闇に蠢く・完全版

ノムラユーリ

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第1部 第4章・廃屋の少女

第10回

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 血走った眼は奈央を捉えて離さず、少女はすっとその両手を伸ばしながら、

「私ね、ずっと貴女が欲しかったの…… 貴女の髪が、眼が、鼻が、口が…… それだけじゃなくて、貴女の全部が欲しかったの。次に手に入れるとしたら、貴女以外には考えられなかったわ。けれどね、無理矢理は駄目。なかなか溶け合うことができないから。貴女が絶望して、全てを私に委ねてくれるようにしなければならなかったの」

 ぼとり、と何かが床の上に落ちる音がした。見れば、女の足下に赤黒い塊が落ちている。今しがた奈央が吐き出したものと同じ姿のそれは、ピクピク痙攣するとじわりじわりと床の間に溶け込み、やがて消えていった。あとには赤黒いシミだけが血のように生々しく残る。

 奈央にはこの女が何を言っているのか、そして今目の前で何が起こっているのか、全く理解することが出来なかった。

 そこにあるのは恐怖と焦り、そして戸惑いと身の危険。

 先ほど目の当たりにした母の亡き骸とそれを激しく犯す異形が脳裏に浮かび、今にも心が砕け散ってしまいそうになる。

 少女はそんな奈央を嘲笑い、甚振り楽しむように舌なめずりした。

「ほら、その顔……まるで私が父や母らを殺した時とおんなじ。助けを求めても無駄だって理解した時の、その表情が一番好き。貴女のお母さんもね、すごくいい顔をしていたわ。もう助からないんだって悟った時の、あの姿…… 今の貴女とまったく一緒……」

 少女はニヤリと口元をほころばせ、目を見開きながら奈央の肩に手をやる。

「……ひっ!」

 小さな悲鳴を上げた奈央はしかし、硬直したまま逃げ出すことすら出来なかった。

 頭の中は、この先わが身に降りかかるであろう想像を絶する恐怖に支配され、唯一の望みは“どうかこの恐怖が一刻も早く終わりますように”という、ただそれだけに取って代わられていた。

 口を僅かに開いたまま、わなわなと身を強張らせ震えるだけの奈央に、少女は微笑みを浮かべる。

「すぐに終わるから、安心して。私は貴女と一つになるの。もう、この身体は限界なのよ。私は私を留めておけない、よどみ過ぎて崩れちゃうの。時間がないわ。さあ、その身体を私に預けて。貴女の身体を私に頂戴」

 そう言った女の顔がゆらゆらと不気味に波打ち、瞬く間に老婆のそれへと変貌した。そして再びぐにゃりと歪み、少女の姿に変化する。その身体は曖昧で縮んだり膨らんだりを繰り返し、ぼたりぼたりと赤黒い塊を次々廊下に落とした。

 女の顔は赤暗く変色し、目は皿のように見開かれ、かつての美しさの一欠片もそこにはなかった。

 奈央は悲鳴を上げようとして口を開きかけて。

「――きゃ……んぐぅっ!」

 その口を塞ぐようにして、少女は唇を重ねてきた。

 あまりの事に奈央は驚愕する。

 口内を蠢く女の舌を拒むように奈央は顔を左右に振ったが、けれど女も決して離すまいと奈央の頬を両手で挟んだ。

 女の舌はしばらく口内を彷徨い、やがて喉の奥へと侵入してきた。そればかりか、食道の奥へと這うように奈央の体内を侵し始めた。その不快感に奈央は呼吸を失い、苦しみに悶えた。声にならない悲鳴と嗚咽。窒息死させんがばかりに奈央の胃の腑へ向かってソレは激しく蠢く。

 腹の中に異物が挿入される恐怖と痛みに奈央の目から涙が溢れた。

 このまま死ぬのか。ここで殺されるのか。

 こんな訳の分からない奴に、私は……!

 意識が遠のいていく中、奈央の脳裏には様々な景色や人々が浮かんでは消えていった。

 父、小母、小父、響紀、そして……大樹。

 あの後、大樹はどうしただろう。私が姿を消して、今頃何を思っているだろうか。必死に私を探してくれているだろうか。それとも――

 目の前に闇が広がりつつあった。もはや何も考えられない。目前に差し迫る死に対して、抗う気力すら失いつつあった。

 死ぬの? 私……

 ぼこんっと腹の中で何かが跳ね、奈央の身体が持ち上がった。少女はなおも奈央と唇を重ねたまま、その何かを奈央の体内へと流し込んでくる。

 ……嫌だ……こんなの、嫌だ……!

 自分の身体に何者かが侵入し、それが自分という存在そのものを別の何かに変えようとしているのが感覚で分かった。自分が自分ではなくなっていくようなその不快感に奈央は恐怖し、絶望する。

 ……やめて……嫌だ、やめて……!!

 手足が震えて力が入らない。暴れたいのに、この女を跳ね除けたいのに、自分の身体ではないようにまるで動かない。

 ……嫌……嫌だ……嫌、嫌、嫌、嫌、嫌!!


 その時だった。


 奈央の左腕のブレスレットから僅かに熱を感じたのだ。見れば、ブレスレットが淡く白く輝いて見える。掌に力を込めても握る事は叶わなかったが、肘や肩ならまだ上がりそうだ。

 これが御守りの力なのかは分からないけれど、いける。

 思い、奈央はぐっと左腕に力を込めた。本当ならこの女の顔を殴ってやりたかったが、拳を握り締められない以上、仕方がない。

 奈央は左腕に全神経を集中させ、手のひらで一気に女の顔を正面から押しやった。

 その途端、ずるりとした感触が左手に伝わる。見れば、女の顔がべろりと抉れ、ドス黒い中身が露わになっていた。

「ああっ……あぁぁっ!」

 女は叫び、呻き、奈央から飛び跳ねるようにして離れると、両手で顔を覆いながら狭い廊下を激しくのたうち回った。

 ガツンッとその身体がガラス戸に衝突し、グラリと揺れたガラス戸はゆらりと外れ、庭に落下する。その途端、甲高い音と共にガラスが粉々に砕け散った。

 奈央は咳き込み、えづき、腹の中から這い上がる何かを開け放たれた縁側へと盛大に吐き出した。赤黒い塊が次から次へと吐き出される。

 それらはずるずると地面の上で悶え蠢き、やがて弾けて土に溶けていった。あとに残るのは夥しい血のような赤。ぺっと唾を吐き、しかしそれでも口の中や胃の中の異物感全てを拭い去る事は出来なかった。

 奈央は大きく息を吸い、吐き、何とか呼吸を整えるとふと女の方に顔を向け、そして目を見張った。

 身体中の肉がズルズルと溶け落ちながらも、今もギラギラした眼で奈央を睨みつけ立ち上がる少女の姿が、そこにはあった。

 いや、最早少女は人ではなかった。

 人であろうと足掻くその異形の化物は、奈央を見据えたまま、足を引きずるように近付いてくる。どろどろに溶け始めたその身体からは、次々に赤黒い塊がべちゃべちゃと落ちていった。

 奈央はそんな女を恐怖に引き攣った顔で見つめながら、半ば落ちるようにして庭に降りた。尻を地につけたまま、這うように後ずさりながら逃げる。

 今一度助けを求めてブレスレットに触れてみたが、けれどいかなる力もそこからは感じられなかった。泥に塗れたそれは沈黙し、元のようにただのアクセサリーになってしまったようだ。

 何とかして逃げようと膝を踏ん張り立ち上がろうと試みたが、しかし震える膝はまるで言うことを聞いてはくれなかった。立ち上がることすらままならず、奈央はかつて人の姿をしていたソレに背を向け、匍匐前進するように必死に地を掻いた。

「にが…さ…な……わた、し……から…だ……!」

 背後に迫る女の呻き声。

 ぼたぼたと地を叩く異物の音。

 歩く度に地を引き摺るその足音に、奈央は再び背後を振り向いた。

「……ひぃっ!」
 瞬間、奈央は息を飲み込む。

 すぐ目の前に、およそ人の顔とも思えない赤黒い肉塊があって、真ん丸い目玉がギョロギョロと奈央を見据え、裂けた口からはあの赤黒い蛭のような塊がまるで舌のようにウネウネと蠢いていたのである。

 その恐怖と顔に掛かる息の生臭さに、奈央は今にも気が遠くなりそうだった。ドロドロの腕が奈央の顔に伸ばされ、もう駄目だ、と固く目を閉じた時だった。

「……奈央!」

 聞き覚えのある声が耳に入り、奈央は思わずばっと瞼を開いた。

 まさか、大樹が……?

 そう思ったけれど、声の質が明らかに違う。

 あの声は……

「……あっ」

 その途端、奈央は目を見張り、小さく声を漏らした。

 そこには女の身体に掴みかかり、力いっぱいに奈央から押しやろうとする――響紀の背中があったのだ。

「は……な、せ……わた……しの………から……だあぁっ!」

 だらだらと崩れゆく身体で呻く女を、響紀はしっかりと抱き締めるようにして井戸の方へとじりじり押しやっていく。

 これは、いったい――なんで、響紀が……?

 先ほど母と口づけを交わしていたあの雰囲気とはまるで異なり、その顔は奈央の知るあの不機嫌そうな表情そのものだった。けれどその身体はひどく頼りなく揺らめき、今にも消え去ってしまいそうなほど心もとない。

 どういうこと? なんで? どうして?

 戸惑う奈央に、響紀は視線を寄こしながら「奈央! 」と大きく叫んだ。

「俺がこいつを井戸の中に引きずり下ろす! お前はすぐに蓋を閉じろ!」

 その言葉に、奈央はさらに戸惑いを隠せなかった。

 井戸? 引きずり下ろす? 蓋? 

 あたふたと視点を彷徨わせる奈央に、
「井戸の下だ! そこに見えるだろうが!」

 その怒号に、しかし奈央はどこか懐かしさを感じていた。あれは間違いなく私の良く知る響紀だと思うのと同時に、だが今はそれどころじゃないとばかりに、井戸の下に視線を向ける。

 目を凝らせば、草葉の影に如何にも蓋として使用していたのであろう、大きさのトタン板が転がっているのが見えた。

 奈央は響紀に返答しようとしたが声が出ず、代わりにコクコクと頷いてみせる。

 響紀はそれを見て頷き返すと、女の方に向き直り、
「――帰ろう、一緒に」

 その瞬間、女の目が響紀の顔に向けられた。呻き声を漏らしていた口がぽかんと開かれ、その勢いが僅かに衰える。

 それを見計らったかのように、響紀は女の身体を一気に井戸へと押しやった。

 女ははっと我に返り、
「あぁぁ――あぁあ! ああああぁぁぁぁああぁぁああぁぁ――――――――!」
 絶叫し、激しく暴れだしたが、けれどその時にはすでにすぐ後ろに井戸の口が迫っていた。

「俺の家族に、手を出すなぁああぁ―――!」

 叫び声と共に、響紀と女の身体が井戸の中へと落ちていく。

 遠ざかる叫びを聞きながら奈央はしばらく荒い息を繰り返していたが、
「ふ、蓋を……!」
 響紀に言われたことを思い出し、精一杯の力を込めて立ち上がった。

 嘲るように笑う膝を必死に叱咤しながら、奈央はふらふらと井戸へと進む。

 草葉の間から古びたトタン板を持ち上げ、井戸の口に蓋をしようとしたところで。

「………っ!」

 ずるりと女がその上半身を覗かせ、視線が交わった。

 女は嬉しそうに口を歪ませ、大きく見開かれた目玉をギョロギョロさせながら、驚愕のあまり動けなくなった奈央に崩れかけた腕を伸ばした。

「から、だ……わた、し……の……!」

 勝ち誇ったように、女はにたりと笑む。

 奈央は咄嗟の事に身動きが取れず、ただその不気味な顔を見つめることしか出来なかった。

 全身が総毛立ち、絶望を極める。

 原型を留めないドロドロとした女の手がすぐ目の前に差し迫り、今まさに奈央の左腕を掴もうとする。

 ひ、ひひっと女は小さく嗤い、
「わた……し、の……か、ら、だ……!」
 がっしりと奈央の左手首を掴み、井戸の中へ引きずり込もうと強引にその腕を引っ張った。

「い、いやぁっ……!」

 奈央は恐怖に青ざめ、左腕を無茶苦茶に振り回した。その衝撃でトタン板がかつんと、地に落ちる。

 女の不気味な嗤い声が辺りに響き渡り、ぐいっと手繰り寄せられた、その時だった。

 女の手の肉がずるりと溶け落ち、滑るようにしてブレスレットに指が掛かったのだ。

 その瞬間、ブレスレットが強い光を放ったかと思うと、ばちんっと大きな音がしてぶつりと結び目が解けた。

「あっ……!」
 と奈央が声を上げた時には女の手は泥が崩れ落ちるようにダラダラとその形を無くし、
「あぁぁっ! ああぁぁ……っ!」
 再び井戸の闇へと落ちていった。

 奈央は一瞬呆然としたが、すぐにトタン板を拾い上げ、井戸の口を急いで塞いだ。

 しばらくの間隙間から女の声が漏れ聞こえてきたが、けれどそれもやがては遠のき聞こえなくなり、次第に辺りに静寂が戻っていった。

 ざわざわと木の葉のざわめく音が聞こえ、すっと周囲に彩りが戻っていく。

 奈央は肩で息をしながら、どさりと地面に崩折れた。

 耳を澄ませば遠くから車の走行音が近付き、やがて前の道路を走り去っていく気配を感じた。

 空を見上げれば雲間からは青空が覗き、陽の光が庭に差し込みはじめる。そこにはただ、荒れた庭があるだけだった。先程まで転がっていた異形の肉片すら、すでにそこには見受けられない。

「……お! ……奈央!」

 どこからか聞こえてくる声に、奈央は頭を上げた。

 この声は、大樹だ。大樹が私を探してる……!

 しかし、返事をしようにも何故か声が出せない。喉の奥に何かが詰まっているような感覚に、奈央はぺっと唾を吐き出した。

「……っ!」

 吐き出されたのは、赤黒い小さな塊だった。

 奈央は思わず目を見張り、しかしその塊もまた陽の光に当たるとじゅっと音を立てて蒸発するように消えてしまう。

「奈央!」

 すぐ近くから大樹の声が聞こえ、奈央は顔を向けた。見れば廃屋の影、玄関の方から姿を現した大樹が奈央の姿に気付き、慌てたようにこちらに掛けてくるところだった。

 大樹は奈央の身体を抱き起こしながら、
「大丈夫? 痛いところとかない? 何があったの?」
 大樹の温もりが伝わってきて、奈央は堰を切ったように嗚咽と涙を溢れさせた。

 大声で泣きじゃくりながら、大樹の身体にしがみつく。

 そんな奈央の様子に大樹は戸惑いつつも、けれどそれ以上は何も聞かず、ただしっかり受け止めるように、ぎゅっと奈央の身体を抱きしめてくれるのだった。
 
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