闇に蠢く・完全版

ノムラユーリ

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第1部 第4章・廃屋の少女

第8回

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 いつも登る峠道の景色は何も変わらずそのままで、けれどやはり何処にも人のいる気配はなかった。ただひっそりとした灰色が、どこまでもどこまでも続いている。足元は先ほどの雨の影響か、それとも最初からそうなのか、ちょろちょろと山頂から流れる水に濡れていた。

 ふと傍らに目を向ければ、そこには崩れた祠の跡があった。奈央の覚えている限り、その祠は近所の老人達によって、常に掃き清められていたはずだった。それなのに、今目の前に見えているそれは粉々に砕け散っており、明らかに破壊されてから相当な年月を経ているように見えた。奈央はそれ程信仰心のある方ではなかったが、見ていて気持ちのいいものでは決してなかった。

 それを尻目に二人は更に歩みを進め、いくつかの民家の前を通過する。人の居るような気配はまるでなく、ただ異様な存在感だけがそこにはあった。こちらを向いた窓の向こう側に見えるのは、ぼんやりとした怪しげな闇。その外観もまた蝋燭の火のようにゆらゆらと揺らめいていた。

 やがて山頂付近に差し掛かり、
「さあ、着いたわ」
 少女は言って、立ち止まった。

 奈央も歩みを止め、それを見上げる。

「ここが、私の家よ」

 そう言って少女が門扉を開けた先には、奈央もよく知る、あの廃屋が聳え建っていた。

 奈央は尻込みしながら、けれど少女の後ろについて先へ進んだ。玄関扉が開けられ、先に入った少女から、促されるようにして足を中へ踏み入れる。その途端、強い芳香が奈央の鼻を刺激し、思わず激しくむせ返った。いったい何の匂いだろうと見回せば、玄関の至る所にドライフラワーが吊り下げられている。そのあまりの数に奈央は驚愕し、その強烈な芳香に目眩さえ覚えた。

「なんで、こんなに……」
 思わず口に出ていた言葉に、少女は振り向きながら、
「……知りたい?」
 と影のある笑みを浮かべ、奈央は慌てて首を横に振った。どう考えてもまともな答えは期待できそうになかったし、嫌な事を連想させるような理由なら最初から聞きたくもなかった。

 少女は短く「そう」と返すと、「上がって」と言って目の前の廊下を歩き始めた。

 奈央も靴を脱ぐと、一定の距離を保ったまま、少女の後ろをついて歩く。廊下は右へ折れると、庭を臨むように奥へと続いていた。ガラスの引き戸から見える庭は荒れ放題で、道路に面した木々が綺麗に刈られていることを除けば、落ち葉や枯れ枝、その他名も知らぬ雑草や蔓に支配され凄惨を極めていた。片隅にはコンクリートで出来た井戸がひっそりと口を開け、脇には黒く煤けた小さな焼却炉が見える。その奥にうっすらと見えるのはかつての池の跡か何かだろうか。今はすっかり草葉に覆い隠され、その姿を隠していた。

 眼の前を行く少女はどういうわけか廊下の左側、ガラスの引き戸側すれすれを歩いている。奈央自身はあまり気にせず真ん中を歩いていたが、後ろから見ていて少女のその行動は、異様なほど意識して端を歩いているように見えた。

「――お前は廊下の端を歩け」

 低い声で少女は言って、唐突に立ち止まった。

 奈央は思わず「ひっ」と叫び、慌てて端に身体を寄せる。

「昔、母がよく私に言っていた言葉よ」

 そう言いながら少女は首を捩って後ろの奈央を振り向くと、感情の希薄な表情を浮かべた。

「……どういうこと?」

 眉間にしわを寄せる奈央に、少女は淡々とした様子で口を開いた。

「――汚い私は道の真ん中を歩いちゃいけない、そういう意味よ」

「……汚い?」

 眉を顰める奈央に、少女はゆっくりと口を開いた。

「私は、父や母に言われるがまま、たくさんの男たちの相手をしていたの。お金をもらって、沢山の精を受けて、沢山汚れて、そんな身体のまま廊下を歩くんじゃないって、母は私をよく叩いたわ。父はそういったことは気にしないような人間だったけれど、母はとても厳しかったの。穢れたお前が通っていい道なんて、どこにもないんだ。だから、歩くのなら、せめて端を歩けって。私はいつも怒られていた。その癖が今も抜けないのよ。もう、あの二人は居ないのにね……」

 奈央はその少女の言葉に、思わず息を飲んだ。

 少女は表情一つ変えずにそれを口にしたけれど、それがどういうことなのか、奈央には十分に理解することができる。自身の母親の姿が思い浮かび、あるいは私もこの少女と同じような目に遭っていたかもしれないのだと思うと、胸が苦しくて仕方がなかった。

 お金を貰って、沢山の男たちの相手をしていた、精を受けていた。それだけでも信じられないくらいに酷い話だというのに、加えて母親にまで虐げられていただなんて――

 けれど少女自身は、それがまるで何てことのない過去話であったかのような振る舞いで奈央に再び微笑み、
「……まぁ、昔の話よ。さぁ、こっちよ」
 右手側に見える襖を指し示し、手をかけた。

 奈央は複雑な思いを胸中に抱えたまま、けれどそんな少女に掛ける言葉も思い浮かばず、その後をただついて歩くことしかできなかった。

 襖を抜けた先は居間と思しき六畳ほどの部屋で、その中央には長方形のちゃぶ台と、それを挟むようにして二枚の座布団が敷かれていた。それ以外に他に物はなく、部屋全体がどこか重たい空気に満ち満ちている。どこからか漂ってくる生臭いにおいに奈央は眉間に皺を寄せつつ、少女に促されるように腰を下ろした。

「――響紀は、どこ?」

 奈央は左腕のブレスレットをぎゅっと握り締め、少女の顔を睨みつけるようにしながら問うた。

 そんな奈央に対して、少女は「単刀直入ね」と言って口元にうっすらと笑みを浮かべた。

「大丈夫、そのうち会えるわ。あの人は、必ずここに戻ってくるはずだから」

「どういうこと?」と奈央は腰を僅かに浮かし、すぐにでも立ち上がる態勢をとりながら、「もしかして、私を騙したの?」

「私は貴女を騙したりなんかしていないわ」 言って少女はくつくつ嗤った。「だって、響紀さんに会いたいか、としか、私は訊ねていないんだもの。貴女が勝手に勘違いしただけ」

 その瞬間、奈央は咄嗟に立ち上がると、一刻も早くこの場から立ち去らなければ、という思いに駆られながら襖まで走り寄り、力一杯左右に力を込めた。けれど襖は一寸たりとも動かず、押しても叩いても全く開く気配がない。まるで見た目はそのままに、壁と化してしまったかのようだ。焦る気持ちは汗となって現れ、奈央の身体をびっしょりと濡らしていく。

「どうしたの、そんなに慌てて」

 背後から少女の声がして、奈央は目を見張り振り返った。すぐ目の前に少女の白い顔があって、後ずさりすることも出来ないまま、
「んんっ!」
 突然、奈央の唇に少女の唇が重ねられ、心臓が激しく脈を打った。

 口腔内に侵入してくる少女の舌に奈央は戸惑い、けれどあまりの恐怖にそれを拒むことすら出来なかった。甘ったるい花の香りに混じる生臭いにおいに眩暈を覚えつつ、奈央の口腔内を少女の舌が何かを探るように激しく蠢く。

 そして次の瞬間、何かドロリとしたものが少女の舌を通じて喉の奥に流し込まれるのを感じ、奈央は反射的に少女の身体を力一杯押し倒していた。

「ぎゃっ!」

 少女は短く悲鳴を上げ、畳の上に倒れこむ。

 奈央は自身の腕に巻かれたブレスレットに気付き、次いで今しがた押し倒した少女に目をやった。何らかの効果を期待したけれど。

「……酷いじゃない。押し倒すだなんて」

 少女は口元に怪しげな笑みを浮かべながら手をつき、ゆっくりと身体を起こす。

 奈央はブレスレットの無力さを目の当たりにし、愕然とした。

 何が必ず貴女を守ってくれるよ! 何も起こらないじゃない!

 そう思いながら、ゆらゆらと身体を揺らすように立ち上がる少女を怯えながら見つめる。

 少女は猫背の状態から、恨めしそうに奈央を見上げてきた。乱れた髪が顔を覆い、より一層その恐ろしさが増して見える。

 少女はにたりと笑みを浮かべ、乱れた髪を手で梳きながら背筋を伸ばしつつ、
「まあ、いいわ。私も急過ぎたもの、取り乱しても仕方がない。ごめんなさい」

 その泰然とした様子に、かえって奈央の心は掻き乱された。

 閉じ込められ、もはや逃げ場のないこの状況。与えられたお守りのブレスレットはまるで役には立たず、あとはこの少女に好きなようにされるのを待つ虜囚の我が身。

 止めておけば良かった。あのまま、コンビニの前から動かなければ良かった。もしかしたら、待っていれば大樹くんが助けに来てくれていたかもしれないのに。

 ……助けて。

 奈央はただ、そう願うことしかできなかった。

 助けて、大樹くん……!

「もしかして、愛しい彼の事を考えているの?」

 そんな奈央に、少女は嘲るような笑みを浮かべた。

「哀れね。まさか、本当に彼が貴女を助けに来てくれるとでも思っているの? 下心も無しに愛しているなんて思っているの? そんなの、ただの妄想で、幻想よ」

「な、なにが、言いたいの……?」
 絞り出すように、奈央は問う。

「わたしも、そうだった。愛してるという言葉の意味もわからないまま、ただ言われるがまま、されるがまま、それが愛というものだと思っていた。だけど、いつしか気づいたのよ。違う、そうじゃないんだって。わたしはただ彼らの愛玩物で、お人形でしかなかったんだって」
 だからね、と少女はにたりと嗤い、
「わたし、思ったの。だったら、それを逆に利用できるんじゃないかって。自ら身体を曝せば、彼らはわたしの言うことを何でも聞いてくれるんじゃないかって」

 いったい、何の話をしているんだろう。何を言おうとしているのだろう。

「貴女だって同じでしょう? 自分が身体を晒せば男達は自分を愛してくれる、何だって言う事を聞いてくれる。そう思ったからこそ、あの男の子を誑かしたのでしょう?」

「ち、違う」奈央はその言葉に、咄嗟に返した。「私は、そんなつもりで木村くんを誘ったんじゃない。私は、私が木村くんを好きだから――」

「嘘よ」と少女は確信したように口にする。「貴方はただ愛して欲しくて、何でも言うことを聞いてくれる男が欲しくて、彼を誑かしたのよ。私にはわかる。貴女も、私と一緒だから」

「なんで、どうしてそう言い切れるわけ?」

 思わず声を荒げる奈央に、
「だって――」
 と少女は不意に顔を伏せると、怪しげに嗤い声を漏らしながら、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞬間、「えっ」と奈央は驚愕のあまり思考が停止する。

「――だって私は、貴女の母親なんだから」

 見間違うことなき、母の口が、そう告げた。
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