違いない。あのころ、自分から混ざりたいと言えれば、友達はまわりを見回したりしなくて良かった。気を使わなくて良かった。
 だから。
「ほら佐藤さん、何してるの。あなたもジュース選ばなくちゃ!」
「用務員さん……?」
「自分から行かなくちゃ、何もできないよ。一緒にいたいなら、一緒に動かなくちゃ」
 背中を押して、自動販売機に向かわせた。ここで佐藤さんが寂しい思いをするのはもちろん避けたいが、本当に避けたいのは佐藤さんを忘れていたと気がついた子供の罪悪感だ。忘れている子供は、本当は何も悪くない。だけど全員が買ってもらった缶ジュースを飲んでいるときに、何も持っていない佐藤さんを見れば、必ず気まずく感じる子供がいるのだ。自業自得なんて思うほど、子供たちは無共感じゃない。

 それぞれに飲み物を持たせて生徒を追い立てた水木先生が、頭を掻きながら和香の方に戻ってくる。出口から出ていこうとする集団の中で、佐藤さんが振り返って和香にジュースの缶を振って見せた。その笑顔で、過去の自分が一回救われたような気がする。
「いや、まいったまいった。まさかこんな場所で、子供に囲まれると思わなかった」
 水木先生はそう言いながら、和香の前に立った。
「さて、お茶でも飲みに行きましょうか。出たところにファミレスがありましたね」
 区内が地元の和香は、おそらく水木先生よりも情報を持っている。その中には、飲食店の情報も含まれているのである。どうせお茶を飲むのならばファミレスのティーバッグの紅茶よりも、ポットでサービスしてくれる店が良い。
「えっと、近くに紅茶の専門店があるんです。そちらではいけませんか」
 言わなくちゃわからないよ、と友達は言った。和香もそう思う。だから一歩踏み出してみた。水木先生は意外そうに承諾し、一緒に歩きはじめる。
「榎本さんは紅茶が好きなんですか」
「中国茶も好きですけど、それはなかなか店がないので。紅茶はお嫌いでしたか」
「いえ。僕は香りとか色とか言われても、わからないので」
 返事を聞いて、ふと思う。誘われて嬉しいのは確かだけれども、この人は何故自分を誘ったのだろうかと。見た目じゃないだろうし、舘岡中にいたときにプライベートなことを喋った記憶はない。水木先生が知っている和香は仕事中の和香でしかなく、和香が知っている水木先生もまた、仕事中の水木先生でしかない。そのあとに一緒に出歩いた三回も、会話の内容を全部繰り返せる程度にしか話していない。

 間接照明と木の調度の店内は、和香のお気に入りだ。ひと月かふた月に一度程度しか訪れないから常連面はできないが、ひとりで来ても落ち着いて、本を読んだり画集を眺めたりできる。メニューを開いた水木先生が一番安価な茶葉を注文するのを聞きながら、自分ではアッサムを頼んだ。若干金額は高くても、自分が紹介した店なので自分が払うつもりでいたから、気にしなかった。水木先生はやはり話し上手で、今日の化学ショーの解説をしてくれている。本職なだけあって、よく理解できる。相槌を打つだけなので、話はまったく苦じゃない。
 相槌を打つだけなので? 和香から話題を提供してはいないってことだ。それを引き出す言葉もない。では、どうして誘われているんだろうか。
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