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結実した種は芽吹けど 5
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フローリストナガオの店頭にいると、奥さんと呼びかけられることが多くなった。違いますよと何度も訂正することも億劫になり、常連客以外には返事をしてしまう。ときどき長尾君の甥が、小さい子向けのサッカー教室の帰りなんかに寄っていく。長尾君のお母さんは、もう就学間近になった子供の相手が疲れるらしく、かと言ってひとりにしておける大きさでもないので、どうしても長尾君の負担が大きくなるのだ。
「まあ、姉ちゃんがあんなことになったとき、手伝ってくれって言われたのはそういうことだから。それを俺が勝手に商売広げたんだし、忙しいのは仕方ないなあ」
飄々と言いながら、客がいない時間に通りでサッカーのドリブルにつきあっている。帰ってくるまでは、聞いたことのある会社の営業マンだったらしい。
「結婚しようかって女もいたんだけどね。田舎に帰って花屋をやるって言ったら、じゃあねってさ」
軽く言葉にはしても、彼にだってたくさんの葛藤があって、眠れない夜を幾晩も過ごしただろう。辛い経験をしたのは、私だけじゃない。心に何か抱えている人間なんて、珍しくないのだ。他人の不幸を願っているわけではなくとも、自分だけが重い荷物を持っているのではないと安心する。
冷たい風の中に梅が咲く。去年梅園を歩いたとき、もう彼の胃の中では、良くないものが育っていたのか。そうだ、彼はしきりに胃の辺りに手をやっていた。なんてことだろう。彼の病と私の恋は、同時進行だったのだ。そうしたら、私が恋を諦めれば、彼の細胞も諦めてくれるのか。自分の思いつきが正しいことのように思えて、口を押さえた。それならば、どんな手段を使ったって彼を忘れてみせる。それで彼が助かるのならば。馬鹿なことを、と自分で思う。宗教に頼るひとの気持ちがわかる。溺れているときに目の前に浮いているものがあれば、藁だって掴みたくなる。
ひとりでいると彼のことばかり考えてしまうので、フラワーアレンジメントの他にチケット制の料理教室を見つけて、申し込んだ。アウトドアな趣味でもあれば違った楽しみがあるかと、調べたりもする。それなのにベッドに入った瞬間に、彼の実家の芙蓉の木が頭に再現されるのだ。あの枝が張り出した門柱の横に座れば、また彼が見つけてくれるかも知れない。
パンジーや雛菊が店頭に並ぶころ、店の前に見覚えのある車が停まっているのが見えた。別に珍しい車種ではないし、花の苗を車で買いに来る人も珍しくはなく、通りの多い道でもないのだが、運転手はいつまでも車から降りて来なかった。それなのに、顔はこちらを向いているようだ。おかしな髪型だと思い、それが黒っぽいニット帽だと認識したときに、私は小走りに走り寄っていた。
ウインドウをゆっくり下げて、彼は微笑んだ。
「元気な顔が、見たかっただけです。笑顔が見られて良かった」
「いやだ先生、言ってくだされば、いつでも私から伺うのに」
「あなたの普段の顔が見たかったのです。それに、渡したいものがあった」
渡されたのは、少しだけ育った芙蓉の苗と新刊の本だ。
「庭の芙蓉が、こぼれ種で発芽したものです。こちらは連載中に感想をいただいていたものを、纏めた本」
受け取りながら、助手席に何か乗っているのが見えた。あれはパルスオキシメーターと、酸素吸入器だ。頭をガンと殴られたようだった。
「仕事中にお邪魔して、悪かったね」
先生の車が角を曲がるのを、立ったまま見送った。
私が動けないでいるのを見て、長尾君が寄ってきた。
「すごい顔色だぞ。なんだ今の、知り合いか?」
そのときの私は、何も見ていないような顔をしていたらしい。
「あのひと、死んじゃう」
これはあとから、長尾君に聞いたことだ。
「死んじゃうの。自分でも知ってるの」
無表情で繰り返す私が、とても怖かったと長尾君は言う。バックヤードに座らされた記憶は、うっすらとある。気がついたら私のアパートのベランダには、鉢植えの芙蓉が置かれていた。
「まあ、姉ちゃんがあんなことになったとき、手伝ってくれって言われたのはそういうことだから。それを俺が勝手に商売広げたんだし、忙しいのは仕方ないなあ」
飄々と言いながら、客がいない時間に通りでサッカーのドリブルにつきあっている。帰ってくるまでは、聞いたことのある会社の営業マンだったらしい。
「結婚しようかって女もいたんだけどね。田舎に帰って花屋をやるって言ったら、じゃあねってさ」
軽く言葉にはしても、彼にだってたくさんの葛藤があって、眠れない夜を幾晩も過ごしただろう。辛い経験をしたのは、私だけじゃない。心に何か抱えている人間なんて、珍しくないのだ。他人の不幸を願っているわけではなくとも、自分だけが重い荷物を持っているのではないと安心する。
冷たい風の中に梅が咲く。去年梅園を歩いたとき、もう彼の胃の中では、良くないものが育っていたのか。そうだ、彼はしきりに胃の辺りに手をやっていた。なんてことだろう。彼の病と私の恋は、同時進行だったのだ。そうしたら、私が恋を諦めれば、彼の細胞も諦めてくれるのか。自分の思いつきが正しいことのように思えて、口を押さえた。それならば、どんな手段を使ったって彼を忘れてみせる。それで彼が助かるのならば。馬鹿なことを、と自分で思う。宗教に頼るひとの気持ちがわかる。溺れているときに目の前に浮いているものがあれば、藁だって掴みたくなる。
ひとりでいると彼のことばかり考えてしまうので、フラワーアレンジメントの他にチケット制の料理教室を見つけて、申し込んだ。アウトドアな趣味でもあれば違った楽しみがあるかと、調べたりもする。それなのにベッドに入った瞬間に、彼の実家の芙蓉の木が頭に再現されるのだ。あの枝が張り出した門柱の横に座れば、また彼が見つけてくれるかも知れない。
パンジーや雛菊が店頭に並ぶころ、店の前に見覚えのある車が停まっているのが見えた。別に珍しい車種ではないし、花の苗を車で買いに来る人も珍しくはなく、通りの多い道でもないのだが、運転手はいつまでも車から降りて来なかった。それなのに、顔はこちらを向いているようだ。おかしな髪型だと思い、それが黒っぽいニット帽だと認識したときに、私は小走りに走り寄っていた。
ウインドウをゆっくり下げて、彼は微笑んだ。
「元気な顔が、見たかっただけです。笑顔が見られて良かった」
「いやだ先生、言ってくだされば、いつでも私から伺うのに」
「あなたの普段の顔が見たかったのです。それに、渡したいものがあった」
渡されたのは、少しだけ育った芙蓉の苗と新刊の本だ。
「庭の芙蓉が、こぼれ種で発芽したものです。こちらは連載中に感想をいただいていたものを、纏めた本」
受け取りながら、助手席に何か乗っているのが見えた。あれはパルスオキシメーターと、酸素吸入器だ。頭をガンと殴られたようだった。
「仕事中にお邪魔して、悪かったね」
先生の車が角を曲がるのを、立ったまま見送った。
私が動けないでいるのを見て、長尾君が寄ってきた。
「すごい顔色だぞ。なんだ今の、知り合いか?」
そのときの私は、何も見ていないような顔をしていたらしい。
「あのひと、死んじゃう」
これはあとから、長尾君に聞いたことだ。
「死んじゃうの。自分でも知ってるの」
無表情で繰り返す私が、とても怖かったと長尾君は言う。バックヤードに座らされた記憶は、うっすらとある。気がついたら私のアパートのベランダには、鉢植えの芙蓉が置かれていた。
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