闇に蠢く・完全版

ノムラユーリ

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第1部 第4章・廃屋の少女

第9回

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 奈央は大きく目を見張り、力なく崩れた。背中に当たる襖が音を立てて揺れる。心臓が激しく脈打ち、次第に呼吸が荒くなっていった。息をする方法すら忘れてしまったかのように酸素が不足し、頭が痺れていくのを感じる。思考がまとまらず、今目の前に立つ母のその顔をただ茫然と見つめることしかできなかった。

 嘘、嘘よ……! と奈央はゆっくりと頭を振り、その事実を決して認めることができなかった。いや、できるはずもなかった。つい今しがたまで少女の顔をしていた女が、次の瞬間には母の顔をしているのだ。これは何かの見間違いに違いない。この女が、私の母であるはずがない!

「……どうしたの、奈央」にやりと嗤う母の口が、先日耳にしたそれと同じ声を発する。「そんなに怖がることなんてないじゃない。だって、ちゃんと言ったでしょう? また、改めて迎えに来るって」

 その瞬間、奈央は息を飲み込んだ。

 あの時、あの場所に居たのは確かに私と母だけだった。近くに母の連れていた男は居たが、彼は離れた場所に停めた車の中だった。他には誰の姿もなかったはずだ。

 つまり、あの時の会話を知り得るのは。

「なん、で、お、母さん、が――」

 声を震わせながら、奈央は母の顔を見つめる。

 少女はお母さんで、お母さんは少女で、響紀は少女の事を大人の女だと言ってて、だとしたらその女は少女ではなくてお母さんで、つまり響紀が私を通してみていた女は間違いなくお母さんで、お母さんは私のお母さんだから顔が似ていて、だから響紀は私をお母さんと見間違えて家を飛び出して行って、だから、つまり、私は、お母さんは、響紀は――――

「そんなに怖そうな顔しなくてもいいんじゃない? 私はあんたの母親よ? 何を怖がる必要があるというの?」

 不敵な笑みを浮かべながら、母は奈央を見下ろすようにそう言った。人を小馬鹿にしたようなその表情が、先日会った時のまま、奈央の顔を覗き込んでくる。

「でも、本当に良い具合に育ってくれたわね。なんだか昔の自分を見てるみたい。不思議ね。あんたが産まれた時は猿みたいに鳴き喚いてばかりで、本気でただウザいだけだって思ってたのに――」

 言って母は奈央の胸に手を伸ばし、力一杯鷲掴みにする。

「い、痛い……!」
 奈央は小さく悲鳴を上げた。

「今じゃぁ、こんなんなっちゃってさ。ほんと、驚くわ。こうなるのが分かってたら、あんたを手放したりなんかしなかったのにね。ほんと、良い体に育ってくれたわ。これなら、いくら高値を付けても客が付きそうね」

「や、やめて!」

 奈央は母のその手を振り払い、胸元を両手で隠した。楽しげにくつくつと笑う母を睨みつけながら、歯をくいしばる。

 どうして、なんで、こんな……

 奈央はもはやどうすれば良いのか全く分からなかった。手足は未だに激しく小刻みに震え、動悸も治らない。何とかして立ち上がり、この場から逃げ出したいというのに。

「安心しなさい」と母はにっと笑い、「彼らは貴方の身体を心から愛してくれるわ。きっと何でも言う事を聞いてくれる。欲しい物が何でも手に入るのよ? 何を怖がる必要があるというのかしら?」

 違う、と奈央は首を横に激しく振った。違う。そんなもの、要らない。私が欲しいのは、普通の日常。小母さんが居て、小父さんが居て、大樹くんが居て、そして響紀が居た、あの日常を求めているのだ。

 だから、そんなもの、私は要らない……!

 目に涙が浮かび、それが頬を伝って胸元へと垂れていく。次から次へと止めどなく流れるそれを、奈央はどうすることもできなかった。嗚咽を漏らしながら、畳に目をやる。

 このままじゃ、駄目だ。何とか、何とかしないと……!

 その時だった。

 不意に奈央の背後の襖が開いたのだ。

 反射的に、奈央は振り向く。

 その瞬間、奈央は大きく目を見張り、息を飲んだ。

「あら、やっと来てくれたの? 待ちわびたわ」

 母が言って、それに応えるように、彼は口を開いた。

「すまん、ちょっと手が離せなかった」

 そんな彼に、奈央は小さく、その名を呼んだ。

「ひび……き……?」

 響紀は奈央に一瞥を寄越すと口元をニヤリと歪ませた。その笑みはかつて奈央が見た事がないほどに不気味で悍しく、くつくつと喉の奥から発せられた音はあの下卑た笑い声そのものだった。姿形は確かに奈央のよく知る響紀であるが、その中身は全くの別人と化してしまったかのような佇まいに奈央は戦慄した。

 ――コレは本当に、あの響紀なのか?

 奈央のよく知る響紀はいつも偉そうでプライドが高く、その反面打たれ弱く繊細な性格をしていた。文句を口にしながらも家族思いで、決して小母や小父を蔑ろにはしてこなかった。たぶん、それは奈央に対しても。ただ不器用で、それを上手く表に出せないだけ。決してこんな目で他人を見るような人ではなかったはずだ。

 それなのに、どうして、こんな……

 響紀はそんな奈央の身体を舐め回すように爪先から順に視線を移動させると、気味の悪い嗤い声を漏らしながらその手を伸ばしてきた。

 奈央は縮こまり、大きく目を見開いたまま響紀を見つめ、身構える。依然身体は小刻みに震え、息は荒い。進退窮まった状態の中で、響紀の指先が奈央の足首を捉えようとしたところで、
「まだ、ダメよ」
 母が言って、響紀の手をそっと握りしめ奈央から引き離した。

 響紀は「でも、」と口惜しそうに表情を歪めたが、母はそんな響紀の首にその両腕を絡めながら口づけを交わした。それから慰めるように微笑み、

「まだ彼女は私たちを受け入れていないの。だから、もう少し待ってあげて。この娘はきっと、私たちを受け入れてくれるはずだから。それまでは、ね? 私が貴方を愛してあげる……」

 言って、母は吸い付くように響紀の唇を貪った。響紀も素直にそれを受け入れ、目を瞑り激しく舌を絡ませる。

 二人の荒々しい息遣いが室内に響き、ぴちゃぴちゃずるずると唾液を啜るような音がこだまする。その互いを求めあうだけの欲に塗れた光景に奈央は嫌悪を感じ、吐き気さえ催した。それは奈央のこれまで見聞きしてきたどのようなキスとも異なっており、己の母と響紀の禍々しいやり取りに動揺しつつ、しかし目をそらす事すらできなかった。ただ口元を手で覆いながら、じっと見つめることしかできない。

 やがて響紀の手が母の胸に触れた時、母はその手に自身の手を重ねながら、「ここではダメ」と響紀の耳元で囁き、チラリと奈央の顔に視線を寄越した。

「続きはあっちの部屋で、ね?」

 響紀はこくりとうなずくと、奈央に顔を向けることもなく襖を開け、廊下に出ていく。

 母もそれに続き、部屋を出て行こうとしたその間際、ニヤリと不敵な笑みを浮かべながら、

「――絶対に、覗いちゃダメよ?」

 言って奈央を部屋に一人残して、スッと襖を閉じたのだった。

 二人の足音が隣の部屋へ消えてからも、奈央はしばらくの間畳の上で身体を縮こまらせたまま微動だにせず、ただ襖を見つめることしかできなかった。静寂に包まれた部屋の中で聞こえてくるのは自身の乱れた呼吸のみ、しかしその呼吸もやがては落ち着き、無音がその場を支配した。

 誰も居なくなった部屋の中で、奈央はゆっくりと立ち上がった。ガクガクと震える膝を両手で支えながら、何とか一歩、足を踏み出す。

 逃げなくちゃ――

 奈央の脳裏に浮かんだのは、ただそれだけだった。

 母や響紀のことは確かに気になる。隣の部屋で何をしているのか、想像するのは簡単だったが、しかしそれを受け入れてしまうと自分の中の何かが音を立てて崩れてしまいそうで、とにかく今はそんな事を考えられるほどの余裕など無かったのだ。

 奈央は襖に手を掛け、それをすっと横にスライドさせる。先ほど母と対峙していた時には開けなかった襖が、今は響紀が現れた時と同じように簡単に開いた。すぐ目の前、ガラス戸を挟んだ向こう側に見えるのは、あの荒れ果てた小さな庭。僅かに見える空は相変わらずの曇天で、やはり世界を灰色一色に染めている。

 奈央は廊下に出るとガラス戸に手を掛けた。カタリと枠が鳴り、思わず背筋に怖気が走る。音に気付いた母や響紀が隣の部屋から飛び出してくるのではないかと恐怖したが、そんな気配はない。しかし、ここはなるべく音を立てずに玄関まで歩き、そこから外へ出た方がいい。

 そう思い玄関の方に体を向けた時、カチャンッ、と背後で音がして奈央は目を見張り立ち止まった。再び息が荒くなり、手足や膝が震え出す。

 見つかった……!

 思いながら、奈央はゆっくりと後ろを振り向く。

 その突き当たりに見えるのは、爪か何かで引っ掻いたような無数の傷が刻まれた茶色いドア。その僅かに開かれた隙間からは、何か激しい物音が聞こえてくる。耳を澄ませば「ふんふん」という荒々しい息遣い。パンパンと柏手を打つような音が何度も響き、ピチャピチャと水の散る音が混じる。

 いったい、アレは何の音か。あの部屋で何が行われているのか。

 奈央はそんな疑問を振り払い、今はとにかく逃げるんだ、と更に一歩踏み出そうとして――何故かそのドアの方へ向かって歩んでいた。

 ダメ、ダメよ! そっちじゃない! 逃げなくちゃ! 逃げて助けを求めなくちゃ!!

 けれど体は言う事を聞かず、気づけばその隙間から部屋の中を覗き込む自分の姿があった。

 暗がりの中を、奈央の視線が何かを探し求めるように彷徨い動く。

 果たしてそこに見えたのは、複数の人影。こちらに虚ろな瞳を向けて仰向けに寝転がる全裸の母に、何人もの黒い人影が群がっている。ある者は激しく腰を打ち鳴らして母を犯し、またある者はその血に染まる白い太ももに喰らいつく。振り乱された髪を一心不乱に己の逸物に絡ませ乱暴に扱う者や、中にはそのしなやかな指先を喰い千切り、咀嚼している者の姿さえあった。畳に広がるどす黒い闇は恐らく血溜まりで。

 その地獄絵図のような光景に、奈央は激しく動揺した。息をすることすらままならず、悲鳴すらあげられなかった。自分が今何を目にしているのか把握し切れず、けれど体の反応は正直だった。胃の腑から駆け上がってくる吐き気に抗えず、奈央はドアの隙間から身を引き、廊下に盛大に嘔吐する。

 そしてその吐瀉物を目にしたとき、
「――っ!」
 思わず息を飲んだ。

 そこには赤黒いネバネバした何かが広がっていたのである。

 最初奈央はそれを血だと思った。あまりのことに私は血反吐をぶちまけてしまったのだと焦りを感じた。けれど、その赤黒いものが激しく蠢き始めたのを眼にし、更なる恐怖が全身を駆け巡った。それはまるでナメクジか何かのようにウネウネとのたうち回り、廊下を転がり始めたのだ。

 何、何なの、これは! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!

 奈央は自身が吐き出したその蠢く何かから逃れようと後ずさり、とんっと背中に何かが触れて更に目を見張った。振り返ろうとしたところで、すっと奈央の両肩に白い手が触れる。

「――ひっ!」

 小さく悲鳴を漏らす奈央の耳元で、
「ほら、だから覗くなって言ったでしょう?」
 聞き覚えのある少女の声が、嘲るように囁いた。

 その瞬間、奈央は反射的にガラス戸側へ身を寄せるようにして体をひるがえした。ガンッとガラスの鳴る音が背後で響き、それ以上は逃げられない事実を奈央に突きつける。

 目の前にはニタニタと気味の悪い笑みを浮かべる喪服の少女。

 奈央の怯える姿が余程楽しいのか、喉の奥からはくつくつと嘲笑う声が漏れている。

 顔や袖から覗く手や腕には赤黒い斑点が無数に浮かび、それがまだ白く残る皮膚と相まって、異様な姿に見えた。

 化け物――!

 奈央は大きく目を見張り、戦慄した。
 
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