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21.意外
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かちゃんと鍵を開けて玄関に入る。先日と同じように来客用のスリッパを晃輝の足元に並べて、今日はそのまま自室に向かってもらった。
千夏はキッチンで作り置きの水出し紅茶をグラスに注いでいた。
千夏の城とも呼べるこの部屋には、他者にはばかる必要もないことから千夏の趣味ばかりが詰まっている。
今手に取っているグラスにしても、ほぼ全体的につや消し加工が施されたそれは飲み物を注ぐと加工のされていない部分が模様として綺麗に浮かび上がる。さりげない意匠が見た目でも楽しませてくれるという一品だ。
目分量で八分目当たりまで注いだグラスをトレーに乗せて自室に入る。
晃輝は、机の上に出しっぱなしにしていた書きかけのレポートに目を通していた。
見られて困るような出来の物を作っているつもりはないが、何故か手書きでの作成を厳命された講義のものなのが羞恥心を駆り立てる。
綺麗とは言い難い自分の字をまじまじと見られるのが居た堪れなかった。
お待たせ、とわざと声をかけて晃輝の目を逸らさせる。
千夏の目論見通りに千夏に注意が向いたその隙に、素早くレポートを取り上げた。取り返される前にラックの中に放り込んで、鍵まで掛ける。
「別に隠すことねぇだろ。悪くないと思うぜ」
「そういってもらえるのは光栄だけど……ほら、私、癖字だったでしょ」
だからあんまり見られたくないの、と言えば、晃輝は不思議そうにしていたがそれ以上の追求はしてこなかった。それが晃輝の優しさによるものなのか、それとも単純に追求するほど興味の湧く内容ではなかったからなのかは、千夏には知りようのないことだった。
今日使っていた鞄からファイルを引っ張り出して、その中から分厚い紙束を抜き出す。その量の多さにまた気が滅入りかけるが、ぐっと堪えて古文書のコピーをローテーブルの上に曝け出した。
「へえ、寂恵か」
一目見ただけで言い当てた晃輝に驚いた。確かにこの課題を出された時に教授もヒントとしてそんなことを言っていた。
「わかるの?」
「字には誰でも癖があるからな。お前が気にしてるのと一緒だろ」
そう言う晃輝の言葉は間違っていないが、古筆と現代の文字とでは大きく異なるというのが千夏の思うところなわけで。
きっと本当に読める人だから言える言葉なんだろうと勝手に納得した。
「で、これをどうすればいいんだ?」
「翻刻と整定って言われてる」
翻刻とは古筆を現代文字に改めることで、整定はそれにさらに漢字を当て嵌めることを指す。
古筆学においては初歩中の初歩の作業だというが、書き手の誤写も珍しいことではないのでこれがまた神経を使うのだ。信じられるのは自己の才覚に尽きるという、精神力を消耗してやまない作業でもある。
ただ、現代語訳なんてできて当然、という教授の偏見に今回ばかりは救われた。これ以上は千夏には手が回らなかった。
渡されたコピー資料はA4用紙十三枚、しかも両面印刷だ。
今が夜の七時を少し過ぎた頃だから、晃輝が十時に帰るとして、翻刻だけでも完成したら快挙と言えるだろう。もっと早く帰るとしても半分は終わっているだろうと踏む。
晃輝はぱらぱらとコピー資料を眺め、よしと頷いた。
「このくらいなら今日明日中に終わるな」
「は? ああ、翻刻?」
「いや、整定も」
「は? ──いやいやいや、え? え?」
ちょっと待ってよ、何言ってるの。
千夏は自分の耳を疑った。
今日明日中に終わる? 何が? 課題が?
A4二十六ページが!?
「あの……はりきってくれてるところ、申し訳ないんだけどね。私、古筆は本当に、本っ当にからっきしでして…………」
晃輝さんの思うようには進まないと思うよ、と弱々しい声で進言するが、晃輝はそれが? と問い返してきた。
「教えてやるって言っただろ。しっかり面倒みてやるから、安心しろ」
任せとけ、と闊達に笑いかける晃輝が眩しく思えた。強引な中にもちゃんと気遣いが垣間見えて、頼もしいと感じる。
「えっと……不出来ですが、よろしくお願いします」
「おう、よろしくしてやるよ」
あ、でも先にお茶一口貰うな、と千夏の緊張を和らげるようにおちゃらけて見せる晃輝が歳よりも幼く見えて、なんだか笑えた。
(うん、頑張ろう)
せっかく教えてもらえるのだから、頑張らなくては失礼だ。
そう自分に言い聞かせて、千夏は天敵たる課題と睨みあった。
ふ、と。晃輝が優しい目でそれを見ていたのを千夏は知らない。
千夏はキッチンで作り置きの水出し紅茶をグラスに注いでいた。
千夏の城とも呼べるこの部屋には、他者にはばかる必要もないことから千夏の趣味ばかりが詰まっている。
今手に取っているグラスにしても、ほぼ全体的につや消し加工が施されたそれは飲み物を注ぐと加工のされていない部分が模様として綺麗に浮かび上がる。さりげない意匠が見た目でも楽しませてくれるという一品だ。
目分量で八分目当たりまで注いだグラスをトレーに乗せて自室に入る。
晃輝は、机の上に出しっぱなしにしていた書きかけのレポートに目を通していた。
見られて困るような出来の物を作っているつもりはないが、何故か手書きでの作成を厳命された講義のものなのが羞恥心を駆り立てる。
綺麗とは言い難い自分の字をまじまじと見られるのが居た堪れなかった。
お待たせ、とわざと声をかけて晃輝の目を逸らさせる。
千夏の目論見通りに千夏に注意が向いたその隙に、素早くレポートを取り上げた。取り返される前にラックの中に放り込んで、鍵まで掛ける。
「別に隠すことねぇだろ。悪くないと思うぜ」
「そういってもらえるのは光栄だけど……ほら、私、癖字だったでしょ」
だからあんまり見られたくないの、と言えば、晃輝は不思議そうにしていたがそれ以上の追求はしてこなかった。それが晃輝の優しさによるものなのか、それとも単純に追求するほど興味の湧く内容ではなかったからなのかは、千夏には知りようのないことだった。
今日使っていた鞄からファイルを引っ張り出して、その中から分厚い紙束を抜き出す。その量の多さにまた気が滅入りかけるが、ぐっと堪えて古文書のコピーをローテーブルの上に曝け出した。
「へえ、寂恵か」
一目見ただけで言い当てた晃輝に驚いた。確かにこの課題を出された時に教授もヒントとしてそんなことを言っていた。
「わかるの?」
「字には誰でも癖があるからな。お前が気にしてるのと一緒だろ」
そう言う晃輝の言葉は間違っていないが、古筆と現代の文字とでは大きく異なるというのが千夏の思うところなわけで。
きっと本当に読める人だから言える言葉なんだろうと勝手に納得した。
「で、これをどうすればいいんだ?」
「翻刻と整定って言われてる」
翻刻とは古筆を現代文字に改めることで、整定はそれにさらに漢字を当て嵌めることを指す。
古筆学においては初歩中の初歩の作業だというが、書き手の誤写も珍しいことではないのでこれがまた神経を使うのだ。信じられるのは自己の才覚に尽きるという、精神力を消耗してやまない作業でもある。
ただ、現代語訳なんてできて当然、という教授の偏見に今回ばかりは救われた。これ以上は千夏には手が回らなかった。
渡されたコピー資料はA4用紙十三枚、しかも両面印刷だ。
今が夜の七時を少し過ぎた頃だから、晃輝が十時に帰るとして、翻刻だけでも完成したら快挙と言えるだろう。もっと早く帰るとしても半分は終わっているだろうと踏む。
晃輝はぱらぱらとコピー資料を眺め、よしと頷いた。
「このくらいなら今日明日中に終わるな」
「は? ああ、翻刻?」
「いや、整定も」
「は? ──いやいやいや、え? え?」
ちょっと待ってよ、何言ってるの。
千夏は自分の耳を疑った。
今日明日中に終わる? 何が? 課題が?
A4二十六ページが!?
「あの……はりきってくれてるところ、申し訳ないんだけどね。私、古筆は本当に、本っ当にからっきしでして…………」
晃輝さんの思うようには進まないと思うよ、と弱々しい声で進言するが、晃輝はそれが? と問い返してきた。
「教えてやるって言っただろ。しっかり面倒みてやるから、安心しろ」
任せとけ、と闊達に笑いかける晃輝が眩しく思えた。強引な中にもちゃんと気遣いが垣間見えて、頼もしいと感じる。
「えっと……不出来ですが、よろしくお願いします」
「おう、よろしくしてやるよ」
あ、でも先にお茶一口貰うな、と千夏の緊張を和らげるようにおちゃらけて見せる晃輝が歳よりも幼く見えて、なんだか笑えた。
(うん、頑張ろう)
せっかく教えてもらえるのだから、頑張らなくては失礼だ。
そう自分に言い聞かせて、千夏は天敵たる課題と睨みあった。
ふ、と。晃輝が優しい目でそれを見ていたのを千夏は知らない。
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