芙蓉の宴

蒲公英

文字の大きさ
上 下
27 / 66

萌え出る緑の芽 1

しおりを挟む
 父と訪れた弁護士事務所は、すっきりと片付いていた。
「ちょっと調べさせてもらったんだけど、高橋氏の離婚はまだ成立していない。どうも奥さんのご両親はあまり裕福じゃないようで、孫と娘を養う財力はなさそうだ。再構築を促せる方向に誘導しようと思う」
「こちらからは、どうしたら良いでしょうか」
「身に危険があると判断したら、まず通報。実家には植木鉢を壊されるような被害はあったようだけど、芙由さんは」
「腕を強く引っ張られました。でも痣にもなりませんでしたし」
「次にそんなことがあったら、私が同行して被害届を出そう」
 こちらから積極的に遠ざけることは、何か事件が起きないと難しいらしい。
「子供がいるのだから、少しは弁えてくれると良いのですが」
「弁えられるような人間が、婚姻中に他で子供を作ったりはしませんよ。北岡さん、お嬢さんは優しすぎる」
 年配の弁護士は、やれやれと言うように笑う。
「きっと彼は今、全部他人の責任にしたくて必死なんです。でも芙由さんが、それの相手をしてやる必要はない。これ以上何かしたら、身ぐるみ剥がすぞと警告しておきます」
 そんなに長い面談ではなかったのに、ひどく疲れた。遮断されていた記憶や感情が次々と押し寄せ、今頃になってから、失われた結婚生活や夜中に呼ぶ義母の声や、家に業者を入れて介護仕様にしたときにも夫が立ち合いに帰宅しなかったことや、とにかくもう、ありとあらゆる雑多なものが頭の表面にぎっしりと張り付いているようで、吐き気がする。
 いっそのこと受け取った慰謝料を返してしまえば解決するのだろうかと父に言えば、そんなことをすれば彼はますます自分を正当化するだろうと返事が戻った。とにかく身辺に気をつけて、弁護士さんに任せるようにと。

 義母の夢を見て、夜中に目を覚ました。内容は起き上がると同時に忘れてしまったのに、声だけが残っている。
『赤いチューリップをたくさん入れましょ。ハナニラの白に映えるから』
 一緒に庭弄りができたのは、とても短い期間だった。そのあとにすぐ、ひどく攻撃的になったり被害妄想であたられたりしたし、それが終わったころには幼女に戻ってしまって、自分からの行動ができなくなっていたから。
 可憐な声で童謡を歌う義母を、夫は知らない。落ちた椿の花を拾い集める姿を、眉を顰めて見ていたのは覚えている。自分の母親が壊れていくのを、彼は認めたくなかったのだ。
「かわいそうに」
 暗い部屋のベッドの上で、私は声に出した。
「かわいそうに。逃げるだけ逃げれば、全部終わると思っていたのにね。結局現実に、追いつかれちゃったんじゃないの。ここで逃げるのを止めないと、今度こそ全部、ぜーんぶ失くすってわかってないんだね」
 声に出すことで、自分の中の整理がついて行く。寝具の上に身を起したまま身体が冷えるまで呟き続けた私は、もしも室内に他人がいたら狂人に見えたかも知れない。すっかり満足して布団を被り直したのは、明け方近くになっていた。

 彼に会うために電車に乗ったときは、特に何かを期待したわけではなかった。ただ梅の花の香る場所を歩き、頭に風を通したいと思っていたのだが、彼の顔を見た途端にそんなことは忘れた。
 彼は記憶よりも疲れた顔をしていた。何か表情に翳りがあり、私のアパートに訪れたときと同じようではなかった。そんなことを言いだすほど私は彼を知らないので、本当は億劫なのにつきあってくれたのだろうかと、引け目を感じたくらいだ。
 梅林の中を歩く彼はとても静かで、ときどき私の問いかけへの返事が飛ぶ。どことなく上の空で、それなのに私の話を懸命に聞こうとしてくれる。彼を座らせて売店からお茶を運んだとき、私を見る表情は、まるで幼い子供を見守っているかのようだった。
「はじめて会ったときと、別人のようだ。貧血を起こして、芙蓉の下に座っていたのに」
「身体のほうはすっかり健康です。まだ片付けなくてはならないことがあるのですが」
 言葉を促すような視線に、私は過去から現在をとりとめもなく喋った。あの町で、大した近所づきあいもしなかった家の内情が、噂になっていることを知った。都会でも田舎でもなく、大きな事件もなく、静かな町ではあった。住民はその分、退屈しているのだろう。
「やさしい気持ちなんて、抱かなくていい」
 彼はそう言った。私にそんな意識はなかったけれど、無意識のうちに良い人ぶりたいと皮を被っていたような気がする。もっと感情的になっても良いのか。
しおりを挟む

処理中です...