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file.1 公立中学殺人事件
7.チェックメイト
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月明かりさえ遠い闇夜。アスファルトを蹴り打つヒールの音が響いている。間を隔てて立ち並ぶ街路灯が不気味に点滅していた。
「みぃつけたっ」
無邪気な声に、彼女はびくりと肩を跳ね上げた。続けざまに振り返れば、若い女が一人笑みを浮かべて立っている。その後ろには、控えるようにして男がいた。
「こんばんはぁーー殺人犯サン」
にぃっこり。口元だけで、彼女は笑っていた。
「っ、は……? 誰よ、あなた?」
「あらぁ? 否定しなくていいのかしら? ああ、できないのかしら。そうよねぇ、だって、日向先生を殺したの……あなたですものねぇ、歌垣先生!」
強められた語気に体の強ばりがました。表情の抜け落ちた顔が、一瞬にして般若に変わる。
「ああ、あなた警察の人なの。だったらわかるでしょう、私に犯行は不可能だって」
「あら、どうして?」
「っあの現場から私の指紋は検出されなかったはずよ!」
歌垣がヒステリックに叫ぶ。剣呑な目つきは射殺さんばかりに鋭く、叫ぶ声はコンクリートに跳ね返され静けさ故に大きく響いた。
しかし、それでも彼女の笑みは崩れない。貴婦人を彷彿とさせる小さな笑い声を零しながら悠然と対峙している。
「ええ、あなたの指紋は検出されなかったわ。一つも、ね」
「だったら!」
畳み掛けようとする歌垣の言葉を遮って、彼女は言い募る。おかしい、と。いかにも道化を見る目つきで見据えて。
「ねぇ、どうして警察に連絡したの?」
「そんなの、死体を見つけたら普通するでしょうっ?」
「普通、ねぇ……なら、質問を変えましょうか。どうして死体だとわかったの?」
「それは……っ!」
ようやく気づいた歌垣の顔が一瞬にして蒼白に変わった。
慈の笑みがさらに深まる。
気圧されるように、歌垣は数歩後ずさった。
それを詰めるように慈が大股に迫り寄る。
「遺体からも、その周りからもあなたの指紋は検出されなかった。なのに、どうして日向先生が死んでるとわかるの?」
「そ、それは……日向先生が血まみれで倒れてたから…………」
「そうよねぇ、そんなもの見かけたら、普通通報して呼ぶわよねーー救急車を」
そう、状況は最初からおかしかったのだ。存在していなければいけないものが一台として呼ばれていなかったのだから。
目に見えて死んでいるとわかる死体でもなかったというのに触れてもいない人間がそうとわかるというなら。ーーそれは犯人のみ。
「っでも! 凶器はっ? 凶器は見つかってないんでしょうっ」
「ああ。それって、これのこと?」
慈はポケットから小さな袋を取り出した。 薄暗い中では分かりにくかっただろうが、街路灯の下ではよく見えた。
あっ、傍観に徹していた雄が思わずと声を漏らす。
それは、黒い粉だった。
今度こそ、歌垣は言葉を失う。立ち尽くす気力さえ消え失せたかのようにみっともなく座り込む無様な姿を慈だけが冷ややかな目で見下ろしていた。
「凶器はこの木炭ね。そのままでは無理でも少し手を加えれば話は別よ」
凶器は外部から持ち込まれたわけではなく、持ち出されてもいなかったのだ。
日向紗夜子を殺害した後、使用した木炭の表面だけを削り、念入りにすり潰して粉末化させ、現場に散布した。中心部は砕いてデッサン用の木炭として紛れ込ませたというところか。
「鑑識に回せば出てくるでしょうね、被害者の血液が」
「っそんなの……美術室の備品が使われただけでしょ!」
「塊のままなら、そう言い逃れもできたでしょうけど。現場に無く、原型をとどめてもいない理由はお有りかしら?」
「そ、れは……」
とうとう歌垣が黙り込む。彼女の目論見通りなら、それは風によって広く散らばるはずだった。油断を誘うはずだったのだ。
事実、警察の目は欺けていたのだ。
しかし、付いた目は警察だけではなかった。だから見つかった。彼女がそれを知らないだけで。
「あいつが悪いのよ……」
震えた声で吐き出される。それは抜け殻のようであり、取り憑かれたようでもあった。
生きる屍と化した彼女は、壊れたように笑いを零している。
「美人で? 優しくて? その上気さく? ……ありえないわ。そんな人間いるわけないじゃない。いちゃいけないのよ、そんな気持ちの悪いモノ」
ブツブツと狂った感情を吐露する歌垣は虚ろな目で慈を見上げた。あなたもそう思うでしょ? と、そう言わんばかりに。
慈は何も言うことはなかった。
くだらない、実にくだらない。
人を殺したのだからそれなりの動機があるのかと思えば、なんとも醜いことこの上ない。
杜撰でお粗末なこの事件には、この茶番にも満たない逮捕劇こそがいっそ相応だ。
慈はすっかり興味の冷めきった様子で手錠のかかる始終を見届けた。
薄暗い夜道には、今もまだ耳障りな笑い声が響いている。
「みぃつけたっ」
無邪気な声に、彼女はびくりと肩を跳ね上げた。続けざまに振り返れば、若い女が一人笑みを浮かべて立っている。その後ろには、控えるようにして男がいた。
「こんばんはぁーー殺人犯サン」
にぃっこり。口元だけで、彼女は笑っていた。
「っ、は……? 誰よ、あなた?」
「あらぁ? 否定しなくていいのかしら? ああ、できないのかしら。そうよねぇ、だって、日向先生を殺したの……あなたですものねぇ、歌垣先生!」
強められた語気に体の強ばりがました。表情の抜け落ちた顔が、一瞬にして般若に変わる。
「ああ、あなた警察の人なの。だったらわかるでしょう、私に犯行は不可能だって」
「あら、どうして?」
「っあの現場から私の指紋は検出されなかったはずよ!」
歌垣がヒステリックに叫ぶ。剣呑な目つきは射殺さんばかりに鋭く、叫ぶ声はコンクリートに跳ね返され静けさ故に大きく響いた。
しかし、それでも彼女の笑みは崩れない。貴婦人を彷彿とさせる小さな笑い声を零しながら悠然と対峙している。
「ええ、あなたの指紋は検出されなかったわ。一つも、ね」
「だったら!」
畳み掛けようとする歌垣の言葉を遮って、彼女は言い募る。おかしい、と。いかにも道化を見る目つきで見据えて。
「ねぇ、どうして警察に連絡したの?」
「そんなの、死体を見つけたら普通するでしょうっ?」
「普通、ねぇ……なら、質問を変えましょうか。どうして死体だとわかったの?」
「それは……っ!」
ようやく気づいた歌垣の顔が一瞬にして蒼白に変わった。
慈の笑みがさらに深まる。
気圧されるように、歌垣は数歩後ずさった。
それを詰めるように慈が大股に迫り寄る。
「遺体からも、その周りからもあなたの指紋は検出されなかった。なのに、どうして日向先生が死んでるとわかるの?」
「そ、それは……日向先生が血まみれで倒れてたから…………」
「そうよねぇ、そんなもの見かけたら、普通通報して呼ぶわよねーー救急車を」
そう、状況は最初からおかしかったのだ。存在していなければいけないものが一台として呼ばれていなかったのだから。
目に見えて死んでいるとわかる死体でもなかったというのに触れてもいない人間がそうとわかるというなら。ーーそれは犯人のみ。
「っでも! 凶器はっ? 凶器は見つかってないんでしょうっ」
「ああ。それって、これのこと?」
慈はポケットから小さな袋を取り出した。 薄暗い中では分かりにくかっただろうが、街路灯の下ではよく見えた。
あっ、傍観に徹していた雄が思わずと声を漏らす。
それは、黒い粉だった。
今度こそ、歌垣は言葉を失う。立ち尽くす気力さえ消え失せたかのようにみっともなく座り込む無様な姿を慈だけが冷ややかな目で見下ろしていた。
「凶器はこの木炭ね。そのままでは無理でも少し手を加えれば話は別よ」
凶器は外部から持ち込まれたわけではなく、持ち出されてもいなかったのだ。
日向紗夜子を殺害した後、使用した木炭の表面だけを削り、念入りにすり潰して粉末化させ、現場に散布した。中心部は砕いてデッサン用の木炭として紛れ込ませたというところか。
「鑑識に回せば出てくるでしょうね、被害者の血液が」
「っそんなの……美術室の備品が使われただけでしょ!」
「塊のままなら、そう言い逃れもできたでしょうけど。現場に無く、原型をとどめてもいない理由はお有りかしら?」
「そ、れは……」
とうとう歌垣が黙り込む。彼女の目論見通りなら、それは風によって広く散らばるはずだった。油断を誘うはずだったのだ。
事実、警察の目は欺けていたのだ。
しかし、付いた目は警察だけではなかった。だから見つかった。彼女がそれを知らないだけで。
「あいつが悪いのよ……」
震えた声で吐き出される。それは抜け殻のようであり、取り憑かれたようでもあった。
生きる屍と化した彼女は、壊れたように笑いを零している。
「美人で? 優しくて? その上気さく? ……ありえないわ。そんな人間いるわけないじゃない。いちゃいけないのよ、そんな気持ちの悪いモノ」
ブツブツと狂った感情を吐露する歌垣は虚ろな目で慈を見上げた。あなたもそう思うでしょ? と、そう言わんばかりに。
慈は何も言うことはなかった。
くだらない、実にくだらない。
人を殺したのだからそれなりの動機があるのかと思えば、なんとも醜いことこの上ない。
杜撰でお粗末なこの事件には、この茶番にも満たない逮捕劇こそがいっそ相応だ。
慈はすっかり興味の冷めきった様子で手錠のかかる始終を見届けた。
薄暗い夜道には、今もまだ耳障りな笑い声が響いている。
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